ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
ソフトウェア開発技術者、Hikikomori、スーパーダイエッター、神秘思想家Kayのブログ
決して、一般受けするブログではありません。誠実に人生を遊びつつ、誠実に世間の幻想を叩き壊すことを目的とします。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
Twitterは、ちゃんとプロフィールが書かれ、1週間以内に1回でもツイートされている人なら、フォローしていただければ、大抵フォロー返します。

[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

運命が決まっていることは実際にあらゆる聖典に述べられている

人の一生に起こる出来事や、人が何を考え、何を言い、何をするかは、運命として、生まれる前から完全に決まっていて、決して変えられることはないということは、本物の賢者達は全てそう言ってっきたし、賢者達によって書かれた聖典にも常に書かれているのである。
だが、それを読み取れない者が多いのであるが、それは読む方の問題である。
『スーパーマン』シリーズの映画の中で、スーパーマンと同じ能力を持つ3人の悪党が登場したことがあるが、スーパーマンが人間を保護していることに対し、その3悪党は、スーパーマンは人間をペットにしているからだと思うのだが、その3悪党には、そのようにしか理解できないのだ。我々が真理を理解できないのも、同じようなものである。
イエスは、使徒と名付けた12人の高弟達に、「お前達でさえ、それほど鈍いのか」と嘆きを表していた。
そして、彼らの無明さは、福音書の中で、彼らの眠りで表されている。イエスは「私が戻るまで起きていなさい」と言って、山に入って祈ったが、戻ってみると、彼らは眠っていたのだった。

運命が完全に決定されていることを、最もはっきり述べている聖典は、『新約聖書』と『荘子』だと思う。
イエスの行動も全て、旧約聖書の中に述べられた預言者達の言葉から、全く外れることはなかった。
『荘子』も、少し注意深く読めば、かなりはっきりと述べているのだが、多少曖昧に感じるのは、後の人が手を加えたところがあるのかもしれないと思う。
だが、荘子は一貫して、この世は真宰とでもいう存在によって完全に支配されていて、人もそれに完全に従うより無いと述べている。ただし、それを受け入れ、人が浅はかな知で価値判断をすることがなくなれば、永遠の道(タオ)と一体となることができることもまた、はっきり述べているのである。

釈迦の教えとなると、元々が、釈迦自身は何も書き残しておらず、その教えは言葉で伝えられたので、当然、歪められる恐れはあった。しかし、その真意を理解できた者のみが正しい教えを書き残したのだ。
しかし、ほとんどの釈迦の教えは、学者的な僧達によって、複雑で実のないものになってしまったようでもある。
とはいえ、真の賢者達は、釈迦の教えの正しい部分を見つけることが出来るである。そして、釈迦もまた運命の絶対性は完全に認めているのである。ただ、釈迦の場合は、自由意志を持ってる自分は本当は存在しないといった言い方をしているのである。

面白いのは『バガヴァッド・ギーター』で、本当にこれを書いたのは神ではないかと思えてしまうのだ。
至高神クリシュナは全ての真理を知っているが、この書の中で教えを説く相手はアルジュナ王子で、アルジュナには聖者になる素質はないのだ。だが、だからこそ、アルジュナ同様、凡人である我々は、かたじけなくも、高い位置から降りてきてくれたクリシュナの易しい教えを聞くことが出来るのである。
クリシュナは、運命が確定されていることを、やや婉曲に(露骨でなく遠まわしに)説きはしているが、よく読めば、かなりはっきり述べているのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、民衆を哀れみ、ほとんど直接には真理を語っていないが、結局は、天照大神に全て任せよと言い、人間の無力さをさりげなく教えていたのである。
ラマナ・マハルシは、ほとんど沈黙でもって教えたが、やはり、無知な凡人のために言葉で説く時は婉曲に説いたのであると思う。

運命がどうとかいった、些細な問題を初めから超えて、もっと根源的な真理を解いたのが『老子』や『エメラルド・タブレット』だ。これらの書は、頭で解釈しようとしても、全く意味はないものだ。
だが、読むことが無駄な訳ではない。我々の内には、我々の運命を創った至高の存在がいて、これらの書の教えはそこと同調し、いわば、我々を挟み込むのである。
それはなんとも素晴らしいことだ。













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砂の城は作ったら壊すものだ

江戸時代の観想(顔や身体の相から運命を鑑定する占術)の大家、水野南北が、膨大な数の鑑定を行いながら人々と対話し観察した末、万に1つの外れもなしと断言したことは、「食が少なければ幸福、食が多ければ不幸」ということである。
彼の鑑定の信頼性は比類なく、全国から鑑定依頼者が押し寄せて、南北は7つの蔵を持つ長者となり、弟子は孫弟子等も含めると千人を超えた。また、牢屋敷(刑務所)に入れられた元チンピラヤクザであった彼が、天皇により貴族にまで序せられた。皇室からも鑑定の依頼があり、そして感服させたからだ。ついでに言っておくと、当時の牢屋敷は、生きて出られるかどうかなど全く分からないようなところで、それが、江戸の治安維持に役立っていた。そこに入れられるのは、余程のことであった。

少食・粗食なら健康で幸運、大食・美食であれば、不健康で衰運というのは確かと思う。
ただし、十分な食欲を持った上での食の慎みであることが大切だ。
病気や精神的な問題で、いわば強制的な少食、粗食を強いられている場合は、食を慎んでいることにはならないのだ。
ある国で、政府により、数年間の沈黙を強制された政治活動家が、「完全なマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言したことについて、ラマナ・マハルシは「強制された沈黙はマウナではない」と指摘したことがあったのと同様である。
マハルシ自身は、16歳で悟りを開いた後、3年以上のマウナを行った。実際は、マハルシは生涯に渡って、ほとんど会話をしなかったと言われる。彼は、最も重要なことは沈黙をもって教えたのである。だが、それでは伝わらない平凡な人間を哀れんで、会話でも教えたのだ。それが現在も書籍で伝わっている。

即ち、健康で幸運に恵まれたいなら、ただ食を慎めば良いということになる。
ただ、誰もが思うままに食を慎むことが出来るわけではないのだ。
これは、根性とか品性の問題ではなく、食を慎むよう運命付けられていなければ、決して食を慎むことは出来ないということなのだ。
美味しいものを沢山食べることが人生の目的と心得る者に、いくら食の慎みを説いても無駄である。
また、昨今は、テレビその他で、人々に飽食・美食の欲望を煽るものが非常に多いが、これもまた必然であり、それに乗せられている多数の人々は悲惨な状況に落ち込む運命を果たさなければならないのだ。
私は、2008年7月までは、大食、肉食で、しかも、甘いものに目がなく沢山食べていたが、ある日突然、1日1食の菜食主義者となり、間食の一切をしなくなった(現在は、朝に甘いものを少し摂る)。別に病気で食欲が無くなった訳ではない。ほとんど気紛れのようなものだった。それが4年近く、全く問題なく続いており、その間、健康度は飛躍的に上がり、エネルギーに溢れるようになって、毎日1日も欠かさず肉体トレーニングを行い、幸いにして、美的で強靭な肉体の持ち主になった。

少食と健康・幸運の秘密はこうである。
宇宙を動かす至高の英知を神と呼ぶなら、人の生涯の運命は、神によって、生まれる前に完全に決められている。それは、決して変更されることはなく、まして、人がそれに影響を与えることは絶対に出来ない。
そして、神によって、健康で恵まれた状況で過ごすよう運命付けられた人間というのは、同時に、神によって、食を慎む性質が与えられているのである。
水は高いところから低いところに流れるし、熱は熱いところから冷たいところに移動するが、それがこの世の法則である。それと全く同様に、食を慎めば肉体は活性化して完全になり、衣食住の獲得は簡単になり、社会生活も安楽になるのが、この世の法則なのである。
だから、健康で幸運になるよう定められているなら、食を慎むようになることが、神によって運命付けられているのである。

では、食を慎むよう運命付けられていない者はどうすれば良いのであろう。
若い間は、比較的、大食であっても健康や運勢に影響は無いのであるが、ある程度の年齢になれば、そんな食生活のままでは、肥満して醜くなり、健康は損なわれ、社会的な状況も厳しくなるのである。それは避けられない。
水が低いところから高いところに流れないように、大食、美食であって、健康で安楽であることはない。

だが、真の幸福である平安に関しては別なのだ。
食を慎み、健康で社会的にも恵まれていても、必ずしも幸福で平安だとは限らない。
一方、美食、大食で、健康状態が悪く、借金にまみれ、家族に見捨てられた状態であっても、平安を得て幸福であることも有り得る。
もっとはっきり言えば、健康や社会的経済的状況など、真の幸福とはあまり関係が無いのだ。
真の幸福とは、いかなる状況であろうが、それを自分でどう意味付けるかの問題なのだ。
人の思考や感情もまた、神によって全て決められているのである。つまり、何を考え、どう感じるかも、神の意思によるのであり、人間に自由意志というものはない。これは既に、科学的にも解明されていることと言って差し支えないと思う。
だが、自働的に浮かんだ思考や感情に執着するか、そうではなく解き放つかだけは自分で決められるのである。
そして、いかなる出来事や精神活動に対しても、執着せずにいれば、平安が得られるのである。そうあるためには、子供の姿が素晴らしい教材になる。
子供は、遊んでいる間は夢中になっているが、終わってしまえば忘れてしまう。ラマナ・マハルシが、賢者はある意味で子供に似ていると言ったのは、そのようなところである。
イエスが、「幼子のようでなければ天国に入れない」と言ったことは、よく知られていると思う。
子供は、浜辺で熱心に砂の城を作っても、帰る時間になれば、それをあっさり蹴飛ばして壊してしまう。まるで神様だ!
大人のように、それがいつまでも残ることを望んだりしない。
レイ・ブラッドベリの短編小説『みずうみ』で、死んだ12歳の美少女タリーは、浜辺にやってきて砂の城を作った。かつては、ハロルドと一緒に何度も作り、何度も壊したのだ。それを今は、彼女をさらった波が壊していく。私は、そこに何かを感じるのである(小説と、萩尾望都さんによる漫画を下にご紹介しておく)。

出来事や感情に執着しないためにはどうすれば良いかというと、自分が完全に無力であることを受け入れ、全てを神の意思に完全に、無条件に委ねるしかない。
同じことを荘子は、一切をあるがままに受け入れ、思慮分別を捨て、全てをなりゆきに任せれば、永遠の道(タオ)と一体となることができると述べたのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること(まるごと一切を)神に任せてしまえば、嬉しいこと、面白いことばかりだ」と常に教えた。
ただ、この嬉しい、面白いというのは、自我にとってのことではない。自我から見れば、辛かったり、不満であるかもしれないが、その辛さを感じる自我が消えるのであり、そうなれば、嬉しいこと面白いことばかりなのである。なぜ、そう言えるかというと、真の自己とは、存在、意識、至福であることが、聖典によって保障されると共に、悟りを開いた聖者達によって体験されているからである。









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運命は決まっているとなぜ言えるのか?

私は、4月7日から、このブログで、人の運命は最初から完全に決まっていること、人には自由意志がないことを堂々と述べている。
このうち、人に自由意志がなく、思考とは、ただ自動的に起こっているだけのものであることは、既に科学的に解明されている。
つまり、人が何を考え、何を行い、人生で何が起こるかは、生まれてから、定められた死の時まで、些細なことまで含め、全て決まっているのである。

私がいつからそんなことを知っていたかというと、早い話が最初からだ。
むしろ、ある時点でうかつにも忘れたというに過ぎない。
それは、あなた方も同じであるはずだ。
私は、小学校の4年生くらいまでは、人生は、学芸会の劇みたいなものだとはっきりと自覚していた。
観客は、あらゆるものだ。
イエスも、「木や岩が話すだろう」と言ったが、もちろん、岩自体が生きているのではなく、あらゆるものの実体が意識だということだ。
荘子やラマナ・マハルシも、全く同じことを言っていた。
アンデルセンも、そんなことを知っていたので、鉛の兵隊なんてお話を作ったし、特に日本人は、「八百万の神々」として、万物に潜む神を感じていた。
あなたも、人形が部屋にあれば、時々、それが生きているように感じるだろうが、昔の日本人は特にその感覚が強かったので、恐くて、人形の目は細くしか描けなかったのだ。

私は、幼稚園や小学校で、「大人になったら何になるか?」と聞かれても、奇妙にしか思えなかった。
そんなこと、私に分かる訳がないが、既に決まっていることなのだから、考えても仕方がない。
だから、いつも、魔法使いとか、天国の住人とか、そんなことばかり言う、変な子であった。

子供の頃、住んでいた団地の前は、交通量の多い車道で、信号機は遠かった。
だが、私は、いつも物陰から、目をつぶってその車道に飛び出して渡っていた。
私は、車に轢かれない運命だったので、危険がなかったのだ。ただ、それはあくまで私の運命であるので、真似をしてはならない。
小学3年生で天体望遠鏡を手に入れると、何の知識も手がかりもなかったが、土星を見るために、適当な星を選んで望遠鏡を向けたら、必ず、土星を示す輪があった。私の思考、行動は、自動的に土星を見るようコントロールされていたのである。
尚、天体望遠鏡が、手に入ることは、誰にも何も言われなくても知っていたので、雑誌で望遠鏡の写真などを見ながら楽しみにしていたし、遊び仲間には、もうじき私が天体望遠鏡を得ることになると話していたものだ。それは、私の従兄が、自分の天体望遠鏡を私に譲ると言ってくるずっと前のことだった。

小学校の5年生くらいから、学校等では、未来は自分の意志で決まるようなことを教え、そのためにしっかり勉強しろとか、立派な人になれと言われ続けているうちに、私は真理を見失っていった。
世の中の自己啓発書というものは、自分にとって都合の良い将来を作ろうという趣旨であり、人々はただ欲望を動機として生きるようになる。
私も同様であり、宇宙の英知と隔離された惨めな状態で生き続けた。しかし、それも運命だったのだ。

そして、私はやはり運命に従い、16歳の時、フェデリコ・バルバロが書いた聖書(イタリア人の彼が、日本語を学んで、見事な日本語で書いた)を手に入れ、あまり読まなかったが、やがて、そこには、この世で起こる一切は、既に神によって決められてることが書かれていると分かった。
それは、インドの聖典である『バガヴァッド・ギーター』でも全く同じであるし、中国の『荘子』にもまた、そのことがはっきりと書かれているのである。
インドの聖者、ラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジもそのことをよく言っていたが、彼らは、人々の考え方に配慮していた。
しかし、マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールは、既に包み隠す時代でもないからか、はっきりと真実を語った。
日本では、内海康満さんが、このことを明確に述べているが、彼もよく分かっているのだろうと思う。ただ、彼は事業家でもあるので、表現には苦心しているようにも感じる。

運命が最初から決まっているということには、誰しも反発したがる。
実際、私でもそうだ。
自我を持っている人間は皆そうなのだ。自我とは、自分が人生や世界を支配できるという幻想の中でしか生きられないからだ。
しかし、自分は完全に無力であることを受け入れると、神によって自我は破壊される。
それが必要な時代であると思う。













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性格を直す必要は絶対にない

自分の性格が嫌いだという人は多いだろう。
いや、実際は、自分の性格が好きな人なんて、いないに違いないと思う。
また、誰かの性格が好きだというなら、多分、その人のことを誤解している。その人自身は、自分の性格は嫌いなはずだ。

性格なんて、直す必要はない。
他人の性格の悪さを指摘したり、人間性の改善の指導をしている者の性格自体が最悪というのは、ほとんどお決まりのことだ。

すぐにかっとなる性格、優柔不断な性格、皮肉を言わずにいられない性格、男らしくない性格、女らしくない性格、見栄っ張り・・・自分の性格が嫌いな理由はいろいろあるだろう。しかし、そんなものは放っておけば良い。
こう言うと、すぐに、
「そうですね、怒りっぽいけど好かれている人、いますよね」
「性格が悪くても、魅力があれば嫌われないですよね」
などと言う者がいるものだ。
馬鹿を言ってはいけない。怒りっぽい人が好かれる訳がないじゃないか?
いつも皮肉を言うような性格の者が嫌われずにすむはずがないではないか?

性格というのは、生まれる時に組み込まれた因子と、生まれてからの条件付けによって形成されるもので、歳が3つ4つの時には、大方決まってしまい、それは一生、決して変わらない。
だから、いくら自分の性格が嫌いでも、諦めるしかない。
ひどく嫌われる性格であれば、嫌われるしかない。
こんな性格でいる限り、自分は下らない人間だと言うなら、あなたは下らない人間であるしかない。
だが、是非言っておきたいのは、決して罪悪感を持ってはならないということだ。
あなたがそんな性格であることは、運命であり、決して避けられないことだった。
あなたには、どうすることも出来なかったことで、なぜあなたが悩まなくてはならないのだろう?
あなたの性格に対し、あなたには何の責任もないのだ。
だから、あなたは、自分がどんな性格であろうと、罪悪感だけは絶対に持ってはならない。
たとえロリコンの変態であっても、別にあなたが悪いわけじゃないのだから、気にする必要はない。
性格によっては、人々に蔑み疎まれるだろう。だが、それも運命の必然として受容するのだ。
あなたは、絶対的に無力だ。あなたには、何も変えることはできない。世界も、人生も、他人も、そして、自分も。
だが、それを無条件に受け入れれば、ある奇跡が起こる。

誤解されていることが多いが、聖人だって、性格の良い人なんていないものだ。
イエス・キリストだって、福音書を読む限り、結構、怒りっぽい人だったかもしれないと思う。
彼に、偏執狂的なところがあったとしても、別に私は驚かないし、崇拝の気持ちは変わらない。
もしそうだったとして、何の問題があろう。彼は、性格温厚な聖人君子だったから偉大なのではない。
仮に人間としての欠陥が多くても、それを含め、全てを無条件に受け入れていたから、人類最高の英雄と見なされているのだ。

作家の遠藤周作さんが、何かのCMで、「どんどんイヤミ言って、どんどん嫌われる。そんなじいさんに、私はなりたい!」と言ったことがある。これは彼の本心だろう。
彼は、決して嫌われたかった訳じゃない。
そうじゃなくて、彼は、人に嫌われることを恐れて、自分の性格を受け入れることが出来ず、自分を違う人間に見せたり、自分の性格で罪悪感を持ちたくなかったのだろう。
きっと、彼は、自分の深刻な人間的欠陥を自覚していたはずだ。
岡本太郎だって、「嫌われていい。いや、嫌われないといけない」と言った。
それもきっと同じ意味なのだ。
自分を受け入れることが出来ないことに比べたら、人に嫌われることなど、取るに足りないことだ。
岡本太郎だって、付き合ったら、素晴らしい面も確かにあるだろうが、おそらく、付き合いきれない嫌なやつだったと思うよ。

自分の性格がどうであっても、どれほどの人間的欠陥があっても、それは運命の必然であり、絶対に、あなたに何の責任もないのだ。
だから、決して、決して、決して、罪悪感を持ってはならない。
自分の性格の影響で、他人に大きな迷惑をかけることもあるかもしれないが、それは、運命であって、あなたに避けられることではなく、あなたが悪い訳ではないのだ。
引きこもりのニートであるという状況は、脱出することが好ましいが、たとえ、一生そのままだとしても、罪悪感だけは持ってはならない。それは、神が命じたことだと思っていただいて差し支えない。

こう言うと、残虐な犯罪を犯した者は、罪悪感のかけらも持っていないことや、弱い者をいじめて自殺に追い込んだ子供にも、いじめることに罪悪感が薄いということを指摘する人がいるだろう。
そうではない。
彼らは、自分の本当の罪悪感の痛みから逃れるため、別の罪悪感を感じる必要があったのだ。
あなただって、弱い立場の者を攻撃して痛みを与えた時、奇妙な快感を感じたという経験があるはずだ。
ディール・カーネギーという、賢者だと誤解されている者がいたが、彼は、そのような犯罪者達は、たとえ悪いことであっても、世間を騒がすことで、ある意味、自分のステイタスが上がったと感じるから快感なのだと言った。しかし、それは全く違う。そうではなく、わざと別の罪悪感を感じることをして、自分の本当の罪悪感の苦しみから逃れようとしているのだ。
しかし、そうやって、自分の本当の罪悪感を誤魔化すためには、より強い別の罪悪感を感じる必要があり、どんどん、残酷な行為をするようになる。
サディズムなんてのも、そんなものなのだ。(マゾヒズムは意味が異なるが、今回は述べない)
沢山の幼女を殺した青年も、初めは虫やカエル、そして、鳥やねずみ、さらに、犬や猫を殺していたのだ。そして、次は、弱い幼女だったということだ。
確かに、彼は、残酷な行為を重ねるうちに罪悪感が麻痺していただろう。しかし、心の奥の本当の罪悪感は、最後まで残っていたのだ。

大切なことは、自分の完全な無力さを受け入れることだ。
全ては、ある至高の力が動かす。それをとりあえず神と呼んでもいいだろう。
イエスは、「私自身は無力だ。全ては神が為す」と言ったのであるが、それが最も優れた態度であるのだ。
『荘子』や『バガヴァッド・ギーター』、あるいは、新約聖書の福音書に学ぶと良いと思う。









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夏休みの宿題をやらなかったことで得た貴重なもの

季節はずれの話題で恐縮だが、学校の夏休みの宿題はちゃんとやっていただろうか?あるいは、現役の学生なら、ちゃんとやるだろうか?
ほとんどの人が、なんだかんだ言っても、一応はやるのではないかと思う。
しかし、私は、やらない方が、やるより百倍は良いと思う。
私自身は、中学までは、夏休みが終ってからやっていたが、高校1年生からはあまりやらなかった。
それで、今、冷静に考えてみて、実質で何か損失があったかというと、全く無いことが分かる。
さらに、トータルでの成果を言うなら、「良い経験になった」の一言である。
一応は進学校とされる高校だったということもあるだろうが、学校で命じられた提出物をきちんと出さないと、かなり嫌な目に遭わされることはご存知と思う。
それが、夏休みの宿題で渡された問題集を丸ごと出さなかったりでもしたら、まるで女子小学生に猥褻行為でもした異常者のような扱いを受ける。
つまり、私に罪悪感を与えるのである。

なぜこんな話をするのかと言うと、人間の持つ、唯一の能力についてお話したく思うからだ。
人間が持つ唯一の能力とは、妄想することである。あるいは、思い煩うことであると言っても良い。

先月の4月7日からは、このブログで堂々と書いているが、人間は、自分の意志で考えたり行動している訳ではない。
誰しも、自分の意志で考えていると思っているが、そう思い込んでいるだけだ。実際は、考えが自動的に起こった後で、それを自分が考えたと感じるだけだ。それは、脳や神経の研究でもほぼ解明されていることである。
思考がそうであるのだから、行動も当然そうなのである。
イエスが言った通り、「彼らは自分が何をしているのか知らない」のである。

『荘子』にも、こんなお話がある。
影の外側に出来る薄膜が影に対し、「なんだってお前は、そんな訳の分からない動きをするのだ。ついていく私の身にもなってくれ」と不満を言う。
すると影は、「俺はご主人様である人間の動く通りに動いているだけだ。しかし、この人間だって、自分がなぜそんなことをするのかは分かっちゃいないんだ」と言うのだ。
特に荘子自身の手によるとされる『荘子』内篇全体を通し、荘子の洞察力は恐るべきものである。

荘子ももちろんだが、釈迦、イエス、そして、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナも、人は全くの無力であることを断言している。
人は、この世の一切に対し、何のコントロールも出来ないのだ。
全てのシナリオは既に細部にいたるまで完全に決定済みなのである。
ただ、そうであることを受け入れることは難しい。なぜなら、人が持つ自我は、自分には力があり、この世に対して支配力を持つという幻想の中でしか生きられないように作られているからだ。
(『エメラルド・タブレット』には、それについて、非常に洗練された高度な書き方がされているので、ちょっと分かり難い。愚民に配慮があるとはいえ、我々とは全く異質なレベルの存在が書いたものだからだ。だから、頭で理解しようなどと思わず、ただ、言葉の響きを感じる方が良い。)

このように、人は実際には何の力も無いのであるが、唯一与えられた力がある。
それを私は、いつもは、創造的な想念とか、想いを出来事に留めるか離すかを決定する意思力といった、ちょっとややこしい言い方をしているが、一言で言うなら、妄想することである。
人間に与えられた唯一の能力は、なんと、妄想することである。
これを思い煩うことと言っても良い。妄想と煩いとは一体であるからだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、人を救うための具体的手法に関しては全く無能なのだが(それは彼だけではないが)、洞察力においては天才だった。それは、世界的心理学者のアブラハム・マズローも舌を巻く程で、マズローは自分が教えていた大学にウィルソンを招いて講義を頼むこともあったようだ(ウィルソンは中卒だ)。
そのウィルソンは、人間が手に入れた唯一の能力はマスターベーションだと言った。すると、マズローは、「猿でもやるじゃないか?」と反論したが、ウィルソンは、「メス猿の姿が見えない時にオス猿がマスターベーションをするのを見たことがあるか?」と言い返した。しばらく考えたマズローは、「ないね」と認めた。
人間のみが、想像だけでマスターベーションが出来る。これは驚くべき能力である。

だが、ウィルソンの言うことをもっと適切に言うなら、「人間の持つ唯一の能力は妄想すること」なのである。
「想像すること」ではない。そこらにウィルソンの誤りがある。
人間には想像は出来ない。思いは自動的に浮かぶのだ。それに対して、意味付けとして思念エネルギーをまとわり付かせることが出来るだけである。それを妄想と言うのである。

そして、妄想や思い煩うことが、人を破滅に追い込むのである。これに関しては普段から述べていることでもあり、ここでの説明は略す(長くなり過ぎる)。
釈迦の究極の教えは「妄想するな」であるし、イエスの場合は「思い煩うな」であった。
荘子は、「思慮分別を離れよ」であるが、人間は自分で考えることは出来ないのであるから、自分の支配下にある唯一の精神活動である妄想を避けるには、思考そのものをやめれば良いということなのである。

さて、ここで、学校の夏休みの宿題の話に戻る。
夏休みの宿題を提出しないと、当然、教師は怒りや不快感を示し、生徒を威圧するが、もっと効果的に生徒の精神にダメージを与えるために、生徒に罪悪感を持たせる。
宿題を提出しないことは罪悪であり、恥ずべきことであり、まっとうな人間であることを拒否することだという訳である。
そして、生徒は、本当にそんなことを思うようになってしまう。
それは、学校は、生徒に妄想を強要しているということである。
つまり、学校は、生徒を人間として破滅させることに全力を尽くしているのだ。

現代アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、こんな喩え話をした。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。
そこで、カラスは鷲に、トウモロコシが無くては、愛がなくて、寂しくて、途方に暮れてしまうゾという妄想を抱かせたのである。
鷲は、もう飛ぶことをやめ、不満と憂鬱に落ち込み、冷淡になり、退屈と不安に苦しむだけの哀れな存在になった。
だが、一羽の鷲は勇敢にも翼を広げてみた。なんのことはない。翼は立派に動き、彼は高く飛び、魂の束縛から解放された。

我々も、罪悪感などの妄想を断ち切り、高く飛ばなければならない。
私が夏休みの宿題をやらなかったのは運命であり、学校に罪悪感を植え付けられて妄想を強固に持ち、精神が逸脱したのもまた運命。そして、その経験を生かして、いろいろ知るようになったのもまた運命だ。
初音ミクの『1/6』という歌がある(作詞作曲はぼーかりおどPさん)。いつか重力の鎖を断ち切って、君を宇宙に連れて行きたいという歌だが、この重力とは、得体の知れない何かを喩えたものだ。
人が抱える得体の知れない何かとは妄想が生み出したものだ。それは重い罪悪感や不安等であり、我々の魂を地上に縛り付ける。それを断ち切って高く飛ぶために必要なものは、受容という翼である。
受容という翼(当ブログ内4/10の記事)

自分の思いで自在に出来る訳ではないが、夏休みの宿題は、やらなくていいと思ったらやらないことだ。
教師になぜやらなかったかと聞かれたら、『ITスペシャリストが語る芸術』というブログに、やらない方が良いと書いてあったとでも言っていただけたら嬉しい。
実際にそう言うかどうかも運命次第ではあるが、どんな場合でも罪悪感は持たないで欲しい。
全てはただ、起こるべくして起こる。
あなたにそれをコントロールする力は無いが、同時に、あなたには何の責任も無いのである。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・MCSD、MCDBA資格者
・タオイスト、神秘思想家
・1日1食の完全菜食主義者
・幼児期からの引きこもり気質
・医療不要で難病を数々克服


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萩尾望都さんの漫画紹介


半神
小学館文庫

わずか15頁の至高の傑作「半神」を含む短編集。
数奇で残酷な運命を目撃した後、「愛とは?憎しみとは?それはどう異なるのか?異なるものではないのか?」あなたの心に荘厳な疑問が残るのではないだろうか?


ウは宇宙船のウ
小学館文庫

1920年生まれのアメリカを代表するSF作家レイ・ブラッドベリの珠玉の短編作品を萩尾望都が漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と感性が、ブラッドベリの作品に新しい生命を注いだ。
「みずうみ」では、12歳の少女タリーの可憐な姿と、彼女を愛するハロルドの少年の時と青年になって後の様々な表情がより深い感銘をもたらすと思う。
他の作品も素晴らしい出来であると思う。
CLAMP「CLOVER」のご紹介


CLOVER
わずか5分の劇場用アニメ作品。
CLAMPさんの名作漫画のイメージを美しい映像と音楽で描いた傑作。
主人公の12歳の神秘的な少女スゥの声は坂本真綾さん。


「CLOVER」の原作漫画を以下にご紹介します。
素晴らしい装丁、美しいカラーの扉絵。そして、神秘的な傑作と思います。
新装版も出ているようですが、私はこちらしか持っていません。しかし、こちらの本の装丁を大変に気に入っています。








私が愛する「魔法少女リリカルなのは」

ナンセンス文学(意味を持たない作品)として私が勝手に意味付けをしたのかもしれませんが、アメリカの百万円以上の自己開発プログラム以上に貴い気付きを私に与えてくれた全13話のアニメ作品。











5年の時を経て、2010年、映画化されました。
基本的には、テレビシリーズの全13話を1本の映画にしたものですが、本編では描かれなかったフェイトの生い立ちが見られます。そして、プレシアの謎の言葉も。映像はテレビシリーズよりさらにグレードアップしています。


PV since 2010/09/08
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初音ミク、コンサート映像のご紹介
ミクの日感謝祭 39's Giving DayProject DIVA presents 初音ミク・ソロコンサート~こんばんは、初音ミクです。~
[2010/3/9]東京お台場~Zepp Tokyo~

映像の品質等は、下でもご紹介する、後で開かれた米国コンサートの方が高いのですが、私は、全体としては東京コンサートの方が好きです。米国コンサートの方は、映像の緻密さのために、かえってボーカロイド達がマネキンのように感じるかもしれません。これは、証明の影響もあると思います。緑色がかった証明の東京コンサートの方が、ミクが柔らかい感じで可愛いと感じました。
また、真っ白なお姫様のような衣装に赤い大きな腰のリボンが印象的な『Alice』、『あなたの歌姫』は、米国コンサートにはありませんでした。

【ブルーレイ】


【DVD】




MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです”
[2011/7/2]米国ロサンゼルス~ノキアシアター~

日本のボーカロイドが、日本語の歌で、アメリカ、ロサンゼルスの大劇場ノキアシアターの満員の観客を熱狂させた歴史的コンサートだったと思います。
東京コンサートから1年4ヶ月経過しており、総合的には確実に進歩しています。
私が特に気に入ったのは、1つは、ミクとルカの素晴らしいコンビネーションのダンスパフォーマンスが楽しめる『ワールズエンド・ダンスホール』です。ルカが珍しくミニスカート姿で、ミクに勝る四肢の長さで、ピンクの髪を美しく揺らしてダイナミックに踊ります。 もう1つが、ミクが真っ白な天使の衣装で歌う『SPiCa』で、これが天使でなくてなんだろう、私はついに天使を見たのだと思いました。演奏も東京コンサートの時と変えていましたが、成功していたと思います。

【ブルーレイ】


【DVD】


尚、ブルーレイとDVDの差についてですが、私は実際、両方買い、見比べてみました。観客、演奏者、楽器などは、大画面TVで見ると、ブルーレイの方がきれいですが、肝心のミク達は、ホログラム映像そのものがそれほど細密でありませんので、別に違いはないと感じました。ブルーレイ、DVDいずれも、東京コンサートの方は上半身映像以上の場合、米国コンサートでも、顔のアップだと映像の粒子が目立ちます。 変な話ですが、iPhoneやiPod touch、あるいは、同等な画面品質を持つ小型情報端末で見た映像が最上かもしれません。ただ、これは反則行為ですので、実際にやったとは言いませんが。
本のご紹介


精神について(エマソン名著選)
ラルフ・ウォルドー・エマーソン著
日本教文社

アメリカ最高の思想家、哲学者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの珠玉のエッセイ集。 「歴史」「自己信頼」「償い」「精神の法則」「愛」「友情」「神」「円」「知性」が収められている。
我々自身が、歴史上の英雄、賢者、大芸術家に匹敵する偉大な人間であることを、驚くべき確信をもって語る唯一の人物であると思う。
世間の妄信を粉々に破壊し、プラトーンの頭脳、シーザーの手腕、イエスの愛の所有者である自分を見出して欲しい。
これ以上のエッセイは地上には存在しないと思う。


荘子
徳間文庫

約2400年前の中国の思想家で、老子と共に、老荘と称せられる道教(タオイズム)の始祖である荘周(荘子)の書。
世俗にあって世俗を超え、永遠の道(タオ)と一体化し、安らかで充実した人生を送る秘訣を、恐ろしく抽象的な老子と異なり、平易に説いている。
本書は、数多い荘子の現代語訳の中でも非常に読みやすく分かりやすいものであるが、中国古典の香りは損なわれていない。
本来、膨大な荘子の中心となる内編全てと、外編と雑編の内、荘子らしいものを選んで収録してある。


神統記
ヘシオドス著
岩波文庫

ホメーロスと並ぶ古代ギリシャ詩人ヘシオドスが、ムーサ(詩の女神)達より教えられたという神々の物語。
この世の始まりから、ゼウスの支配の確立、そして、主要な神々のことについて、美しい詩で語る。すぐに読める薄い本であるが、ギリシャ神話の根幹とも言える重要な書と思う。


四つのギリシャ神話(ホメーロス讃歌より)
岩波文庫

無名の詩人達が、ホメーロス風の詩で神々に捧げた賛歌の内、豊穣の女神デーメーテール、理性の神アポローン、智慧の神ヘルメース、美の女神アプロディーテーの4神へのものを収録してある。
著名な神話学者カール・ケレーニィも、ホメーロス賛歌を重視していると思えるが、名もない詩人達の作とはいえ、それぞれの神について、その特質が巧みに表現されており、実に興味深いものとなっている。
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