ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

1億円を2度当てた原理を解く

日本プロ野球史上、ただ1人、三冠王を3度達成した落合博満さんが、テレビで、「全打席ホームランを狙ってた」と言っていたところを見たことがある。
つまり、彼にとって、ホームランは幸運でも奇跡でもない。

そこで面白いことに気付く。
「幸運=奇跡」だということだ。
つまり、
「幸運だが奇跡ではなかった」
「奇跡だが幸運ではなかった」
などということはない。
そう言うと、
「いや、二択問題で、当てずっぽうで当たったのは、幸運ではあったが、奇跡というほどでもない」
と言う人がいるかもしれない。
だが、それもやっぱり奇跡なのだ。
例えば、動作中の時限爆弾があり、赤と青の電線のいずれかを切れば止まるが、そうでない方を切れば即座に爆発する・・・なんて映画や小説がよくあるような気がする。
その時限爆弾が爆発寸前で、正義の探偵やスパイが、それなりの予測が立ったか、あるいは、全くの当てずっぽうかの別はあるのだが、とにかく、運を天にまかせて片方を切ると爆発しなかった。
これも二択だが、奇跡と言うしかない。

小説・アニメの『灼眼のシャナ』で、超人的戦士になったシャナが最初に戦ったのが、とんでもない強敵である天目一個(てんもくいっこ)だった。
天目一個のあまりの強さに、実力差を思い知るシャナは、度を越した大胆な戦法に出て、天目一個に打ち勝つ。
シャナのペンダントに封じられた魔神アラストールが言う。
「無茶をするやつだ。得たばかりのフレイヘイズ(シャナのような戦士のこと)を失ったと思ったぞ」
すると、シャナが静かに返す。
「勝ったのはたまたまだって解っている。でも、そうするよりなかった」
これも、幸運であり、奇跡である。

幸運、あるいは、奇跡は、狙って起こせるものではない。
言い換えれば、幸運、奇跡は、「予測出来ないもの」なのである。
例えば、大儲けを狙って馬券を買って当たったとしても、それは本来、幸運でも奇跡でもない。
そして、狙って買った馬券は当たらない。
狙った場合は、確率の支配下に置かれるからだ。
だが、当てるつもりなど全くなく、気紛れで買った馬券は、不思議なことに確率の法則に縛られず、当たってしまうことがよくある。
あるいは、拾った馬券が大当たりすることもある。

ここでよく取り上げる、「神様の奇跡が起こる」と唱え続けて、1億円を2度当てたホームレスは、完全に確率の法則から外れている。
ある日、たまたま頭に数字が浮かんだ時に、歩いていたら、たまたまロト6の売り場が目に入ったので、たまたま買っただけだ。
彼は、「神様の奇跡が起こる」と唱えたことで、「狙う」という意識が消えたのだ。
それで奇跡、つまり、幸運、つまり、自分の意志でなく、神の意思が実現したのだ。
イエスも言ったのである。
「私の想いではなく、あなた(神)の想いが実現しますように」

あなたの輝かしい勝利は、幸運であり奇跡である。
たまたま・・・と言っても良い。
だが、それは、勝利を狙わないから起こるのだ。
有名な『柔』という歌で、
「勝つと思うな 思えば負けよ」
という歌詞があるが、作詞した関沢新一氏は、実際、凄い人物であった。
彼は、この詩で、宇宙の法則、人生の真理を完璧に語ったのである。

幸運を狙わず、さりとて、投げやりにならず、自分に出来ることをする。
これが勝利の秘訣というか原理であり、世界的教育者、七田眞氏の本に書かれている、七田氏が絶対に事実と言う、上に挙げた1億円を2度当てたホームレスは正しいことをしたのである。







ひざまずいて祈れば叶う理由

洋の東西を問わず、特に熱心な祈りの時にはひざまずくイメージがある。
その訳は、どうしても叶えたい強い願いがある時には、直感が強く働き、ひざまずくことが有効であることが分かるからである。
だから、特に願いが強い場合は、自然と片膝をつくものである。
両膝をつく場合は、やや決意に弱さ、鈍さがある。
実は、片膝をつくことが重要なのではなく、しゃがむだけで良いのであるが、それだとバランスが悪いし、長時間、その姿勢を保つことが難しいこともある。

なぜ、熱心な祈りの時にはひざまずくのかというと、腹に力が入るからだ。
人間は、腹から力が抜けた時に、悪い想念が起こるのである。
明治・大正の偉人、岡田虎二郎が、「常に腹に力を込めよ」と教えた理由はそれで、悪い想念、邪まな想いが心の中に入り込むのを防ぐためである。
人間は、心で思ったことを実現させる力を持っている。
しかし、心の思いが明瞭でなければ、その思いは実現し難いのであるが、思いにノイズを起こさせるものが、腹から力が抜けた時に起こる悪い想念なのである。
つまり、何かの目標を達成したいと思っていても、腹から力が抜けていると、「そんなこと出来っこない」「きっと失敗する」という想念が起こってしまい、結果、その目標を実現するために十分な心のエネルギーが得られず、失敗してしまうのである。

だから、肝心なことは、腹に力を込めることなのであるから、必ずしもひざまずく必要はない。
腹に息を吸い込み、ぐっと息を詰めると、自然に腹に力が込もる。
そんな時に、何かを願うと、それは実現する。
ある大作詞家は、息を十分に吸ってから息を止め、曲がヒットする様子をイメージし、息を吐いたら全て忘れるという。
そうして作った曲はヒットするが、それをせずに作ったヒットした試しはないと言っていたらしい。
(『強くなる瞑想法』表紙折り返しの阿久悠氏の言葉)

腹に力を込める方法は無限にある。
好きなやり方でやれば良い。
その中でも、腹に息を沢山吸って止めるのは良いやり方である。
岡田虎二郎の「岡田式静坐法」も、腹に息を多量に吸って止める方法を取り入れている。
腹に力を込めて、言葉で願ったり、願いが叶った様子をイメージすれば、確実に、その実現に近付く。
力が込もった腹は、心に磁力を発生させ、願うものを引き寄せるのである。
ただ、顔が赤くなるほどの万力の力を込める必要はないし、込めてはならない。そんな不自然なことが長く続くはずがない。
ひざまずいた時程度の、軽い力を込めれば良いのだ。
しかし、普段、腹から力が抜けていて、悪い想念に支配されていれば、願いを叶える力は打ち消されてしまったり、マイナスの状況を作ってしまいかねない。
だから、弱い力で良いので、出来るだけいつも、腹(ヘソのあたりで良い)に力を込め続けるべきである。

イエスも教えていたが、よく言われるのが、願いが叶ったかのように振る舞えば願いは叶う。
だが実は、願いが叶ったかのように堂々と振る舞う時というのは、腹に力が込もっているのだ。
逆に言えば、腹から力が抜けていれば、自信を持って、願いが叶ったように振る舞えない。
だから、腹に力を込め、願いが叶ったかのように振る舞えば、確実に願いは叶うのである。







親鸞が一番凄い

親鸞は仏教の中の浄土真宗の開祖とされているが、彼は僧というよりも、思想家として人類の歴史でも稀な人と思う。
釈迦やイエスの後の人が、彼らを開祖とする仏教やキリスト教を作っただけで、釈迦やイエス自体は思想家であったようにだ。
思想家と言っても、学術用語の思想家と言うのではなく、哲学者とでも精神指導者とでも、何と呼んでも構わない。
思想家とか哲学者と言ったら、すぐに、それらの教科書的な定義を持ち出さずはいられない学問馬鹿が多いと思うが、そんなことはどうでも良い。
人間は誰でも、どんな愚か者でも、思想家であり哲学者であるが、別に教祖と言っても構わないのである。

親鸞の何が凄いかというと、こんなことを言ったところだ。
「我々は何も善いことをしなくて良い。なぜなら、念仏以上の善はないからだ」
「我々はどんな悪いことをしても救われる。なぜなら、念仏の救いを妨げるような悪はないからだ」
だから、念仏さえ唱えていれば良いということになる。
そして、それは、私(親鸞)の考えではなく、お釈迦様の教えの根本だと言う。
釈迦がそんなことを教えたという証拠はないと思う。
しかし、釈迦の真の思想を理解すれば、その通りなのだと思う。
まあ、認めない人も多いとは思うが。

念仏さえ唱えていれば後は一切いらないというのが、本質で言えば釈迦の教えであり、イエスの教えである。
もちろん、イエスが「南無阿弥陀仏」と唱えよと言ったのではない。イエスの場合は、「第一の戒律は神を愛することだ」「全ての荷を私を通し、神に負わせよ」と言ったようである。
そして、「南無阿弥陀仏」というのは、仏様という絶対者に全てまかせよという意味であり、イエスの言うことも全く同じことなのだ。

親鸞も、阿弥陀如来という仏様が、仏像や仏画に描かれている姿をしたものとは思っておらず、仏様は形も色もない存在だということは理解していた。
意識を向ける対象として、仏像や仏画があるだけである。
仏像や仏画の作者達も、自分が本当に仏様を見た訳でないことは百も承知なので、それが自分の心の反映であることは解っていて、良い仏像や仏画であるほど、人々が意識を向ける対象になることを目的としているのだと思う。

確かに今の時代、何の「ひっかかり」もなく、「南無阿弥陀仏」と一心に唱えられる人は少ないと思う。
阿弥陀仏のインドでの元々の名前であるアミターバが無限の光という意味であるように、阿弥陀仏は宇宙の根源の力であり、それは人間の理解を超えているので名付けようがないので、仮に阿弥陀仏と呼んでいるだけである。
ジョセフ・マーフィーが、ある本で「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」と呼んでいたものと同じだ。
それが理解出来れば、我々でも「ひっかかり」なく「南無阿弥陀仏」と唱えることは出来るが、「南無阿弥陀仏」と言った途端、「あ、それ仏教のアレですね」「宗派は浄土宗ですか?浄土真宗ですか?」ということになるから面倒なのである。
宗派など、何の関係もないが、なかなかそれが通用しない。

阿弥陀如来、あるいは、仏様が、宇宙に偏在する無限の力であることを理解すれば、「南無阿弥陀仏」で良いのだが、世間では、この考え方を理解しない。
だが、「南無阿弥陀仏」は、最近、時々書いている「神様の奇跡が起こる」と「全く」同じなのである。
まあ、こう言えば、「そんな訳あるか!」とか「神と仏は違うぞ!」という、見事に教育されてしまった人達が多いので普段はそんなことは言わないが、日本人にとっては、「神」という言い方の方が、宇宙に偏在する力のイメージに近いと思う。
それは、日本では仏教に比べ、キリスト教の方がずっと少ないので、神という言葉についいた宗教色・宗教臭の方が、仏様についたそれより少ないからだ。
宗教的な馴染みがないから良いという、宗教家にとっては残念なことであるが、それだけ、多くの宗教家、宗教団体のレベルが低いということである。それは、優れた宗教家も認めるところではないかと思う。

我々は、「神様の奇跡が起こる」とずっと唱えていれば幸福になれる。
この言葉にも「ひっかかる」なら、「神は道なきところに道を作られる」を。「神」という言葉も駄目なら、「私は目の前で起きることを驚嘆の目で見る」と唱えると良い。
別の考え方もあろうが、本質的には、成功や幸福の根本原理はこれしかないのである。











偉大なる嘘つき達

大物かどうかは関係なく、愉快な人生を送っているのは、状況を作り出す能力を持った者だ。
では、それはどんな者だろう?
それが、『8マン・インフィニティ』(講談社)5巻に書かれている。

その世界の戦いを決するのは“速さ”でも“火力”でもない!!!
勝利するのは・・・自ら状況を生み出す者!!!
より強い意思を持つ者だ!!!

尚、「その世界」とは、マシナリー(スーパーロボット)同士の戦いで、テクノロジーの粋を極めた世界でもそうなのだから、当然、人間の世界も、そうである。
では、「より強い意思を持つ者」とは何か?
これはもうはっきり分かっている。
「豪快な嘘つき」
だ。

以前、民進党の代表だった蓮舫さんが、安倍総理のことを、
「息をするように嘘をつく」
と言い、最近では、国民民主党総合選対本部長相談役の小沢一朗さんが、Twitterで、安倍総理のことを、
「平気で嘘をつく。嘘をついても平然とできるという一つの才能。」
とボコボコにしていたが、だから安倍総理は日本人の中ではトップの大物なのだ。
それに比べ、学歴詐称のようなつまらない嘘を、コソコソ、オドオドつくものは小物で、状況を生み出すのではなく、状況に押し流されて消えていくのである。

では、大物嘘つきの指南を受けよう。
その大物とは、世界中に空手ブームを起こした大空手家である大山倍達さんである。
その大山さんの伝記『大山倍達正伝』は、ぞっとするほど恐ろしいまでの労力をかけて書かれたものだ。
今朝も、その話をしたが、私の記憶違いもあったので、もっと正確に引用しよう。
この本の著者である、大山倍達さんのお気に入りと思われる元弟子が、大山さんの書籍間の矛盾を追及した時の話である。
大山さんの本は非常に沢山あるが、それらの本ごとに重要なことが矛盾していることは多い。
まあ、大山さん自身が本当に書いた本はなく、全てゴーストライターが書いたものだし、しかも、大山さんは、編集者に本の趣旨だけざっくり話し、「後はいままでの本を参考にして書いてくれ」と言っていたらしいが。
そして、重要なことでの矛盾について、その弟子が大山さんに問い詰めると、大山さんは真っ赤な顔で、
「そんなことはどうでもいいのよ。嘘も百回繰り返せば伝説になる。千回繰り返せば真実になるのよ。わかったー?」
と怒鳴るらしい。
しかし、元弟子は、そんな大山さんが好きだったと言う。
その、「どうでもいことだ」と言い放つ大山さんに、常人にはない豪傑振りを感じたと、元弟子は本に書かれている。

斎藤一人さんが、初期の頃の本(この頃は良い本が多かったw)『千回の法則』で、「幸せだなあ」と千回言えば状況が良くなってくるといったことを書かれている。
ところで、今、「幸せだなあ」と言うのは、大抵、嘘なのである。
しかし、大山さんが言われた通り、千回言えば真実になるのである。
会社の売上げを5倍にするなら、「5倍にするよ」と、やはり千回言えば良いとも、斎藤さんは書かれている。
これについては、私の近くでも、こんな話があった。
ある社長が「上場するよ」と言ったが、幹部も誰も信じない。しかし、その社長は「上場する」と言い続け、本当に上場したのだ。

だが、もっとミラクルな結果を求めるなら、過去完了形を使った方が良い。
これは、何度かお会いした発明家の政木和三さんがよく言われていたことだったし、ジョセフ・マーフィーも、そして、何より、イエス・キリストが、
「願い事は既に叶ったと思え。そうすれば叶う」
と言っている。
しかし、叶ったと思うことが難しいので、皆、願いを叶えられない。
しかし、人間の脳は、500回言えば信じるようになっているらしい。
それなら、姑息な心理学的テクニックみたいなものに頼らず500回言えば良く、1000回も言えば状況が変ってくるのだろう。








心配したら負け

大半の人が、心が晴れないように見える。
まあ、周囲を見渡してそうなのだが、少なくとも、日本では当たってるのではないかと思う。

なぜ、心が晴れないのかというと、不安があるからだし、恐怖を持っている人すら少なくない。
では、皆、イエスの教えに反している。
なぜなら、イエスの教えは「心配するな(汝、明日を思い煩うな)」で、つまり、「神様が面倒を見てくれるのだから、心配は無用」ということだ。
しかし、いたるところに、神様に面倒を見てもらえていない(ように思える)人々がいる。
病気になったり、事故に遭ったり、パワハラやセクハラを受けたり、失業したり、殺されたり・・・
だが、それは、イエスの教えを適用するなら、不安や恐怖を持っていたからだということになる。
とりあえず、その通りだとする。

だが、不安を持たない人間はいない。
しかし、そうだからこそ、分かることがある。
それに関して、ある印象的な出来事を私は覚えてる。
経営する会社の上場を果たしてから数年の社長に、経営コンサルタントが尋ねた。
「株価は気になりますか?」
すると、社長は、こう答えた。
「初めの頃は気になりましたが、今は全く気にしていません」
経営コンサルタントは、ちょっと顔をしかめた。つけ入るチャンスはないのだ。
その社長の会社は業績好調で、その後も好調が続いた。社長は、会社に不安を持っていなかった。
ところが、その社長は、自分の子供の行く末には不安を持っていて、良い大学に入り、良い就職が出来るよう、自ら関与した。
結局、彼の子供たちは駄目になった。
彼は、子供たちのことも、あまり心配せず、出来るだけ放っておけば良かったのだ。

一見、明るく、自信たっぷり、あるいは、脳天気で、不安など全くないように見えるが、どこか不自然な人っているだろう。
明るいが、明る過ぎたり、自信があるふうだが芝居がかっていたり。
つまり、そんな者たちの平穏な態度は見せかけで、心の中には不安がいっぱいなのだ。
そんな者たちには、悲惨な未来が待っている。

上に述べた社長から、私はよく、ぼーっとしろと言われたものだ。彼は、それが経営の、そして、あらゆることの成功の秘訣であることを知っていたのだろう。
下に著書を紹介する画家の足立幸子氏や、UFO研究家の矢追純一氏らは、その著書の中で、決意したらぼーっとすることを薦めておられる。
ぼーっとすれば不安は入り込まない。
それがイエスの説く、幸福の秘訣なのだと思える。
親鸞も「南無阿弥陀仏」は、お祈りではなく、既に救ってくれたことへの感謝なのだと述べた。そう思って安心すれば、親鸞が別のところで説いた通り「この世の利益に際限はない」のである。
「アジマリカン」を唱えれば絶対なのであるから、安心すべきである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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