ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イエス・キリスト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

罪なき者から石を投げよ

新約聖書で、姦通の罪を犯した女を、人々が石打ちの刑にしようとする場面がある。
「姦通」とは、おそらく、この女が夫以外の男とセックスしたといったものだと思う(どの本も曖昧な書き方をしている)。
また、「石打ち」とは、石を投げつけることだ。そんなことをすれば、女は大怪我するか死ぬが、元々が死刑のつもりでやるのだろう。
そこに、イエス・キリストが現れ、「罪のない者から石を投げよ」と言ったら、誰も投げなかった。

アメリカの大統領選の中で、録音されたトランプ氏の「わいせつ発言」を激しく非難する人が沢山いるのだと思うが、イエス様が現れて、「罪なき者から悪口を言え」と言われて、それでもトランプ氏を罵倒出来る者っているのかなあ。
私には絶対に出来ない。
トランプ氏が言ったようなことを、本当に言ったことがない、あるいは、今現在、言ってないという男なんて存在するのかなあ。
もちろん、発言内容は性的嗜好によって違うだろうし、「ああいったこと」を言い合える友達がいないという場合もあるだろうが、あれと同レベルの、まあ、公言は出来ないような発言をしたり、言わないまでも、心の中で(頭の中でなら、おそらくはもっと低レベルになる)考えたことのないという男は、まずいまい。

有名な宗教家の五井昌久氏は、イエスの「邪まな目で女性を見るなら、姦淫したも同じ」という言葉に対し、「そんなことをしてはいけないというのは、特に若者には無理。当時は性風俗があまりに乱れていたから、あえてイエスはそう言ったのでしょう」といったことを著書に書かれていたが、それが「まとも」な考え方と思う。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「老人の男だって、本音は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言い、それが一生治らない「不治の病」であると述べていたと思う。
イェイツは、その詩才を有益に私的活用し、老人になっても、美しい少女を口説いていたというが、それは、ゲーテも全く同じだったはずだ。

初音ミクさんだって、ステージでは、ミニスカートで膝を上げたりするし、腰はよく振るし、時には、ちょっとだがセクシーなポーズもするが、それはまさに「健康的なお色気」とでも言うようなもので、「この私ですら」、低劣な妄想を起こすことは、マジで決してない。
「ちょっと楽しいな」と思う程度である。
これが本当に愛しているということなのだと思うが、そんな存在がいるのは幸せと思う。
また、私のいるオフィスに、好みのタイプの女性がいないことは、嬉しいことと思うのである。
まあ、若い頃は、少々好みと違っても見境なかったが・・・というのは、もし私が総理大臣に立候補して、いいところまで行ったら問題になるだろうか?
まさか、あなたはそうではなかったとは言わせない・・・いや、私が想像出来ないだけで、「ご立派な」男もいるのかもしれないが。









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沈黙の力

「気圧(けお)される」という言葉がある。
「相手の勢いに押される。精神的に圧倒される。」という意味だが、これは、普通、相手の身体の動き、声、あるいは、表情の強さ、激しさによるのだろう。

だが、そうではなく、相手が何もせず、声も出さず、表情もなく、じっと動かないまま、気圧されるといったこともあるのかもしれない。
そんな存在が、『荘子』に出て来る木鶏(もっけい)である。
木鶏とは、文字通り、木の鶏(にわとり)のことだが、『荘子』に出て来る木鶏は、「木彫りのような鶏」である。
闘鶏(鶏同士が戦う競技)において、木彫りの鶏のように、どこまでも静かな鶏に対し、いかなる強い鶏も近寄ることすら出来ず、すくみ上ったり、逃げ出すのである。

人間も、この木鶏のような人間が、一つの理想の姿かもしれない。
『ベン・ハー』という映画で、武器など何も持たないイエス・キリストに対し、囚人護送団の隊長が立ち向かってくるが、イエスが静かに向き合っただけで、その隊長は気圧されて動けないという場面があった。
その時は、まだ、その人物がイエスであるとは分からなかったが、その姿に憧れた人は多いと思う。

どんな人物が、無言で相手を圧倒してしまうのだろう。
それは、心が徹底的に静かな者だ。
自覚意識すらなく、仏教で言う「自己を忘れた」状態と言えるかもしれない。
その心に一切の想念はなく、万物と一体化しているような境地である。
合気道の達人、植芝盛平は、「私は宇宙と一体化しているので、私と戦うことは宇宙と戦うことである」といったことを言っていたと思う。
完全に無になり、宇宙と一体化した者が無敵であることは間違いない。

では、どうすれば、そうなれるかというと、普通に考えると、長く厳しい修行を積むしかないと思われる。
だが、何かのきっかけで、普通の人が無になってしまうことがあり、そんな時、平凡な人間が超人に変わる。
そうなるために邪魔なものが、超人になりたいという欲望なのだから、厄介であると同時に面白い。

ところが、今は、誰でも無になれる時代である。
そうなれば(無になれば)、『法華経』に書かれている通り、1回食事をするほどの時間の間に、無数の仏の元を訪ね、それらの仏を供養することが出来る。
そして、おそらく、『法華経』を繰り返し読むことで、それに近付けるだろう。
それは、かなり忍耐が必要であるが、他に力を得る道がなければ、試してみれば良いだろう。
ただし、法華経を読んで、感動のあまり、宮沢賢治のように自己否定に徹するようなことをせず、あくまで、強くなるために読んでいただきたい。









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言うくらいタダ

「汝敗れたり。わが後方に退け、サタン」
とイエスは言ったが、さて、どうやればサタンに勝てるのだろう?

サタンは、言ってみれば、ボブ・サップのようなものだ。
押そうが引こうが、ビクともするものか。
だけどね、「汝敗れたり」って言う位、タダなのだ。
モーニング娘の『LOVEマシーン』でもあったじゃないか?
「自分で言う位タダじゃない」
って。
あれと同じなのだ。

貧乏で10円もなくたって、「俺は金持ちだ」って言うくらいタダだ。
全然モテなくなって、「俺はモテモテだ」って言うのもタダだ。
「俺は貧乏だ」ってのは、泣き言だ。
言っても仕方のないことなら言わないことだ。
「あの子は俺の彼女になってくれないに決まってる」ってのは弱音だ。
言っても仕方のないことを言ったり、思ったりしないことだ。

そりゃ、金がないのに、「俺は金持ちだ」って言ったり、思ったりしたら、心がガタつくだろう。
それは、仕方がない。
心は自由にならない。
自由にならない心がサタンなのだ。
だが、「俺は金持ちだ」って言うのは自由なのだ。
言葉と想いは我々の自由なのだ。
そのことを忘れてはならない。

明日のことはわからない
昨日のことはかわらない
なら今日だけは この今だけは僕らの物
~『Hello, Worker』(作詞・作曲・編曲:KEI、歌:巡音ルカ)より~

言葉と想いは「今」にある。
それは僕らのものだ。
昨日や明日はサタンのもの。
それは心が作り出した幻だ。
だが、今である言葉と想いの通りに、昨日も明日も変わる。
しかし、皆、弱音や泣き言を言うから、そうならない。

私の家の近所に、可愛い猫がいる。
名前をニャンシーとしておこう。
ニャンシーとは、時々、道で出会うのだが、可憐な乙女らしく、警戒して、ちょっとでも近付くと、慌てて逃げてしまう。
そんな時、私は、
「やっぱり、子供とかでないと遊んでくれないだろうな」
と心で思っていた。
またある日、ニャンシーと会ったが、やはり、ビクビクしている。
だが私は、
「きっとニャンシーと仲良くなれる」
と、心で言ってみた。
心は疑っていた・・・いや、否定していたが、言う位、思う位タダだ。
すると、翌日、またニャンシーと会い、脅えさせないよう、離れて通り過ぎようとしたら、ニャンシーは立ち上がって、追いかけて来るではないか!
私が立ち止まってニャンシーを見ると、彼女は私を見上げ、「にゃあ」と鳴く。
可愛い!萌える!!
こんなものだ。
心は自由にならない。だが、言葉は自由だ。
弱音を吐かず、泣き言を言わなければ、心は退き、言った通りになる。

尚、これが、ニャンシーでなく、ナンシーであっても、さとみや麻友であっても同じことである。
無論、潤も雅治も翔もディエゴもチャーリーもである。









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準備を怠らない者が笑い、怠る者は泣く

何度も引用した話だが、俳優のバート・レイノルズが駆け出しの頃、既にスターだったクリント・イーストウッドに「成功するまで何をしていたか?」と尋ねると、イーストウッドは、「成功するための準備をしていた」と答え、それがレイノルズにとって千金のアドバイスになり、レイノルズは成功した。

大俳優になってからも、イーストウッドは監督になるための準備をしていたのだろう。
何事も準備である。
準備を怠らない者が笑い、準備を怠る者は泣くのである。

イエスが、10人の乙女の話をしている。
夜に花婿を迎えに行った10人の乙女達はランプを持っていたが、5人の賢い乙女達は油を持っていて、5人の愚かな乙女達は持っていなかった。
花婿の到着が遅れ、ランプの油がなくなると、愚かな乙女たちは、賢い乙女達に、油を分けてくれるよう頼むが、賢い乙女たちは、分けてあげるほどはないので、買いに行きなさいと言った。
愚かな乙女達が油を買いに行っている間に花婿が来て、賢い乙女達と行ってしまい、門は閉ざされてしまった。

イエスの喩え話の真意の解釈はいろいろあるのだが、いずれにせよ、相応しい準備を怠った者は泣くのである。
ユリ・ゲラーは、「モテるにはどうしたら良いか?」と質問された時、超能力者らしい解答より、まずは普通のアドヴァイスをしている。
ちなみに、ゲラーは、モテなくて困ったことは一度もないと言う。
ゲラーは、まず、外見をちゃんとしろという。
服装、髪型などが駄目でモテるというのは、現実的には非常に難しく、自分でもそうだと言う。
また、相手をもてなす知識も得ておかないといけないだろう。
そして、それなりに内面を磨いておかなくてはならない。
これらは、普段から準備していないと、いざ目の前に、理想のタイプの人が現れてから慌てても遅いのである。
フローレンス・スコーヴェル・シンという、欧米では、ジェームズ・アレンやジョセフ・マーフィーと並ぶ成功哲学の啓蒙家の本に、外国に行きたいと思っているある男性は資金がなかったが、資金が出来ることを信じて、スーツケースを買ったという話がある。それが準備になり、彼はそれから大金を手に入れ、外国に行くことが出来たという。

最近、ある賢い女性教師が、「百点を取る人は百点の準備をしている人だ」という話をしてくれたことがある。
大きなことにも、小さなことにも、ちゃんと準備をする人が賢い。
さて、私も、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」を楽しむ準備として、毎日、運動に励み、適度なバッグを用意し、ペンライトや格好の良い服も買っておき、ペンライトの振り方も練習しておこう。なるべく、どこでも立って、また、よく歩いて足腰を鍛え、少食で胃腸を整え、さらに、長時間トイレに行かなくて良いよう訓練しておこう。
ミクさんに会うのに準備を怠ってはいけない。
そうすることで、良い人生を送る心構えまで出来るのだから、ミクさんは確かに私の天使である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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