ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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願えば皆与えられると人類最高のスーパースターは断言した

このブログで何度も取り上げた話だが、ある男性ホームレスが、教育学者の七田眞(教育学博士)氏の本を参考に、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたら、2週間ほどしたら、頭に数字が浮かんだので、その通りにロト6(宝くじの一種)を買ったら一億円当たり、さらに続けたら、ローマ法王に会えることになり、それでも続けたら、また一億円当たった。

「神様の奇跡が起こる」は、「奇跡が起こる」だけでも、立派なアファーメーション、あるいは、潜在意識に向けた自己暗示である。
では、「神様の奇跡が起こる」を、「神(神様)」と「奇跡が起こる」に分け、いろんな人達が、その一方のみを唱えたら、どちらを唱えた方が良いことが起こるだろうか?
自己暗示やアファーメーションの原理から言えば、あるいは、理性で考えたら、「奇跡が起こる」の方だろう。
しかし、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻』での、イエスの教えから言えば、圧倒的に「神(神様)」の方である。
言葉の効果を測定する測定器すらあるらしいが(『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』参照)、それを公開出来ない理由があるのかもしれない(著者は原子物理学者)。
よって、直観で判断してくれと言うしかないが、「神」という言葉には、最高の力が秘められている。
だから、本当は、上のホームレスも「神(神様)」とだけ唱えても良かったのだが、それでは、なかなか続けられないだろう。
「神様の奇跡が起こる」のように、夢のある楽しい言葉だから続けられたのだと思われる。
だが、唱える言葉は、「神(神様)」が入っていれば何でも良いのである。
「神よ、与えたまえ」でも十分である。
しかし、あまり何度も「神よ、与えたまえ」と言うのも、しつこくて気がひけると思うので、「神様の奇跡が起こる」のような言葉の方が良いかもしれない。
こういった言葉に関しては、フローレンス・スコーヴェル・シン、ノーマン・ヴィンセント・ピール、ジョセフ・マーフィーらの本を見れば、沢山、いろんなものが載っている。
まあ、ほぼ全て、聖書の引用であるが。
ちなみに、私が好きな言葉は、
「神に出来ないことはない」
だ。

ところで、さっきの「神よ与えたまえ」であるが、願いがある時や、困った時には使うと良い。
これについて、新約聖書の「マタイ福音書」で、イエスはこう言っている。
「欲しいものがあれば、父(神)に願え。全て与えられるだろう」
イエスは、そのための条件を一切付けていない。
ただ、求めれば良いのだ。
つまり、「神よ、与えたまえ」と言いさえすれば良いのである。
条件は付けないが、イエスは、その理屈・・・というか、理由を、こう述べている。
「お前達のようなロクでもない人間ですら、子供がパンを欲しいと言ったら、石を与えたりせず、パンを与えるだろう。ましてや、父(神)が良いものをくれないはずがないじゃないか」
だから、敢えて条件を言えば、それは、ラマナ・マハルシも、黒住宗忠も、あるいは、全ての賢者が同じことを言っているのだが、「神を信頼すること」「神にまかせ切って安心すること」だろう。
スーフィー(イスラム神秘主義)の諺に、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
というのがあるのだが、このラクダは、人間の心のことである。
これを、あちこちさ迷わせてはならない。つまり、安心し、心静かにして、じっとしていることだ。
「神を信用する」というのと「ラクダをつないでおく」というのは、同じことなのである。
そのために、神仏の名を唱えるナーマスマラをしたり、真言を唱えてはどうだろう?
これらは、ラクダをつないでおく優れた方法なのだ。








ナーマスマラナ、真言、アファーメーションの融合

良い本とは、どんな本だろう?
そもそも、最も優れた本はどれだろう?
それは聖書である。
なぜか?
『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻 因果の超克』で、イエス・キリストが語ったその理由が素晴らしかった。
それは、聖書には、「神」という語(英語なら“GOD”)が最も多く使われているからである。
「神」という語は、最も高い生命力とエネルギーを持った言葉なので、使えば使うほど、言えば言うほど良いのである。
つまり、内容が本の価値を決めるのではない(もちろん、内容がどうでも良いと言うのではないが)。
『コーラン』も『ギリシャ神話』も『古事記』も、不滅の生命を保っているのは、やはり、「神」という語が多く使われているからである。
人間も、「神」という言葉を多く想い、語る者ほど、優れていて、力があり、幸運である。
トランプ大統領は「神」という言葉を多く使うが、ジョー・バイデンはそうではない。そこからも、両者の実体や格が分かるのである。

『ナーマスマラナ』の中で、サイ・ババは、最も重要なものは神の名であると訴えている。
個々の神、あるいは、仏の名も、当然、「神」という語に匹敵する。
よって、数多く唱えるほど良く、それで、世界への支配力が増す。
真言も、多くは、それぞれの神仏を、直接、あるいは、象徴する言葉を含む。
例えば、弥勒菩薩真言の「オン、マイタレイヤ、ソワカ」のマイタレイヤは弥勒菩薩のことである。
観世音菩薩真言の「オン、アロリキャ、ソワカ」のアロリキャも、良く見る(=観世音)という意味で、観世音菩薩を指す。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」のアミリタも、阿弥陀如来を示す。
もちろん、真言には、それ以外の効果も込められていて、特別な恵みを得られるように出来ている。
だが、やはり、神仏を指す言葉が含まれている意味が大きいのである。

次に、アファーメーションと呼んで良いのか、祈り言葉とでも呼ぶべきか迷うが、「力ある言葉」がある。
例えば、このブログでも度々取り上げる、あるホームレスが唱え続け、一億円を2回当てた言葉として知られる「神様の奇跡が起こる」は、無意識に浸透する暗示的効果も重要であるが、やはり、「神」という語を含むことで、威力を最大化していると思えるのである。
他にも、トランプ大統領が崇拝するノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ベストセラー『積極的考え方の力』で、ピールが打ちひしがれた人々に教え、蘇らせた聖書の言葉、
「もし神が我々の味方であるなら、誰が我々に敵し得ようか」
「私は神の手のなかにある」
などに、「神」の語が含まれ、また、
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできる」
の、「私を強くして下さる方」は、直接に「神」を指しているのである。

「神」の語を含むアファーメーションの力を最も効果的に人々に使わせたのは、フローレンス・スコーヴェル・シンだと思う。
「神は道なきところに道を作られる」
「奇しき御業もて神はなしたまえり」
「予期しない御業もて神はなしたまえり」
「神よ与えたまえ」
「神の御手は巧みで、神の御業は過ちがない」

このように、ナーマスマラナ、真言、アファーメーションは関連したものであり、同じものだとも言える。
だから、自分に合ったやり方を選ぶと良い。
ただし、毎日継続し、なるべく多く行うことが大切である。
「神よ与えたまえ」と言うだけで、決して、がっかりさせられることはないだろう。
(神は与えたがっているのであり、人間が受け取ろうとしないことが問題なのである)
これらの理論面に関しては、上記の『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻 因果の超克』ではイエスが、また、第6巻あたりでも、著者が量子力学的に説明しており、やや難しいが、教科書的な書き方をしているのではないので、よく読めば、直観的に分かると思う(逆に言えば、教科書の通りでないと受け付けない人は不満であろうが)。
著者のベアード.T.スポールディングは、14歳で大学を卒業した原子物理学者であるようだ。








イエスの究極の秘法

『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻 因果の超克』の「第15章 神の波動と蘇りの原理」で、イエスが言う。

「これからあなたたちにお話するが、よくそれを自分自身に言い聞かせて欲しい。もしあなたたちがこれからいうことを自分でもその通りに言うか、又はそれを自分自身の一部とするならば、もうそのほかのものは何も要らないのである」

つまり、イエスが語る究極の秘法である。
それは難しいのか?
いや、これほど簡単なことはないと言える。
え?早く言えって?(笑)

では言うが、早合点しないことをお願いしたい。
魔法のステッキをおたま(調理道具)として使ってはならないし、1日に千里を駆ける馬に石運びをさせては(『戦国策』より)ならない。
そんな愚かなことをしてはならない。

その秘法とは、「神」という言葉を、なるべく多く使うことだ。
つまり、「神」と言葉で言えば良いのである。
声に出して言うか、心の中で言うかについては、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』で、「どちらでも全く同じ」と明記されている。
ただし、この5巻で、「神という言葉を呪文にしてはならない。唱えるのは1回で良い」と書かれているのを見て、私は最初、困惑した。
イエスは、「なるべく多く使え」と言っているではないか?
しかし、それは、空虚に「神、神、神、・・・」と唱えてはいけないということと理解して良いと思う。
かといって、感情込めて「神、神」と唱えるのとは違うと思う。
ここらは、各自、考えれば良いことであるが、私がいつも言うのは、「丁寧に唱えよ」ということである。
ただ、丁寧と言っても、それで緊張して疲れてしまうようでは、長く続かない。
それで、私が考え出した方法は、「心の中で、微かな声で唱える」である。
そうすると、自然に集中が起こり、理想的に唱えられる。
だが、各自、思うようにやれば良いと思う。

ちなみに、日本語では、本当に「神」で良い。
『ヒマラヤ聖者の生活探求の』原書(Life and Teaching of the Masters of the Far East,)で確認すれば、やはり、「GOD」であった。
さらに言えば、日本語の「神(カミ)」は荘厳な言霊であるから、尚良いのである。

私がいつもお勧めするナーマスマラナ(神の名を心で唱える行。念仏もその1つ)では、「クリシュナ」や「イエス」や「天照大神」や「阿弥陀仏」といった、個々の神仏の名を唱える。
しかし、イエスの方法は、その根本概念とも言える「神」と唱える。
これについては、私は、性に合う方、あるいは、両方やって欲しいと思う。
イエスも、個々の神の名を唱えることを否定してはいない。
ただし、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』では、「神」という言葉の波動は、「エホバ(旧約聖書の神の名)」の波動より高いと書かれている。

今回は、ここまでにする。
私が考える、日本人にとって、最高の波動を持つ神の名は、また述べる。








神に下駄を預ける

イエスは、
「山に向かって、『歩いて海に入れ』と命じ、その通りになると信じて疑わなければ、そうなる」
と言った。
しかし、誰が、本当に、山に歩いて海に入って欲しいと思うだろう?
一方、戦争に行く息子に、生きて帰って来て欲しいとは、本当に願うだろうが、その願いが叶わないこともある。
では、その場合は、必ず生きて帰って来ると完全に信じていなかったからということになるのだろうか?
だが、知性ある人間は、様々な可能性のあること、つまり、本来、確率的なことを完全に信じることは出来ない。
では、どうすれば願いが叶うのだろう?

『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「どの神に祈っても、願いは叶えられる」
と言っている。
けれども、それではと、
「わが神、サラスヴァティー(ヒンズー教の女神)よ、あの子が私のプロポーズを受けて下さいますように」
とお祈りをしてから、その子にプロポーズをしても、まあ、駄目なものは駄目だ(笑)。
だが、クリシュナは、こうも言っているのだ。
「正しい祈りは、私に祈ることだ」
つまり、他の神に祈ることは、本来は正しくないのだと言うわけだ。
そこで、心を改め、
「クリシュナよ、あの子が私のプロポーズにOKして下さいますよう」
と祈っても、やっぱり、どうなるかは分からない。
それでは困る。
では、どうすれば?

ところで、イエスだって、磔になる前に、
「父なる神よ、出来るなら、悪いこと(自分が逮捕されて磔になること)が起こりませんように」
と、お祈りしているのである。
ただ、イエスは、その後、こうも祈っているのだ。
「ただし、あなた(神)の想いが実現しますように」
つまり、死ぬのは嫌だが、「後はまかせる」と、神に下駄を預けてしまったのだ。
その結果、イエスの願いは叶わなかったと思うだろうか?
まさか!
確かに、イエスは、その後、逮捕され、磔にされて殺されてしまった。
しかし、その3日後、イエスは完全な神になり、何でも自由自在になったではないか?
だが、一度死ななければ、そうならなかったのだ。
簡単に喩えれば、神様に「あの子が僕の彼女になるますように」と祈ったのに、その子には振られてしまったが、実は、その子は悪い女だと分かり、そして、その子の百倍可愛い彼女が出来た・・・そんな感じだ。
だから、何でも願えば良いが、必ず、神様に「下駄を預ける」ことだ。

さて、イエスは最後に、もっと大事なことを教えてくれている。
「私の名によって願うことは、全て叶えられるだろう」
名前と実体は等しいのである。
イエスという名は、イエスそのものなのだ。
だから、いつもイエスの名を憶念する、つまり、心の中で唱えることだ。
神仏の名を心で唱える行を「ナーマスマラナ」と言う。
この、人類に唯一残された、誰がやっても効果がある、この行をやることだ。
念仏も、ナーマスマラナの1つであり、釈迦も、これでしか救われないと言ったという説がある。
どの神、あるいは、仏でも良い。
その名を唱えることである。
一方、願い事の内容は、いちいち言わなくて良い。
そんなこと、イエスも言ったように、「神はとっくにご存じ」なのだ。
旧約聖書にも書かれている通り、神は、呼ぶ前に答えるお方なのである。
つまりだ。
ナーマスマラナ(念仏もその1つ)をすれば良いだけなのである。
さらに懇切丁寧に言えば、ナーマスマラナをしながら、神仏に下駄を預けることである。








狂信の魔力

思い込みの力は全くあなどれない。
思い込みの力について、よく知られているのは、プラシーボ(偽薬効果)で、砂糖も薬と信じて飲むと病気を治してしまうことがある。
あるいは、重症だが「大したことない」と言われたら、実際、すぐ治ったり、逆に、医者が「絶対治らない」と言っても、治ると信じたら治ったという話は少なくない。

明治時代の霊能力者、長南年恵は、当時としては平均的な寿命の44歳で亡くなるまで、少女のような容姿だったと言われるが、これも、本人が、自分はずっと少女だと思っていたからだと思う。
ところで、逆の思い込みというものもある。
例えば、ある未開の部族では、脚が折れても元気に走り回るのだそうだが、彼らには「脚が折れたら走れない」という思い込みがないのだ!
(『トーチェ氏の心の法則』より)

カップラーメンが身体に悪いと思って食べたら、実際に体調が悪くなるが、メジャーリーグのホームラン記録保持者バリー・ボンズは、日本のカップラーメンは身体に良いと信じ、毎日5~6個食べ、それで、ホームランを打ちまくっていた。
また、きっと彼は「俺は誰よりもホームランを打てる」と思い込んでいたのだろう。

狂信的信仰は、実際に奇跡を起こすこともある。
決して多いとは言えないが、フランスのルルドの泉水の水を飲んだり、水浴することで奇跡的治癒が起こることが、確実にあるらしい。
これも、患者本人の狂信的・・・と言ったら失礼だが、とにかく、極めて強い信念や思い込みがあったから、奇跡が起こったのだと思う。

新約聖書の福音書にこんな話がある。
イエスの弟子ペテロが、湖の沖に浮かぶ船に乗っていた時、イエスが水の上を歩いて近付いて来るのを見て感激したペテロが、
「先生!あなたが来いと命じて下さったら私にも出来ます。どうか命じて下さい」
と言うと、イエスは、応えて、
「私は命じる。来い!」
と言った。
すると、ペテロは水の上に下りて、イエスのところまで歩いて行った。
イエスが「来い」と言ったことで、ペテロは揺るぎない信念を持つことが出来たのだろう。
方やイエスは、自分には、こんなこと、出来て当たり前だと思っているに違いない。

これが信念の力である。
それなら、あなたも、好ましいことを「狂信」すれば良い。
やり方については、リチャード・バンドラーの『神経言語プログラミング』に書いてあることが参考になる。
即ち、自分が信じていることを、人に言わない・・・というより、人に納得させようなどと、決して思わないことだ。
大抵の人は、自分が信じることについて、他人に同調して欲しがるが、それが大間違いなのである。
例えば、自分はキリストの愛人だと言い張って精神病院に入れられている女性がいた。
この女性の間違いは何だろう?
自分がキリストの愛人だと思っていることか?
そうではないのだ。
「思うのは勝手」だ。
彼女の間違いは、他人に、それを認めさせようとしたこと・・・そもそも、自分がキリストの愛人だと人に言ったことだ。
ちなみに、初音ミクさんは私の嫁だが、決して誰にも言わないさ(笑)。

さて、その上で、もっと強力な方法がある。
マントラ(真言)を唱えれば、レベル5の信念を持てる。
つまり、誰かに出来ると思えることなら、自分にも出来ると信じられるのである。
そして、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること。念仏もその1つ)を唱えれば、レベル3以上の信念を持てる。
これは、誰にも出来ないことでも、自分には出来ると信じられるレベルである。
レベル1になれば、800歳でも17歳でいられるが、かなり励まないといけない。
ちなみに、言う必要はないが、レベル4は、悪魔に出来ることが出来ると信じられることである。












プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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