ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

夢の綻びに魔法アイテムがある

眠っていて夢を見ている時、それが夢だと見破るには、どうすれば良いだろう?
それが分かれば、あなたは魔法の力を手に入れるだろう。

『灼眼のシャナ』(小説、アニメ等)で、主人公の坂井悠二(高1男子)は、敵の魔力で夢を見せられていることに薄々気付いていたが、それを確認しようとしていた。
そこで、コーヒーを持って来てくれた母親に尋ねた。
「母さん、このコーヒー、どこで買うの?」
すると、母親は静かに笑い、
「美味しいわね」
と言う。
悠二は母親が、どこでコーヒーを買っているのかを知らない。
だから、悠二が知らないことを、悠二の夢の中で母親が答えるはずがないというロジックで、悠二は、これが夢だと分かる。
でもまあ、これは実際はおかしい。
自分が知らないなら、母親がどんな答をしても良い訳である。
それはともかく、その後、悠二は、これがもう夢だとほとんど確信した上でだが、高い塔から飛び降りたのは良いやり方だ。
しかし、あなたにそんなことが出来るだろうか?
世界的画家の横尾忠則氏が著書に書かれていたが、横尾氏は夢の中で崖の高い場所にしがみついている時、これが夢だと分かっているのに、手が離せなかったそうだが、それが普通だ。
私も、火事になったビルの屋上に居る夢で、助かるには、隣のビルにロープ伝いで行かなければならないという状況で、これが夢だと分かっているのに、そんな怖いことをしなければならないことにうんざりしたことがある。
つまり、夢の中でも、怖いことは怖いし、嫌なことは嫌なのだ。
夢は夢で、奇妙な統一性があり、犬が電話で話してたって不思議だとは思わないほどの合理性を感じるものなのだ。
だから、夢だと分かったところで、高いところから落ちれば死ぬとしか思えないのだ。

むしろ、崖にしがみついている時は、イエスの教えに従うと良い。
つまり、「神を試すな」である。
崖から手を放さなくて良い。
そして、次は、一休さんの遺言に従う。
つまり、「なんとかなるんじゃないかな」と思うのである。
一休さんの遺言は、「心配するな、なんとかなる」だったと伝えられている。
修羅場をくぐって来た人は、皆言うのだ。
「なんとかなるさ」
と、笑いながら。
なんとかなると思うと、なんとかなるのが世の中だ。
もし、なんとかなると思えないなら、微笑んで「なんとかなる」と言えば良い。頭の中ででも良いから。

で、どうすれば夢だと見破れるかという、最初の問題の答だが、何とそれは、「夢から覚めれば分かる」である。
学校の試験的に考えてはいけない。
だから、夢から覚めてしまえば良いのだ。
覚めれば分かることを、夢の中で悩むなど愚かである。
そして、どうすれば夢から覚めることが出来るかというと、1つは、無茶をすること。
悠二のように、高いところから飛び降りたり、学校や会社のマドンナのスカートでもめくれば良い。
だが、それは、なかなか出来ない。
そこで、微笑みながら「なんとかなる」と思えば(あるいは唱えれば)、夢に綻びが出来る。
夢の綻びが出来ると何が起こるだろう。
私は何度もやったので、3つほど取り上げる。
そして、これらは、現実という夢の綻びであることに注意していただきたい。
現実も夢なのだ。
私は、3歳の時、猫と遊んでいたら、猫がバラバラになって崩れたことがある。
また、6歳の時、近所の子供が地面に倒れた時、頭から大量の血が流れているのに、それを見ている周囲の大人が平然と談笑をしていたことがある。
そして、先々月の20日、アメリカの大統領就任式の数時間前に、YouTubeのライブ放送で、就任式が行われるワシントンの議会議事堂の映像を見ていたら、議会議事堂の周辺の数カ所から煙が上がるのを見た。
全て、現実という夢の綻びである。
私は特別な方法を使ったが、夢、あるいは、現実に綻びを作れば、そんなことが出来る。
そして、簡単には、「なんとかなる」と思えば良いのである。

自信を持てば、夢に綻びが出来るのだ。
まず、微笑むことは、自信を持つことにつながる。
だから、微笑みながら「なんとかなる」と言えば、「なんとかなる」ことに自信が出てくる。
だから、普段から、「なんとかなる」とつぶやくと良い。
そして、「神様の奇跡が起こる」という言葉がまさに、「なんとかなる」の究極形なのだから、いつも、そう唱えると良い。
七田眞氏の『究極の超「右脳」開運法』の、あのホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と唱え続けたら、1憶円が、それも2回当たったのは、やっぱり、この現実世界という夢が綻んだのだろうと思う。
「なんとかなる」「心配するな、なんとかなる」「神様の奇跡が起こる」などを1つ、いつも唱えておくと、少し夢が綻び、魔法の力とアクセス出来るのであると思う。








見かけ上異なる教えに迷わない

なぜ、アファーメーションを際限もなく繰り返さないと望む奇跡が起きないのかというと、そうでなければ、我々の自我意識がものごとを進めようとするからだ。
自我意識で実行して、うまくいく人間もいるのかもしれないが、それは、優れた王家で育てられた者か、未来の人類か、あるいは、進化した宇宙人の場合くらいと思う。
どういう意味かと言うと、現代の、我々普通の人間の自我意識は、すっかり変質させられているので、その自我意識で何をやっても、ロクな結果にならないということだ。
我々は、言葉も知らない頃から、親や周囲の大人やテレビに、その後、学校やテレビや本などに、大人になってからも、テレビや新聞、その他のメディアに自我意識を奴隷に相応しいものに洗脳され続けているのである。
アファーメーションを限りなく唱えることで、自我意識にとりつき、支配する悪魔を無力化した時に、「力」に通じる扉が開く。
それを、美しく言い表した言葉が、ラマナ・マハルシの教えを簡潔に示した小冊子『私は誰か?』の18章にある。
引用する。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

この小冊子(PDFファイル)は、ラマナ・マハルシのWebサイトからダウンロード出来たのだが、最近は、サイトの管理状態が良くないのか、適当なダウンロードページが見つからない(存在するのかもしれないが)。
現時点で、「私は誰か PDF」で検索して出てる、同ファイルへの直接リンクは以下の通りだが、将来に渡って同じかどうかは分からない。
【PDF】私は誰か? - Sri Ramana Maharshi
下記に紹介した書籍『ラマナ・マハルシの教え』には、これが記載されている。

『荘子』の思想は全く同じと思えるし、おそらく、イエス・キリストや法然もそうなのだと思う。
ただ、彼らは、時代背景もあり、神にまかせてしまったからといって、良い結果になるとは言っていないし、特に、荘子の場合は、最悪の結果になる場合が語られている。ただし、そうではあっても、神にまかせきってしまえば、精神的には幸福であると述べているのだと思う。
そして、江戸末期の神道家であった黒住宗忠は、「神にまかせきれば、嬉しいことばかりになる」と、良い結果になることが示唆され、アメリカの芸術家で、今日で言う引き寄せの法則の優れた指導者であったフローレンス・スコーヴェル・シンは、アファーメーションにより、望む結果を得られることを教えている。

法然は念仏、ラマナ・マハルシは「私は誰か」という問いかけ、フローレンス・スコーヴェル・シンはアファーメーションという分かり易い手段を示した。一方、イエス、黒住宗忠は神への愛や信頼でことをなせと教えたが、それは難しいことである。
(ただ、黒住宗忠はハンセン氏病の武士に「ありがたい」と唱えさせて1週間ほどで完治させたこともある。これも一種のアファーメーションである)
荘子にいたっては哲学的に教え、それは最も難しく、やはり、多くの誤解を生んだ(逆に、哲学的理解には適しているが)。
とはいえ、教えていることは、皆、同じである。
ただし、イエスや、黒住宗忠が言うような、神への愛や信頼でもって事を行おうとしても、我々の歪んだ自我意識では、愛や信頼の概念自体が歪んでいるのである。
よって、念仏やアファーメーションといった手段を、何も考えずに使う方が安全である。
私としては、難しかったり、高尚であるアファーメーションより、「神様の奇跡が起こる」や「ありがたい」といった単純なもの、あるいは、ジョセフ・マーフィーが教えた「単語法」、即ち、「富」「成功」「富、成功」「歓喜、成功、富」といった言葉を唱えることをお薦めする。








このデジタル幻想の世界をどう動かすか

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本を、知っている人はよく知っているが、全く知らない人の方が多いだろう。
この本には、19世紀に、アメリカの科学的な探検隊が、インドやチベットを訪れて調査する中で、超人的な太師達に会い、様々な奇跡を見せられる話が多く語られている。
探検隊の人達が、太師達に、最初の頃に見せられた奇跡の中に、流れの速い川の上を歩いて渡るというものがある。
水量も多く、普通に考えれば、そんな中に入れば、たちまち溺れてしまう。
しかし、沢山の太師達が、川の水面を平気で歩いて向こう岸に渡った。
しかも、それだけではなく、太師達は、アメリカの探検隊の人達に、
「あなた方にも出来ますよ。一緒にどうですかか?」
と平然と言ってくる(探検隊の隊員達は断った)。
新約聖書の福音書の中には、湖の上を歩くイエスを見て、船に乗っていた弟子のペテロが、感激のあまり不意に、
「主よ、私に来いと命じて下さい。そうすれば、私にも出来ます」
と言うと、イエスは、
「命じる。来い」
と言い、ペテロも水の上を歩けたという話がある。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』に戻るが、太師達は、他にも、何もないところ(空間とでも言おうか)から、美味しいパンや調理された料理を出したり、テレポーテーションしたり、時にはお金も出した。ただ、余程の必要がない限り、お金を出すことはないらしい。
50歳くらいに見える男性が、実は百歳をずっと超えているし、その母親が十代の絶世の美少女の姿をしている。
太師の女性は、いくつになっても、やはり十代の美少女の姿である場合が多い。
太師の母親ともなると、奇跡力も凄く、背骨を折る怪我をして瀕死の少年を一瞬で健康体に戻し、不潔なあばら家を新品の快適な邸宅に変えてしまうという、魔法使いサリーも顔負けの力を見せる。
イエスも登場し、老衰で死んだ男性を、若々しい青年の姿で復活させた。

では、どんな修行をすれば太師達のようになれるのかと言うと、修行は一切必要ない。
そもそも、誰もが元々太師であり、そのような奇跡は即座に出来る。
そして、アメリカの探検隊の者達も、太師達と過ごすうちに、かなりのことが出来るようになり、その内には、太師達と全く同じになるまでアメリカに帰らないと言って、実際、帰国せずに、その地に留まったという。

では、本当に、そのような奇跡があり得るかというと、完全にある。
それは丁度、VRヘッドセットをすれば、見かけ上は、いかなることも起こり得るのと同じだ。
なぜなら、この世界は、根本的には、そんなVR(仮想現実)世界と変わらないからだ。
デジタルの仮想世界である(とした場合の)この世界は「シミュレーテッド・リアリティ」と呼ばれ、この世界はシミュレーテッド・リアリティだと考える科学者も増えてきていると思う。
イーロン・マスクは、この世界がシミュレーテッド・リアリティでない可能性は、ほぼゼロだと言う。
もしそうなら、この世界は、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』で見られるような仮想世界であり、基本的には、どんなことでも起こり得る。
ただ、起こし方が分からないだけだ。
それに、この世界のシステムの仕組みの問題もあり、そう無闇に何でも起こる仕様にはなっていないと考えられる。しかし、技術的には可能なのだ。
それで、勘が働き、観察力があり、記憶力が良く、粘り強い者達が、この世界を動かす原理を少しずつ見抜き、魔法の力を開発していったし、今も開発しているのである。

太師達やイエスなどは、この世界を製作、あるいは、運営する側の者達か、そんな者達と提携しているのかもしれない。
だか、彼らが、アメリカの探検隊達に、「君達にも出来るし、しないといけない」と言ったのだから、その力を得ることをブロックされている訳でもないかもしれない。
要は、彼らの教えを注意深く理解し、取り入れれば良いのである。
そこで、『ヒマラヤ聖者の生活探求』や、聖書はもちろんだが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアードTスポールディングは、『バガヴァッド・ギーター』を読むことを薦め、太師達も熱心に読んでいたらしい。
『バガヴァッド・ギーター』が、このシミュレーテッド・リアリティを操作するマニュアルかもしれない。
ちなみに、私も、かなり、この世界がシミュレーテッド・リアリティであることは実感しているが、アファーメーションを使えば操作出来ると思っている。








念仏はやっぱり正しかった

「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、西方極楽浄土に生まれることが出来ると認識されている場合が多いだろう。
ところが、一休は、念仏を唱えると、今、ここが極楽浄土になると言った。
どちらも正しい。
「死んだら極楽浄土に行ける」の「死」とは、肉体の死ではなく、自我の死のことなのだ。

イエス・キリストが、「一度死なないと天国に行けない」と言ったのと全く同じである。
この「死」も、肉体の死と誤解して困惑した人が多かったが、自我の死のことを言っているのである。
イエスが、「退けサタン」と言った時の「サタン」は自我のことである。
だから、自我の死とは、自我の消滅ではなく、自我が退ければ良いのである。
道元が、「仏道とは自己を忘れること」と言ったように、自我が退くとは、自己を忘れることと言っても良い。
たとえ聖人であっても、人間の自我が完全に消滅することはない。
これ(自我)が退いていればいるほど良いのである。
そんな人間は、良い意味で、「この人には自分がありません」と言われるのである。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の、「自分を勘定に入れず」をやれる人である。

そして、素晴らしいのは、念仏には、自我を殺す、即ち、自我を退かせる、あるいは、自己を忘れさせる力がある。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」という意味で、もっと分かり易く言えば、「阿弥陀様に全ておまかせします」という意味だ。
阿弥陀如来は、原語でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスで、それぞれ、「無限の光」「無限の生命」という意味で、言うならば、絶対神、至高者のことである。
その絶対的な存在に全てまかせ、絶対的な存在の意思を優先し、自分の意思をその下に置く・・・イエスが言った「私の思いではなく、あなた(神)の思いがなされますように」というのが「南無阿弥陀仏」ということである。

「阿弥陀如来に全てまかせる」「無限の知恵と力を持つ阿弥陀如来より自分はずっと下」と確認する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱え続ければ、自然、自我は弱くなる。それが仏に近付くということで、仏になれば、極楽浄土に行けるのであるから、今ここが極楽浄土になるのである。
そして、科学的にも、阿弥陀如来の名で示した絶対的な何か(エネルギーとか意思)は存在することが示唆される。
ただ、現代の人間の科学で説明し切れないだけである。

このように、念仏の力は理屈でも説明出来てしまうのである。
仏教の教え全てだけでなく、キリスト教の教えも、念仏の中に含まれていると言って良いと思う。
釈迦は、いずれ末法の世になり、人々は愚昧になって、仏教の教えを理解出来なくなるが、念仏だけは効果を持つと言ったという話があるらしいが、それは本当であると思う。
もちろん、他宗教においても、根本は、「自分は神に比べ取るに足らない存在として神に一切をまかせる」ということなのであるから、そのことを理解して、それぞれの宗教のやり方に従えば良いことになる。
その中でも、念仏は特に簡単である。
とはいえ、いかなる宗教でも、その宗教で崇められている神を真摯に敬い、自分の知恵や力の小ささを思って、神に全てをまかせれば良いだけである。
もっと言えば、単に、神や仏を崇めれば良いのである。
キリスト教などでは、聖書の詩編23編や91編を読めばよく解ると思う。

余計なことを言えば、叔父の葬式で、お坊様に延々、念仏を唱えさせられたが、あれは違うと思った。
それに、なんとも辛気臭い念仏であったが、あれでは、普段、誰も唱えなくなってしまう。
とはいえ、そんなことを思わないほど自我を退かせることも大切であるのだろう。








奇跡の正しい起こし方

イギリスのSF作家、H.G.ウェルズは、コリン・ウィルソンやカート・ヴォネガットらの大作家が最高の賛辞を寄せる文学者だ。
ウェルズの『宇宙戦争(1898)』や『タイムマシン(1895)』は、20世紀に傑作映画が作られているが、それぞれ、2005年、2002年にも映画化されており、さらに、未来の再映画化も十分に考えられる。
タイムマシンの概念を作ったのはウェルズではないかと思うが、他にも、ウェルズは、原爆が無かった時代にその登場を予言した。

ウェルズの短編に『奇跡を起こせる男』(1898)という作品がある。
「奇跡を起こせる男」なんて言葉は日本語になってないなんて文句を言う人もいそうだが、訳者によって、『奇跡を行う男』『奇跡をおこさせる男』など、他にもいろんな日本語版タイトルがある。
原題は“The Man Who Could Work Miracles”だ。
私はこれを中学1年生の時に読んで、非常に面白く印象的だったのを憶えている。
どんな話かと言うと、突然に神のごとき力を得た、30歳の冴えない男の話だ。
彼が最初に起こした奇跡は、当時は石油ランプが使われていた時代だが、その石油ランプを、空中に逆さに浮かせて燃えさせるというものだった。
彼が、そうなれと言えばただちにそれは実現した。
上等の服も、豪華な料理も思いのまま、即座に出現させることが出来た。
ある時、刑事に追い詰められた時には、思わず、刑事に向かって「地獄へ行け」と言ったら、その刑事は消えてしまった。
地獄が本当にあるかどうかはともかく、いつまでもそのままでは悪いので、男が場所を指定して「帰って来い」と言ったら、地獄の炎で焼けたのか、服が焦げた刑事が、その場所に現れた。
現代と比べて、極めて情報が少ない時代の、凡庸なこの男の想像力では、それほど大それたことは考えないと思われたが、最後に、かなりヤバい奇跡を起こしたところ、予想もしなかった事態に怖れをなし、男は、最後の奇跡として、奇跡の力を捨てることと、最初に奇跡を起こした時間に戻るようにした。

奇跡を起こせる人と言えば、映画『トワイライトゾーン/超次元の体験』の中の第3話である『子供の世界(IT'S A GOOD LIFE)』というものがある。
11歳位のアンソニーという少年が、やはり、万能の奇跡の力を持っていた。
それで、家族全員が、アンソニーに怯え、家来のように従っていた。
結局、若い女性教師ヘレンに諭され、アンソニーは奇跡の力を生涯、封印することを誓うが、さあ、どうなることやら。

いずれにしても、奇跡の力なんてものは、普通の人間には無用で、持つと、ロクなことにならないことを示している。
そもそも、奇跡の力というものがあるかとなると、自分が科学的であるとか常識があると思っている人の多くは「ない」と言うだろう。
しかし、新約聖書には、イエス・キリストが多くの奇跡を起こした話があり、キリスト教徒の多くは、それを信じている。
日本にだって、黒住宗忠という、奇跡の力を見せたと言われる神道家がいるし、他にも、話だけなら沢山いるだろう。
いや、私も、奇跡を起こせる人には結構会っているし、私も少々出来る(笑)。
そして、科学者の中にも奇跡を肯定する、あるいは、可能性を肯定する者は、今でも少なくないし、むしろ、増えているようにも思う。
もちろん、科学的に言うなら、「奇跡の定義は」から始まるので面倒であるが。

で、こう決着をつけておく。
イエスにしろ黒住宗忠にしろ、あるいは、誠実に思える奇跡を起こせる他の人達の間でも、奇跡には共通することがある。
まず、奇跡を起こす力は、ごく身近にある。
イエスは天にいる神の力としたが、神には距離は関係ない。
黒住宗忠の場合、絶対神としての天照大神は、外にもいるが、我々と一体でもあるとも言った。
そして、現在の潜在意識の法則や引き寄せの法則では、奇跡でも起こせる万能の力は、潜在意識、あるいは、無意識の中に存在し、誰でも、いつでも、それを使えるのだと言う。
ただ、上の『奇跡を起こせる男』や『子供の世界』には、圧倒的な誤りがある。
それは、奇跡というものは、人間の意思で無理矢理起こすものではなく、神とでも言うべき存在が起こすのだということだ。
それを、イエスは「私の思いではなく、神の思いが実現しますように」と言ったのだし、黒住宗忠は「神に丸ごとまかせれば間違いない」と言ったのだ。
そして、神が味方であることは、彼らを含めた全ての聖人や現代の引き寄せの法則の教師達が保証している。
で、どうすれば、神様が願いを聞いてくれるかと言うと、いろいろやり方はあると思うが、私に関して言えば、1つのやり方以外は難し過ぎて駄目である。
そのやり方は、何度も書いたが、
「私はXXXXである」
と、言葉や心で言うことだ(私はもっぱら心でだが)。
叶わないのは、やり方がどうとかではなく、単に回数が足りないだけで、小さな願いで数千回、大きな願いでも10万回で叶う。
まあ、保証する訳にはいかないが、特殊な事情がある場合を除き(滅多にない)、叶わないことはあり得ないと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。






最新コメント
月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
【広告】 Udemy
IT学習
タグクラウド
QRコード
QRコード