ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

最も高貴な心

人間にとって、最も高貴な精神は、自分を超える者を敬うことであると思われる。
それは、一般的には、職業、武術、芸事の師に対する場合、あるいは、会ったこともないが崇拝する人物に対する場合などが多い。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』のように、普通の女の子を女神のような存在と見なして崇めることもある。
あるいは、ロオマン・ガリーの『自由の大地』のように、空想の少女を崇めたり、初音ミクさんのようなバーチャルな存在を崇めることもあるだろう。
だが、どの場合も、人間の精神の高度な部分の現われであり、それは良い影響を及ぼし、真摯さや熱心さによって、極めて優れた、さらには、不思議な効果を現す。
そして、自分を超える者を敬うことの中でも、最高のものが、念仏や、神の名を唱えるジャパ、あるいは、ナーマスマラナと呼ばれるものだ。
だから、念仏やジャパに良い効果がないはずがない。
キリスト教の「キリエ・エレイソン」や「ザ・ジーザス・プレイヤー」も同じようなものだと思う。

ところで、変わった・・・と言うのもおかしいが、こんなやり方もある。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、イエス・キリストは「神」という言葉を使うことを奨めていて、これさえ覚えていれば、他は忘れてよろしいとまで言った。
ただ、「神」という言葉を公式にしてはならないと言い、著者のベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉の至高の効果は認めながら、この言葉を呪文にしてはならないと言う。
では、どうすれば良いかというと、心を込めて、あるいは、集中を持って一度だけ唱えるのである。それは、声に出しても、心で唱えても全く同じである。
これは書かれていなかったが、起床や就寝の時、あるいは、疲労を感じた時、あるいは、くつろいだ時に、そうやってしっかり唱えると、優れた効果があるだろう。
親鸞の念仏も、これに近いものだと思う。
また、やはり『ヒマラヤ聖者の生活探求』にあったが、イギリスのL.H.ロースンがやったように、「神の他に何もない」という言葉として唱えても良い。常にこの言葉を使うロースンが、著者の目の前で奇跡を起こす様子が描かれていた。

ラマナ・マハルシは、最高のマントラ(真言)であり、また、真の神の名は「私」であると言う。
彼の有名な言葉「私は誰か?」に関しては、彼はこれを呪文にしてはいけないと言ったが、「私」に関しては、常に唱えよとも教えている。
私の中にある真の私が、私を超える者・・・神なのである。

庶民が、無知・・・という訳ではないが、情報が少なかった時代には、法然や親鸞のような人が、「南無阿弥陀仏」と唱えよと教え、あるいは、日蓮のように「南無妙法蓮華経」と唱えよと教えるのは良いことだったが、今の時代は選択肢が多く、あっちにいき、こっちにおきしている間に時間が過ぎ、一生が過ぎてしまうかもしれない。
だが、どれも、「自分を超える存在を敬う」という、同じことなのである。
あまり迷わず、自分の好きなやり方を選べば良い。
それをやれば、絶対に間違いはないだろう。









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夏休みの早朝

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが「幸い(幸福)って何だろう?」と、自分やカムパネルラに問う場面がある。
ジョバンニは、それは、他の人の幸い(幸福)のために生きることであると言い、カムパネルラもそれに同意したと思う。
ただし、それは、いきなり出てきた疑問と答ではなく、ジョバンニの最近の辛い現実と、銀河鉄道に乗ってから起きた、様々な経験から起こった疑問と答であったはずだ。

幸せというなら、子供の時の夏休みの朝に感じたことはないだろうか?
子供達に、惰眠を貪らせないという配慮からか、我が国では、夏休みに、子供達に早朝ラジオ体操への参加を義務付けることが多いが、確かに、これをしないと、遅くまで寝ている子が多くなるに違いない。
そして、早起きは、身体に良いとかより、確かにもっと素敵なことがある。
『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが『知恵の七柱』の中で、砂漠の朝の神秘的な体験について語るところがあるらしい(私は『知恵の七柱』自体は読んでおらず、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』での引用で読んだ)。
その神秘体験こそ、幸福そのものであるが、なぜ、そんなことが起こるのかというと、脳が半分眠っているからである。
それは、夏休みに早起きした子供達にも、よくある状態のはずなのだ。
私もそうだったし、ロレンスの体験について見ると、私も同じだったと感じるのである。
それはどんな体験かというと、世界の意味をピュアに感じるとでもいうものではないかと思う。

だが、ロレンスは、早朝ならいつでも、そんな体験が出来ると言うのではなく、「稀に」と言っているが、子供達は、夏休みの朝、割合に頻繁に体験していると思う。
けれども、あまりよく覚えていないのだ。
では、ロレンスと夏休みの子供達では何が違うかというと、ロレンスに限らず、大人は、目覚めるとすぐに思考を働かせることだ。
実際、ロレンスは、それが起こるのは、「考え続けて疲れた朝」であることを挙げている。それによって、思考がなかなかやって来ないということだろう。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、人間にとって、最も貴い「存在の体験」は、やはり、目覚めて、思考がやってくるまでの間と述べていた。

だが、その幸せの体験は、いつでも出来る。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に、それが起こり易い」と言った。
しかし、総じて言えば、絶対にこうなのだ。
それは、「心配をしない時」だ。
イエスが「汝、思い煩うことなかれ」と言った通りである。
疲れて、思考が起こらない朝は、心配していないのだ。
江戸時代末期の神道家、黒住宗忠は、長く病に伏せって、死を覚悟した時、その体験が起こり、病気が治ってしまった。
宗忠は、その体験を、早く皆に伝えたいと思ったが、それを言葉で表現することは難しかったと思う。
宗忠は、いろんな心配で病気になり、自分は死ぬんじゃないかと心配したが、生きることを諦めて心配することをやめた時に、幸せが起こったのだ。
ジョバンニも、銀河鉄道の中で、一切の心配が消えたのだ。

一切の心配を消す方法の1つが念仏である。
実際、末期の癌で、もうすぐ死ぬという人が、『歎異抄』を読みながら念仏を唱えていたら、一切の心配がなくなって、見事な往生を遂げたというような話は多い。
もっと早く念仏を唱え始めていたら、癌も治ったかもしれないが、それは本人にとって、さほどの問題ではないかもしれない。
なぜ、念仏で心配が消えるのかと言うと、念仏とは、阿弥陀如来に象徴される無限の知恵と力に一切をまかせて安心することだからである。
正直、宗教やお坊様が話される念仏では、ピンと来ない場合が多いような気がする。
また、法然の『選択本願念仏集』では少し難しいかもしれないが、親鸞の弟子、唯円が書いた『歎異抄』なら、これの変な解説を読まなければ、念仏の意味が分かるのではないかと思う。









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心配はしないが馬鹿ではない

ラルフ・ウォルドー・エマーソンが『自己信頼』の中で、経済的な心配をしたことがない少年を称賛していたことが印象的だ。
当時(1800年代)のアメリカでもそうだったようだが、現代の日本でも、大半の家庭の子供がそうだろう。
つまり、食べるもの、住むところ、着るものは、あって当たり前だと思っているし、それを得ることが困難であるとは夢にも思っていない。

上皇上皇后両陛下が、天皇陛下、秋篠宮様をお育てになる時、「食事が魔法で出てくると思わせない配慮をした」という話を聞いたことがあるが、それでも、皇室どころか、多少貧しい家の子供であっても、ある程度は、生活は魔法で成り立っていると思うものなのだと思う。
イエス・キリストは、「何を着るか、何を食べるかで思い煩うな」と言い、さらに、「鳥は働かないけれど、神は鳥を養われる。まして、あなた方は鳥よりずっと優れたものであるから、神が面倒を見ないはずがない」と、生活の心配をしてはいけないと教えていたのは、よく知られている。
そして、エマーソンは、生活の心配を一切しない少年の意識が、少年に現実の力を与えていることを、はっきり述べているのである。

サラリーマンだって、給料は魔法で出てくるのだという感覚でいる者が多く、そんな者は「意識低い系」であると思われているかもしれない。
そうではなく、「自分の給料はしっかり自分で稼ぐ」と思う社員が立派だと言われることが多い。
しかし、どうだろう?
一人の社員が、自分の力で出来ることは大したことではない。
むしろ、自分の個人的能力にこだわる社員は問題を起こしたり、会社にもあまり良い影響を与えないものである。

とはいえ、子供にしろ、サラリーマンにしろ、あまりにのほほんとし過ぎているのも問題だというのは言うまでもない。
かといって、自分の力にこだわると心が貧しくなる。
つまり、「心配してはいけない」「横柄、高慢であってはならない」を両立し、「心配はしないが、高慢でもない」でなくてはならないし、そうであれば、高次元の力が加護するのだと思う。
そして、その意識を持たせるのが、本来は宗教なのである。
つまり、宗教とは、支配のためのものでもなければ、道徳を教えるためのものでもない。
そんなふうに、宗教の扱いを間違っているから、宗教が胡散臭いものになってしまったのである。
イエスもだが、法然や親鸞の念仏も「心配はしないが高慢にもならない」ためのもので、念仏を唱えていれば間違いないというのは、少しも不思議なことではない。
高次元の力の加護を語っている『福音書』や法然の『選択本願念仏集』、あるいは、『法華経』の25品である『観音経』の内容は、現代の感覚に合わない部分があるのは、時代が違うのであるから当然である。だが、それを了解して読めば良いのであり、「全部良いか、全部駄目」しか受け付けないというように頭が固いようでは駄目である。
しかし、吉本隆明が、「宗教家ではなく思想家」と言った親鸞の教えが書かれた『歎異抄』は、案外に現代でも無理がないと思う。
吉本隆明が、親鸞を宗教家でないと言ったのは、「それまでの、そして、現代の多くの宗教家のようでない」ということなのだと思う。
「鵜呑みにしてはならない」「だが、疑ってばかりでもいけない」のである。
人生は、このバランスである。
このバランスを与えるのが、宗教、あるいは、量子物理学のような新しい科学であるのかもしれない。









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念仏の威力を多面的に語る

改めて、「南無阿弥陀仏」という念仏がなぜ良いのか説明する。
経典によれば、西の方角の彼方に西方極楽浄土という究極のユートピアである仏国土があり、その世界の主は、宇宙最高の智恵と力を持った阿弥陀如来という仏様なのだが、その仏様の名を呼べば、死後、その国に生まれて、永遠に平和に暮せることになってる。
さらに、高僧の教えによれば、阿弥陀如来の名を呼べば、大いなる加護が得られる。
その阿弥陀如来の名の呼び方が「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来様にすべておまかせします)」という念仏なのである。
こんな話を信じる人も信じない人もいるだろうが、今の時代、まともに信じる人は少ないだろう。
だが、信じるからといって馬鹿ではないし、信じないからといって罰当たりな訳でもない。
心のイメージに嘘も本当もないし、心のイメージに価値がなかったり、さらに、力がない訳ではない。それどころか、驚くべき力がある。

我々がスマートフォンを有り難がる理由は、それで「つながっている」と思うからだが、人間自体に通信機能がないと思うのが誤解である。
別に、ESP(超感覚的知覚)のことを言っているのではないが、それとも関係するかもしれない。
電子は、人間が観察すれば粒子であるし、観察しなければ波動である。
この事実を見ても解るように、人間は元々通信機能を持っており、その通信は電磁波で行われているのではなく、その通信メカニズムは未知ではあるが完璧であり、通信速度は無限であると思われる。
人間の通信を受けるのは電子に限らないかもしれないが、電子は確かに通信を受けるのであり、電子はいかなる場所にもあり(宇宙空間にもある)、電子同士も通信するので、人間の心の作用が、どれほどの規模でどれほどの作用を及ぼすかは想像も出来ない。
物質世界は電子の影響を受けるので、人間の心は物質世界に影響を及ぼし、しかも、その影響は、様々な相互作用で大きくなっていくのだと思う。

宗教的にも、一休は、別に経典に書かれた西方極楽浄土にケチをつける気もなかっただろうが、
「西方極楽浄土は西にあるのではなく、南にある。南とは皆身のことで、我々の中にある」
と言い、我々の心が仏、つまり、阿弥陀如来であると言った。
これは、量子論とも通じた説明であると感じる。

また、阿弥陀如来は、元々は、アミターバ、アミターユスという名であるが、頭の「アミ」という部分はそのままである。
そして、キリスト教で「アーメン」と言い、神道で「アマテラス」という最高神がいるように、AM(アミ、アメ、アマ)という音に、国や地域を超えた効果があるのだとも言われている。
脳科学者の中野信子氏は、マ行の音に意味があることを『脳科学からみた「祈り」』に書かれていて、私にはこじつけっぽく思えたが(正直、私はこの人の話は半分信じていない)、やはり何か意味があるのかもしれない。
中野信子氏は「南無妙法蓮華経」という言葉を取り上げて説明していたのだが、もちろん、「南無阿弥陀仏」にも当てはまる。
そもそも、共に、先頭に「南無」があり、ここにマ行の音(さらにAMの音)があるのであるから、「南無観世音菩薩」も「南無弥勒菩薩」も同じで、念仏に「南無」を付けるのは、音の効果の意味もあったのかもしれない。

さらに、声に出す出さないに限らず、常に念仏を唱えていれば、余計なことを言ったり、考えたりせずに済む。
イエスが「人は口に入るもの(食べ物)で穢れたりしない。口から出るもの(言葉)で穢れる」と言ったように、悪い言葉を使うほど、脳にダメージを与えることはなく、それは、心、あるいは、心臓に悪いということにもなると思う。
また、言葉は心から出るのであり、悪い考え、悪い心の言葉は、魂を汚す。
そうであれば、それをせずに済む念仏は非常に良いものである。
天才発明家の中山正和氏は、世界最高レベルの能力開発の専門家であったが、彼は、般若心経の呪文を唱えることで、頭のイメージを乱す悪い言葉や考えを切ることを薦めていたが、それも同じことなのだと思う。
しかも、既に述べた通り、念仏は、音としても良く、さらに、阿弥陀如来という人間を超えた存在を認めることでもあるのだが、人間がそのように思うことは、この上なく優れたことなのである。









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ベーシックインカムで我々は幸福になるか

ベーシックインカムというものをご存知だろうか?
「そのくらい知っているよ」と誰もが言うくらいポピュラーなものかどうか知らないが、私も、あまり詳しくない・・・というか、極めて大雑把にしか知らない。
もちろん、まだ構想段階であるが、私が解る範囲では、「働かなくても、政府が最低限生活出来るお金をくれる」というものだ。
お金のばら撒きのようであるが、これにより、貧困がなくなり、ブラック企業を辞めることが出来、生活のために盗む必要もなくなり、全体としては国は平和になると言われている。
月額について言えば、5万円程度なら、今すぐにでも実現出来るという意見があるが、実施するなら、月額5~15万円位で、7、8万円が妥当との意見を見た覚えがある。

ただ、昔、完全な共産主義国家だった旧ソ連はベーシックインカムに近い世界で、割り当てられた仕事の成果に関わらず、生活出来る給料がもらえるので、仕事の効率が恐ろしく悪くなったという話がある。
それは、昔の中国でもそうだったと思うが、どうも、人間は生活が保証されてしまうと、堕落し勝ちで、それで以前の中国は経済が傾き、今だって、GDP世界2位の経済大国と言ったところで、貧困層の数は膨大である・・・いや、一部の富裕層以外は貧しいのかもしれない。

ベーシックインカムについては、国内でも肯定的な考え方をしている人も多いように思う。
そりゃ誰だって、働きたくないと言えば働きたくないし、日本は、大企業に関しては、政府が主導する「働き方革命」に従わないと罰則を受け易いので、社員はかなり楽になったように思うが、大部分の人が働く中小企業や、まして、零細企業では、まだまだ働き易いとは言えない職場も多いし、ブラック企業もいくらでもある。

まあ、今のところ、60歳を超えれば年金で生活が出来るらしく、ベーシックインカムが導入されたら、若い時からそんな状態になる訳であるが、歳を取れば、あまりお金は必要ではないが、若い人は、月7万では面白くないかもしれない。
もちろん、自分で稼げば、支給は取り消されるのだと思う。

イエス・キリストは、「神は、あなた方に必要なものが何かはご存知であり、それは必ず与えられる。だから心配するな」と言ったらしいが、そうであれば何よりである。
私自身は、生活の心配をしたことはないし、別にキリスト教信者ではないが、実際上、イエスの言う通りに考えてたし、その通りだった。
ある意味、「何とかなるぜ、世の中は」である(そう歌う歌があるらしい)。
ただ、大切なことは、「何とかなるぜ、世の中は」と思うことが出来る心の強さが必要だということだ。
あまりに、「私なんか生活出来ないんじゃないだろうか」と心配し過ぎると、本当にホームレスになったり、極貧に陥ったりしかねない。
日本は元々、「おかげさまで」「お世話になっております」の国であり、これらの言葉は、全然、おかげをもらっていない相手や、世話になっていない相手にでも言うのであり、それは暗に、神様に対して言っていると考えられる。
よって、普通に謙虚に、礼儀正しくあれば、この日本で、生活に困ることはないと思う。
むしろ、ベーシックインカムが導入され、これまで、神様のおかげ、仏様のおかげと思っていたのが、政府のおかげ、国家のおかげになるのが、どんなことになるか(良いふうになるかもしれないが)分からない。
ドナルド・トランプが信頼する牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ベストセラー『積極的考え方の力』の最後で、ピールは読者に、神の力を求めるよう訴えている。
いずれ、その有効性が、科学的に肯定されるのではないかと思う。









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