ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

心配したら負け

大半の人が、心が晴れないように見える。
まあ、周囲を見渡してそうなのだが、少なくとも、日本では当たってるのではないかと思う。

なぜ、心が晴れないのかというと、不安があるからだし、恐怖を持っている人すら少なくない。
では、皆、イエスの教えに反している。
なぜなら、イエスの教えは「心配するな(汝、明日を思い煩うな)」で、つまり、「神様が面倒を見てくれるのだから、心配は無用」ということだ。
しかし、いたるところに、神様に面倒を見てもらえていない(ように思える)人々がいる。
病気になったり、事故に遭ったり、パワハラやセクハラを受けたり、失業したり、殺されたり・・・
だが、それは、イエスの教えを適用するなら、不安や恐怖を持っていたからだということになる。
とりあえず、その通りだとする。

だが、不安を持たない人間はいない。
しかし、そうだからこそ、分かることがある。
それに関して、ある印象的な出来事を私は覚えてる。
経営する会社の上場を果たしてから数年の社長に、経営コンサルタントが尋ねた。
「株価は気になりますか?」
すると、社長は、こう答えた。
「初めの頃は気になりましたが、今は全く気にしていません」
経営コンサルタントは、ちょっと顔をしかめた。つけ入るチャンスはないのだ。
その社長の会社は業績好調で、その後も好調が続いた。社長は、会社に不安を持っていなかった。
ところが、その社長は、自分の子供の行く末には不安を持っていて、良い大学に入り、良い就職が出来るよう、自ら関与した。
結局、彼の子供たちは駄目になった。
彼は、子供たちのことも、あまり心配せず、出来るだけ放っておけば良かったのだ。

一見、明るく、自信たっぷり、あるいは、脳天気で、不安など全くないように見えるが、どこか不自然な人っているだろう。
明るいが、明る過ぎたり、自信があるふうだが芝居がかっていたり。
つまり、そんな者たちの平穏な態度は見せかけで、心の中には不安がいっぱいなのだ。
そんな者たちには、悲惨な未来が待っている。

上に述べた社長から、私はよく、ぼーっとしろと言われたものだ。彼は、それが経営の、そして、あらゆることの成功の秘訣であることを知っていたのだろう。
下に著書を紹介する画家の足立幸子氏や、UFO研究家の矢追純一氏らは、その著書の中で、決意したらぼーっとすることを薦めておられる。
ぼーっとすれば不安は入り込まない。
それがイエスの説く、幸福の秘訣なのだと思える。
親鸞も「南無阿弥陀仏」は、お祈りではなく、既に救ってくれたことへの感謝なのだと述べた。そう思って安心すれば、親鸞が別のところで説いた通り「この世の利益に際限はない」のである。
「アジマリカン」を唱えれば絶対なのであるから、安心すべきである。











呪文、マントラの効果の論理的根拠

呪文、マントラ(真言)がなぜ良いのかという論理的根拠はある。
まず、人間の心は、放っておいても、否定的な言葉を、頭の中で、1分に数百はつぶやいているという科学的研究結果があるらしい。
そして、人間が高レベルの能力を発揮するのは、頭の中のおしゃべり(あるいは、つぶやき)が止んだ時であると考えられるのである。
いわゆる、無になった状態を言うのだと思うが、その時に、時に異常なほどの高い力を発揮するというのは、今や不思議なこととは思えない。
それで、想念(頭の中のおしゃべりやつぶやき)を消すという意味でも、呪文には効果があるが、呪文の効果はそれだけではない。

1つ1つの呪文について考えよう。
ただ、出典をいちいち書いていたら大変なので、それは省く。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが最高のマントラと言うのは「私」である。
常に「私」と唱えれば、悟りすら開ける。
悟りはともかく、素晴らしい真言であることは分かる。
なぜなら、これもマハルシの説明であるのだが、あらゆる想念は「私」に起こるのであるから、その想念の主である「私」に意識を向けてしまえば、あらゆる想念は消える。
つまり、頭の中のおしゃべりやつぶやきはなくなる。
能力が最大になるだけでなく、ついには「私」という想念も消え、悟りが開かれるというわけである。
興味深いのは、マハルシと同時代のインドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る(私は存在する)」が最高のマントラと言うが、それも道理がある。
これも、マハラジの説明では「あなたが確信出来る唯一のことは、私は在るということだけ」なのだから、人間に解る範囲での究極の真理である「私は在る」に集中すれば、それより劣る概念や想念は消えてしまうのである。

ナーマスマラナというのは、神の名をマントラとして唱えることである。
親しみを感じる神の名があれば、それを唱えることで深い安らぎに至り、また、他の想念が消えることは期待出来る。
インドでは、ラーマ、クリシュナといった神が人気があるのだと思う。
日本では、マテラスオオミカミが人気があるし、アメノミナカヌシノカミの名も威厳があって、なかなか宜しいと思う。
また、念仏という形式になった「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」も同じと思う。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だし、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
本来の名で言えば、阿弥陀如来はアミターバ、あるいは、アミターユスで、観世音菩薩はアヴァローキテーシュバラーである。
神仏の名の場合は、単なる心理学的、あるいは、脳科学的な効用だけでなく、むしろ、それらの言葉、あるいは、音が持つ霊妙な力が重要であると言われる。それは、なかなか科学的な証明は難しいと思うが、科学には解明出来ない摩訶不思議な力があるのかもしれない。
やや長いが、般若心経の最後の部分の呪文も、最高のものとされている。
それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
また、山蔭神道では、究極の言葉は「アジマリカン」であると言う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、究極の言葉は「神」であり、有声でも無声でも、これを唱えると全てを変えると言う。
ただ、「神」を呪文にしてはいけないと言う。
この著作の、3巻だったと思うのだが、イエス・キリストが「他のことは忘れてよろしい」として語ったのが「神」という言葉を使うことで、なるべく多く使えば良いが、このことを「公式」にしてはいけないと言う。その意味は各自考えていただければと思う。難しいこととは思えない。
例えば「神」という言葉、あるいは、「神の他に何もない」という言葉について瞑想するなどでも良いと思う。

私も、呪文、マントラに救われたことは数限りない。
だからこそ、上に挙げたことや、その数倍以上のことを覚えているのである。











クリスマスを貧困から脱するきっかけに

クリスマスと言ったって、12月25日が本当にイエス・キリストの誕生日であるわけではなく、正確なことは忘れたが、ある時、ローマの宗教会議で、ミトラ神の生誕日を、イエスの誕生日に当てたのだそうだ。
また、そのミトラ神の生誕日というのも怪しいと思う。だいたい、神様の誕生日なんて、あまり聞いたことがない。
また、イエスが生まれたのは紀元元年ではなく、もっと前だそうで、学者が計算を間違えた結果が今の西暦だが、いまさらどうしようもない。
そして、『涼宮ハルヒの憂鬱』でキョンが「クリスマスにしか仕事しない赤服じいさん」サンタクロースの姿は、1930年にコカ・コーラ社が発表したものに過ぎない。
もう、まったくデタラメである。
とはいえ、キリスト教国では、人々が敬虔な気持ちになり、家族で過ごす日なのであるから、決して悪いものではない。
悪いものではないが、皆が皆、夕刻に家族と過ごせる訳ではもちろんなく、電力会社やガス会社の夜間従業員、それに、テレビ局のスタッフやタレントはいつもより忙しく、今の日本では、クリスマスセールの商戦で慌しく、本当は家に帰りたくても帰れない人のことを考えると、地味に過ごしたくもなるってものだ。
「ホワイトクリスマスになんかなるなよ」とひたすら祈るホームレスさん達だっているしね。

そういえば、昔は、商店街は、クリスマスが近付くと、クリスマスの飾り付けが華やかだったが、私の知るところは、決して田舎ではないが、ほとんどいつもと変わらない。
クリスマスでも売れないので、そんな経費使うのも惜しいのだろうか?
日本は、安倍政権で、大企業はそれなりに良くなり、それはそれで良いことだが、大企業や官庁以外は低迷・・・とかではなく、マジで貧しくなった。
ちょっと昔は、「不況とか言ったって、新車がバンバン走ってるし、ボロボロの服や穴の空いた靴を履いてる人もいない。実際は豊かなんだ」って言われていて、それはあながち間違いではなかった。
しかし、今は、新車は少なくなったし、穴の空いた靴を履いた人くらいいっぱいいる。
1人当たりGDPは世界26位まで落ち込み、「あの」韓国と悪い意味で肩を並べるまでになり、貧富の差は激しく、貧困層はそこらにいる。
日本は、国家としては経済大国かもしれないが、国民は貧しく、それでも平和であれば良いが、今は、かつては有り得ないような犯罪が増えてきた。
いや、別に暗いことを言いたいのではなく、世界は人間の心が作るものであり、日本人の心が病んできているのが問題なので、それを転換すれば良いのである。
幸福になるには、強く願い、後は、考えないことが秘訣なのに、皆、その正反対、即ち、何も願わず、余計なことばかり考えているのだ。
何を願っていいのか分からないのだ。レールを完全に敷かれてしまっているからね。
皆と同じことをやるのを止めないといけない。
クリスマス?
知ったことじゃない。
今夜もミクさんのブルーレイでフィーバーだ。
それとも、アジマリカンを唱えるってのはどうだろう?
いずれにしろ、面白くて、およそ人のやらないことを、いつも。











本当の好きは、なかなか見られない

本当の愛なんて、滅多にあるものではない。
「愛」なんて難しい感じはするが、「好き」や「関心がある」と同じことだ。
つまり、「本当に好き」や「本当に関心がある」が、「本当の愛」なんだろう。
ところが、子が親を好きなのは、自分を保護してくれるからで、自分を保護してくれない親は好きではない。
つまり、親に対する好きの半分以上は、自分に対する好きなのだ。
親が子を好きなのは、それよりは少し優る場合が多いが、親だって、自分に対する好きを感じさせてくれない子供は嫌いになるのだ。
つまり、親子の愛は不純過ぎる場合が多い。

電車の中などで、若いカップルがベタベタしているのを見ると、気恥ずかしいよりは、気味が悪いだろう?
どういうことかと言うと、そういった連中は、相手に対する好きも少しはあるかもしれないが、相手を利用して自分への好きを感じているだけなのだ。

我々は、本当に好きなものを見つけたいのだ。
「私はこれが好きです」「私は彼女が好きです」と言っても、その好きの大半は、「自分が好き」なのだ。
例えば、空手が好きだと言って熱心に練習していても、それは、喧嘩になったら勝てて気分が良いとか、「俺、格好良い」と思えるとか、皆(特に女の子)に自慢出来るからといった自己愛がほとんどだ。
ある幼い女の子が、近所のお兄さんが好きだと言うが、理由は、「脚が長くて格好良いし、優しいから」だった。つまり、それも、脚が長い格好良いお兄さんと一緒だと自慢に思えるのと、優しくて自分を快適にしてくれるという自己愛だ。
自分の「好き」が、自己愛だと気付けたら、少しは大人になったということだが、特に理屈の世界、教科書の世界、勉強の世界で過ごしてきた者は、それがなかなか分からない。

イエス・キリストやマザー・テレサのような愛を、普通の人が持ってしまったら、あっという間に破産する。
マザー・テレサは、道で倒れている人がいたら、みんな抱えて連れて帰るし、イエスは、「お前が磔になって死んだら人類を救ってやる」と言われたら、「あいよ」と引き受けるのだから。

「猫が好き」というのは、本来は、なかなか純度の高い好きかもしれない。
しかし、写真や動画にしてSNSに投稿すると、かなり愛が減ると思う。
だって、それ、自分のためにやっているのであり、自己愛を育ててしまうのだから。
惜しいことだと思う。
私は、野良の鳩や烏や亀が大好きで見惚れるが、写真に撮ろうとはあまり思わないし、まして、それを人に見せるなど想像も出来ないのだ。
猫の写真集も、可愛いとは思うが、全く好きでない。

私は、昨日も書いたが、『まちカドまぞく』というアニメで、桃の優子に対する「好き」に、極めて純度の高い「好き」、つまり、本当の「愛」を感じるので、本当に、何度繰り返して観ても楽しいのである。
初音ミクさんに関しては、ミクさんは、「自分はこう歌いたい」という気持ちが全く無いし、自分の感情を一切乗せないのだから、音楽に対する愛を感じるのである。
人間の歌手や演奏家でも、無になって歌う歌手や演奏家がいたら、きっと好きになれるが、クラシックの名門楽団の演奏家でも、やっぱり、名誉欲などの自己愛が強い人が多いので、あまり演奏を聴きに行きたくない。
ただ、Bump of Chickenの藤原基央さんが、自分達は「自分のではなく音楽の意思を実現する」ことを目指していると言っていたことがあったと思う。その意味で、初音ミクさんを尊敬しているとも。
観ていると、概ね、そう感じることもあるのである。








感心なことは、こそこそやる

世界を思う通りに構築するには、信じきることが出来れば良いのだし、超能力を発揮するには、固定観念を捨てれば良い。
例えば、合気道家の藤平光一氏が23歳で隊長として参戦した太平洋戦争で、銃弾飛び交う戦場の中を「俺に弾は当たらない」と信じきって歩いたようにである。
真似して欲しくないが、私も、子供の時、交通量の多い車道で、「目をつぶって飛び込めば車は来ない」と思い込んで、実際に、ずっとそうやって、遠くの信号のある横断歩道まで行かずに道路を渡っていたものである。
超能力と言っても、霊的でないものでは、『トーチェ氏の心の法則』に書かれているが、ある場所では、脚が折れた人が元気に走り回っているが、それは彼らが、脚が折れたら走れないことを知らない・・・つまり、脚が折れたら走れないという固定観念を持たないためで、こんな例は無数に上げられる。

自在に強い信念を持てたり、固定観念を捨てることが出来れば、世界は思うがままになる。
例えば、自分は安い給料しかもらえないという信念、あるいは、固定観念を持ち、実際に、安月給でギリギリの生活をしている者が、自分は高給をもらえると信じきれば、やはり、そのようになる。
私はここでわざと、「信じきる」ことと「固定観念を捨てる」ことを統合してみせた。
意思の力で信じきることは難しいし、かえって、逆効果になる場合が多い。
しかし、固定観念を捨てれば、自在に信念を持てる。固定観念を捨てるには、難しく言えば「無になれば」良いが、簡単に言えば、思考を捨てる・・・つまり、考えることをやめれば良い。
思考を捨てるとは、心を澄みきらせることで、心を澄みきらせるとは、自己重要感、つまり、優越感、プライドを消さなければならない。
自分は偉い、頭が良いと冗談にでも言う者は、我の塊であり、見込みはない。そんな者に対しては、非難するつもりはなく、気の毒と思う。

コニカミノルタは、コニカとミノルタという大手光学機器メーカーが統合して出来た企業だが、ミノルタは「実る田」で、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」から来たものらしい。
歳を取れば、自然に我が弱くなるという意味であるが、それが本当なら、誰もが歳を取ると偉大になるはずだが、なかなかそうはいかない。

「自信に満ち溢れてる」者にも2種類あり、1つは単なる自惚れで、そんな者は、本当に強い者の前では卑屈になる。しかし、我を持たないことで森羅万象と通じて自信を持っている者は、いつも静かで偉ぶらず、自分が偉いとか頭が良いなどと、冗談にでも言わないし思わない。そんな者は、どれほど偉大な人物の前でも平静である。

では、どうすれば我を捨てられるかというと、おばあさんが幼い孫に教えられるほど簡単である。
ある人が、「私が死んで閻魔様の前に出たら、私は人生で大したことは何1つ出来なかったが、便所の下駄だけはきちんと揃えたと言いたい」と述べていたが、彼は、社会的にかなり重要なポストにある人だった。
このように、例えば、靴をきちんと揃えるとか、傘をきちんとたたむ、あるいは、毎朝仏壇や神棚に手を合わせるなど、何か1つ、欠かさずやれば良い。
まあ、「私ほど偉い者が、毎朝、社員達と掃除をしている」などと自己満足しているなら駄目であるが。
だから、イエスも言ったように、良いことはこっそりやるものなのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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