ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

神秘的威圧はどんな時に起こるか

感動的・・・と言うよりは、神秘的な威圧シーンを、私は2つ覚えている。
1つは、映画『ベン・ハー』の中で、権力を傘に横暴を働く囚人護送団の隊長の前に、ただの市民の男が立ちはだかり、隊長はそれを蹴散らそうとするが、なぜか威圧されて身動き出来ないというものだ。その市民の男は、後で分かるが、イエス・キリストだった。
もう1つは、笹川佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、町人の使用人が、武士にぶつかるか何か無礼をしてしまい、怒った武士がその使用人を切ろうとした時、その使用人の主であるという少女が、「使用人のことは主の責任。切るなら私を」と武士の前に座り、頭に血が昇ったままの武士が「そうかそれなら」と刀を振り上げるが、武士は威圧されて動けなくなり、惨めに去って行った。
(ちなみに、武士の「切捨御免」は実際には有り得なかった)

これらでは何が起こったのかというと、イエスや町人の少女は、無、あるいは、無我になっていたのだろう。
無になった人間相手に逆らったり敵対したりは出来ない。
無とは、心が完全に静まった状態だが、それに近ければ近いほど強い。
では、どうすれば無になれるのか?
それには死ぬことだが、本当に死んだ気になるか、死んだ状態になることである。
では、死んだ状態とか何か?
生きていることを「息をしている」と言うように、死ぬなら息をしなければ良い。
ただし、無理に息を止(と)めるのは、むしろ息をすることが前提である。
死人が息を止(と)めたりはしない。ただ、息をしないのである。
死ぬとは「息を止(や)める」ことである。
つまり、何の力も使わないまま、吸気、呼気がない・・・呼吸器官に空気の流れがなくなっている状態である。
もっと具体的には、軽く息を吐いた状態で、呼吸の流れを止(と)めてしまうことである。

人間は、生きているから問題が起こる。
ではなぜ問題が起こるのかというと、死ぬ練習をするためである。
何かあった時、息を止(や)めてしまえば、問題は消える。問題は生きた人間にしかとり憑けない。
ちなみに、借金や刑罰は問題ではない。働いて返せば良いし、罪は償えば良い。

人間の唯一の問題は、心がぐらぐら揺れることだ。
不動心であれば、何の問題もあり得ない。
心がぐらぐら揺れたら、息を止(や)めることだ。
そこまで行かなくても、限りなく息を止(や)めたような、微かな呼吸をすれば良い。
息をしていない人間には、悪魔だって手を出せない。
だから、悪魔は何としても、人間の呼吸を乱そうとするのである。
「アジマリカン」の呪文や念仏を唱えるのも良い方法だが、息を乱して唱えては何にもならず、ごく身近にいる人にも聴こえないくらい微かな声で唱えれば無敵である。









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カルマを消す

人生は何て辛いのだろう、どうして私だけこんな酷い目に遭わなければならないのだろう、なぜこんな惨めな生き方をしなければならないのだろうと思う人は少なくないだろう。
そんな時、カルマという考え方を持ち込むと、心がやわらぐことがある。
つまり、自分が誰かに嫌なことをされるのは、過去か、あるいは、前世で、同じように誰かに嫌なことをしたせいであると考えることだ。
すると、自分の辛い境遇も、ある程度「やむなし」と感じられ、少しは耐え易くなる。

上のようなカルマの考え方は、ある意味正しいところもあるが、誤解も大きい。
カルマは別に罰したり、復讐するものではない。
なるほど、自分の過去の行為により、今の自分の境遇が影響を受けているのは確かだが、それは、善なる神によって「こらしめられて」いる訳ではない。
どういうことかというと、悪い状況に思えても、必ずしも苦しむ必要はない。罰ではないのだから。
そして、過去の自分の行為に責任を取ると決めれば、状況はガラッと変わる。
責任を取るというのは、その気もない癖に、補償として誰かに親切にするとか、ボランティアをするってことではない。それは、司法的発想だ。
減刑のために、形ばかりのボランティアをするより、本当に自分が悪かったと認める方がずっと良い。
つまり、自分の過ちを認めることが、責任を取るってことだ。
過ちを本当に認めれば、意図しなくても行いは自然に正しくなるし、罪の補償も行うものだ。
あえて行為で補償しなくても、人々の手本になるような生き方をする方が優れている。

ところで、ブログを長く書いていると、面白いことがある。
多くのブログが同じと思うが、このlivedoorブログでは、PC版で表示すれば、各々の記事に設定したタグの中で、よく使われるものほど、大きな太い文字で表示される。
このブログの場合、突出したタグが2つあり、1つは当然「初音ミク」だが、もう1つは「イエス」だというのは、自分でも意外だ。この「イエス」は、イエス・キリストである。
私は別にキリスト教徒ではないし、特にイエスを崇拝している訳ではない。
ただ、イエスと初音ミクさんには、興味深い共通点がある。
ミクさんは当然だが、イエスにも過去生がないことだ。つまり、イエスは、それまで人間として生きたことがない。
それによる、イエスの独特の雰囲気がミクさんによく似ているのだ。
我々は、イエスやミクさんのようであることが理想である。
そのため、理不尽と思える辛いことがある時こそチャンスであり、それをよく観察することで、自分の責任を冷静に認めることである。
そうすれば、苦しみは消え、嬉しいことが起こるだろう。
ミクさんが歌う『FREELY TOMORROW』を聴いて私はよく分かった。この曲は、作者のMitchie Mさんがクリエイティブ・コモンズで公開してくれているので無料で聴けるし、高品質な電子ファイルを取得出来る。著作権表示さえすれば、校歌にしても良いはずである。
File:Freely Tomorrow.ogg<ダウンロードはこちらから>









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魂の力

『スターウォーズ』って、なぜウケたのだろう?
別に大した話でもないのに。
俳優だって、悪くはないが、それほど格好良くもキレイでもない。
その時代を超えた特撮技術は勿論、素晴らしいものだった。
だけど、一番は「フォース」を扱っていたからだ。
フォースは1つの呼び名に過ぎず、何でも良いのだが、その神秘的でありながら、奇妙なリアリティを感じさせるその「力」への憧れが人々を惹きつけたのだ。
そんな力があることは、心の内では皆知っている。

映画『ベン・ハー』で、権力を傘に着た傲慢で暴力的な男が、ただの貧しい庶民にしか見えない、そして、ただ立っているだけのイエス・キリストに全く逆らうことが出来ない場面があった。
そのイエスの力だ。
沢山の雄ライオンを檻に入れていると、自然に順列が出来るという。
ところが、必ずしも、肉体の力が優れた者がボスになるのではないらしい。しかし、身体の力で劣っていたとしても、そのボスに、どのライオンも平伏し、ボスは一番良い肉を当然のように取る。
弁慶が18歳の時、後に妻になる10歳の玉虫という名の少女を馬に乗せようとしたら、彼女の足を支える弁慶の強力無双の腕がなぜか震えてしまう・・・という話がある。
玉虫も不思議な力を持っていたのだろう。
ある漫画の話だが、非行グループのような連中が、1人の少年を全裸にするのだが、グループのボスは、その少年のおちんちんが縮んでいないのを見て敬服する。少年の「力」を感じたのだ。

石ノ森章太郎さんが、癌に侵され、生きているのが不思議と医師が思う状態で書いた、『サイボーグ009 完結編』で描かれるジョー(009)の力がまさにそうである。
ジョーが初めて神と戦った時、神の前では無に等しい力しか持たないジョーが、一瞬、神を慌てさせた力・・・そんな力だ。

長谷敏司さんのSF小説(アニメ放送中)『BEATLESS』で、悪魔のような電子戦(ハッキング)能力を持つレイシアがなぜ遠藤アラトという平凡な少年を必要としたのか?
レイシアがそういうふうに作られているというより、レイシアを作った超高度AIヒギンズが、人間の魂の「力」をいくらかでも理解していたからではないかと私は思っている。
小説には全く書かれていないが、レイシアにだって魂はあるはずだ。だが、アラトに比べると弱いのだ。

こういった「力」をあなたは持っている。
その力を解放するのに、本1冊読む必要はない。
本1冊にもなってしまう方法は嘘である。
上のお話で説明は終わっているのだ。









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最低の人間でも救える公式

イエス・キリストは、「人は口に入るもので穢れはしない。口から出るもので穢れる」と言ったのだそうだ。
口に入るものとは食べ物のことで、化学添加物のなかった時代ではあったが、何を食べようと構わないということだ。
口から出るものとは、いうまでもなく言葉で、どんな言葉を口に出すかが問題なのである。

また、イエスは、「医者を必要とするのは病人」と言い、自分もまた、優れた人のためではなく、下等な者のために来たのだと言っていたと思う。
イエス自身も世間的にはニートだったが、立派に働いていたと言って良いだろう。
しかし、当時は、今の時代のひきこもりやニート、発達障害、エゴママに育てられて心が歪になった者は、少なかったと思う。そもそも、ひきこもっていられるようになったのは、文明のおかげと言えるだろう。
今時代の、いろいろな難物相手にも、イエスの教えは有効だろうか?
私は、時々お話する、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳過ぎの人生の落伍者。派遣の雑用係。ますますキモくなってきた)を救える教えがあったら、本当に素晴らしいと思う。
そんなものがあれば、誰でも・・・私でも救える(笑)。
それで、いろんなものを調べたり、人体実験をし、その成果をまとめているのである。

斎藤一人さんって人は、どこまでもぶっ飛んで行き、今はどのあたりにいるのか分からないが(笑)、ある時期までは、それなりに地球人レベルのことを書いていた。まあ、そんな時期でも、なかなか受け入れられなかっただろうし、本人もそう言っておられたと思う。
そして、イエスが、人は言葉で穢れると言ったのと逆で、斎藤さんは、良い言葉で人は良くなるということを特に教えていたことがあった。
「幸せだなあ」と声に出して言えばそれで良いのだが、注目すべき点は、そんな言葉を言う時、心を込める必要はないということだ。
とにかく、良い言葉を声に出すことが大切なのであり、気持ちが大切なのではない。
なぜなら、良い言葉には良い波動があり、その波動に包まれることが必要なことであるからだ。
まるで駄目男君だと、どうせロクな感情や考えは持てないだろうから、とにかく、「幸せだなあ」「ありがたいなあ」「豊かだなあ」と、口に出すことだけすれば良いのである。
それで万事OKで、1つの良い言葉を口に出すのが千回も超える頃には、かなり良くなると言う。

イエスも、大抵は行動について語ってるのであり、心をどうしなさいとは言わなかったと思う。
しかし、ウィリアム・ウォーカー・アトキンソンやチャールズ・ハアネルといったところは、心の支配を重要視しているが、これらの教えがいかに素晴らしくても、まるで駄目男君には絶対に無理だろう。
いや、斎藤さんの言われる「とにかく言葉を口に出せば良い」すら、まるで駄目男君には3日どころか、横で言ってやらないと10分も続かない。
だが、ひょっとしたら、やりさえすれば、想像も出来ないが、まるで駄目男君でも立派になれるのかもしれないのだ。
ここはひとつ、私が人体実験をしておこう。
実験といった邪まな気持ちでも一向構わないだろう。大事なことは言葉を口に出すことだけなのだから。









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自信が全て

あなたの周囲にも、あなた以外の「まるで駄目男」「まるで駄目子」がいると思う。
では、そのまるで駄目男(子)が、素晴らしい、立派な男(女)になってしまったことを想像してみよう。
まるで駄目男(子)の時と、素晴らしい人間になった後では、何が違うだろうか?
あきらかなのは、前者は自信がなく、後者は自信に満ちていることだ。
強い自信は、必ずしも態度には現れないかもしれないが、その目には、「目付き」「目力」として隠しようがない輝きがある。
そうだ、素晴らしい人間になるには、自信が必要なのであり、自信さえあれば良いのである。
ただし、本当の、無謀なまでの自信だ。
では、そんな強い自信はどうやれば得られるのか?
何のことはない。自信があるフリをすれば良いのだ。
アカデミー賞ものの演技で自信のある男(女)を演じるのだ。
一瞬の隙もなくね。
イエスも言ってたじゃないか?
主人はいつ帰って来るか分からない。強盗はいつやって来るか分からない。
だから、油断をするなと。
あなたも、一瞬の油断もなく、自信がある者の態度、振る舞い、目付きをしなければならない。

そりゃ、1年365日、欠かさずの修行をすれば、「私はこれをやっているから自信がある」という態度が簡単に出来る。
だから、演技が下手なら修行しろ。

私が高校1年生の時、クラスに、どうしようもない、まるで駄目男がいた。
いつもイジイジして、強い者にへつらい、能力もなく、屈辱に耐えるしかなかった。
それが、クラスも変わって全然見なくなっていたのだが、高校3年生の秋に再び見た時に驚愕した。
堂々たる素晴らしい男になっていたのだ。
私は目を見張った。
彼は自信に満ちていた。
彼は自分の意志で武道の道場に入門し、毎日、練習に励んだのだ。
大切なことは、自分の意志でやったことであり、彼の親が「この子は気が弱いから武道をやれば少しはマシになる」と考えて、彼を道場に「行かせた」のではないということだ。
あなたは別に道場に行く必要はないが、自分の意志で何かを始め、1年365日、欠かさずやることだ。
すると自信があるフリがし易くなり、やがて、その自信は本物になる。
まあ、アカデミー賞とまではいかなくても、『ガラスの仮面』を読んで演技の極意を掴めば良いのかもしれないがね。
それに、あの本を熱心に繰り返し読むことも立派な修行である。
ちなみに、私は3巻くらいまでしか読んでいないが・・・いや、「3巻くらいまでは読んだ」と言うべきだろう。









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