私はあまり読んだことがないのだが、美内すずえさんの漫画作品『ガラスの仮面』は、1975年に連載開始され、いまだ続いているらしい。
その、かなり初期の頃のお話で、主人公の北島マヤがまだ中学生頃の話と思うが、マヤが、逃げた小鳥を追う演技をしているうちに、本当はいないその小鳥が高いところに留まってしまったと言って、本気で困っていたというものがあったと思う。
演技と現実の区別が無くなってしまったマヤに対し、役者としての素質を評価されるような描かれ方をしていたと思う。
よく分からないが、私はマヤは、あまり良い役者ではないと思う。
演じられている架空の人物が困っていても、役者は困らないものだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、偉大な劇作家でもあったが、彼も『ラピス・ラズリ』という詩の中で、主役を自覚するほどの役者は、悲劇を演じていても、自分が泣いたりしないと述べている。
役者は、ハムレットもリヤ王も陽気だと知っているからだと言う。
ハムレットやリヤ王が陽気だというのが分かり難ければ、詩人の加島祥造さんが、この詩を意訳したように、作家であるシェイクスピアや役者が陽気なのだと思えばいい。
我々は、あの小鳥を追う演技をしたマヤと同じ状態なのである。
人生は、神がシナリオを完結させている舞台に過ぎないのに、演じられる人物と自分を同一視して、悲劇に浸っている。
イェイツは、「ほら、あそこにオフィーリアが、そっちにはリヤ王が・・・」と述べ、人々の悲劇のヒーロー、ヒロイン振りを笑う。
そうではないのだ。オフィーリアもジュリエットも皆、陽気なのだ。書いたシェイクスピアが陽気なのだから、役者は陽気に演じないといけないのだ。
『閑吟集』に、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(何まじめくさってんだ。人生は夢だ、狂えばいいんだ)とあるが、まあ、夢の方が現実よりお芝居だと感じやすいと思う。そして、現実もまた夢だと言うのである。江戸川乱歩も、ラマナ・マハルシもそう言っていたのである。
あるイギリスの名優がロミオを演じた時、こんなインタビューをした者がいた。
「ロミオはジュリエットに手を出したと思いますか?」
名優はこう答えた。
「ロミオはともかく・・・私ならそうするね」
まあ、これはあくまでジョークなのだが、名優らしさが感じられる話である。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、世界は幼稚園の学芸会、あるいは、マジックショーのようなものだと言っていた。
また、映画『燃えよ!ドラゴン』で、ブルース・リー演じる武道家リーは、師に、「良い戦いは、少人数で真剣に演じる劇に似ています」と述べるセリフが非常に印象的だった。
ただ、人生が劇であることを知るには、どうしても受け入れる必要があることがある。
そのことを言わずに、「人生は劇だ」と言っても、それは的外れになる。
それは、人生という劇のシナリオは神が既に完結させてあり、それは決して変わらないということだ。
ましてや、役者たる我々に出来事をコントロールすることなど、絶対に不可能だ。
このように、運命は全て完全に決定されていること。我々は、いかなる支配力も持たないことを受け入れてこそ、人生が劇、あるいは、夢であることが本当に分かってくる。
ニサルガダッタ・マハラジが、「自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じる」と言ったように、聖者は、身体や心を自分と同一視しない。
『燃えよ!ドラゴン』でも、リーは、「好機が来ても私は打たない。拳自らが打つ」と言ったのは、まことに正解で、全ての出来事はただ起こるのであり、自分は操り人形に過ぎないのである。
リーの師が、「敵にどう備える?」と問えば、リーは「敵はいない」と言う。師が「なぜだ?」と問えば、リーは、「私がいないから、敵もいない」と言う。
この映画は、娯楽映画ながら、本物の武道家であったブルース・リーの求道の精神が込められているのだろう。
ただし、演じている人物と自分を同一視している役者(北島マヤもそうだった)にとっては、敵は現実に存在しているのだ。
時々、本で読んだことを鵜呑みにしただけで、「時間も空間も存在しない。全ては幻想だ」と分かったようなことを言う者もいるが、そんな者は、その軟弱なボディーに強烈なパンチでも喰らってのた打ち回ってみれば、自分にとっては、全て現実であることが嫌というほど分かるだろう。
そうだ。普通の人にとっては、世界は夢でも舞台でも幻想でもなく、厳然たる現実である。
自分が世界を動かせると妄想している凡人にとっては、人生は辛い現実なのだ。
だが、自分には世界をコントロールする力は一切無いと本当に受容すれば、殴られても、痛みにのたうつ自分を他人のように感じるようになるのである。
精神分析学者の岸田秀さんが、全ては幻想であるという『唯幻論』で有名になった時、誰かが、岸田さんを殴り、「全て幻想なら痛くないだろう」と岸田さんに言ったという。
いや、そりゃ、痛いさ。しかし、岸田さんには、あまり現実感はなかったと思う。多分ね。
運命は全て決定済みであることを受容するようになると、いろいろ面白いこともある。
何か、非常に困ったことが起こるとする。
そして、動揺し、不安になり、場合によっては、恐怖すら感じる。
だが、次の瞬間、「あれ、私は何に困っていたのだろう?」と思う。
実際、何も思い当たらない。
単に、請求書が溜まり、払うアテがないというだけのことだ。私に何の関係があろう?
そして、次の瞬間には、「あれ、何かあったような気がするが…覚えていないし、まあ、いいか」となる。
ひょっとしたら、あなたも3分前には、別の会社に勤めていたのかもしれない。
バートラント・ラッセルという、数学と哲学の天才で、アリストテレス以来の大論理学者と言われる人がいた。数学者でありながら、ノーベル文学賞を受賞したという変わった人だった。その彼が、『世界5分前仮説』といって、世界は5分前に出来たものかもしれないという説を作ったが、これがどうにも否定できないのである。
しかし、いずれにしても、世界を創造するのは神であって、我々ではない。
我々はただ、役を演じる役者なのである。
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その、かなり初期の頃のお話で、主人公の北島マヤがまだ中学生頃の話と思うが、マヤが、逃げた小鳥を追う演技をしているうちに、本当はいないその小鳥が高いところに留まってしまったと言って、本気で困っていたというものがあったと思う。
演技と現実の区別が無くなってしまったマヤに対し、役者としての素質を評価されるような描かれ方をしていたと思う。
よく分からないが、私はマヤは、あまり良い役者ではないと思う。
演じられている架空の人物が困っていても、役者は困らないものだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、偉大な劇作家でもあったが、彼も『ラピス・ラズリ』という詩の中で、主役を自覚するほどの役者は、悲劇を演じていても、自分が泣いたりしないと述べている。
役者は、ハムレットもリヤ王も陽気だと知っているからだと言う。
ハムレットやリヤ王が陽気だというのが分かり難ければ、詩人の加島祥造さんが、この詩を意訳したように、作家であるシェイクスピアや役者が陽気なのだと思えばいい。
我々は、あの小鳥を追う演技をしたマヤと同じ状態なのである。
人生は、神がシナリオを完結させている舞台に過ぎないのに、演じられる人物と自分を同一視して、悲劇に浸っている。
イェイツは、「ほら、あそこにオフィーリアが、そっちにはリヤ王が・・・」と述べ、人々の悲劇のヒーロー、ヒロイン振りを笑う。
そうではないのだ。オフィーリアもジュリエットも皆、陽気なのだ。書いたシェイクスピアが陽気なのだから、役者は陽気に演じないといけないのだ。
『閑吟集』に、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(何まじめくさってんだ。人生は夢だ、狂えばいいんだ)とあるが、まあ、夢の方が現実よりお芝居だと感じやすいと思う。そして、現実もまた夢だと言うのである。江戸川乱歩も、ラマナ・マハルシもそう言っていたのである。
あるイギリスの名優がロミオを演じた時、こんなインタビューをした者がいた。
「ロミオはジュリエットに手を出したと思いますか?」
名優はこう答えた。
「ロミオはともかく・・・私ならそうするね」
まあ、これはあくまでジョークなのだが、名優らしさが感じられる話である。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、世界は幼稚園の学芸会、あるいは、マジックショーのようなものだと言っていた。
また、映画『燃えよ!ドラゴン』で、ブルース・リー演じる武道家リーは、師に、「良い戦いは、少人数で真剣に演じる劇に似ています」と述べるセリフが非常に印象的だった。
ただ、人生が劇であることを知るには、どうしても受け入れる必要があることがある。
そのことを言わずに、「人生は劇だ」と言っても、それは的外れになる。
それは、人生という劇のシナリオは神が既に完結させてあり、それは決して変わらないということだ。
ましてや、役者たる我々に出来事をコントロールすることなど、絶対に不可能だ。
このように、運命は全て完全に決定されていること。我々は、いかなる支配力も持たないことを受け入れてこそ、人生が劇、あるいは、夢であることが本当に分かってくる。
ニサルガダッタ・マハラジが、「自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じる」と言ったように、聖者は、身体や心を自分と同一視しない。
『燃えよ!ドラゴン』でも、リーは、「好機が来ても私は打たない。拳自らが打つ」と言ったのは、まことに正解で、全ての出来事はただ起こるのであり、自分は操り人形に過ぎないのである。
リーの師が、「敵にどう備える?」と問えば、リーは「敵はいない」と言う。師が「なぜだ?」と問えば、リーは、「私がいないから、敵もいない」と言う。
この映画は、娯楽映画ながら、本物の武道家であったブルース・リーの求道の精神が込められているのだろう。
ただし、演じている人物と自分を同一視している役者(北島マヤもそうだった)にとっては、敵は現実に存在しているのだ。
時々、本で読んだことを鵜呑みにしただけで、「時間も空間も存在しない。全ては幻想だ」と分かったようなことを言う者もいるが、そんな者は、その軟弱なボディーに強烈なパンチでも喰らってのた打ち回ってみれば、自分にとっては、全て現実であることが嫌というほど分かるだろう。
そうだ。普通の人にとっては、世界は夢でも舞台でも幻想でもなく、厳然たる現実である。
自分が世界を動かせると妄想している凡人にとっては、人生は辛い現実なのだ。
だが、自分には世界をコントロールする力は一切無いと本当に受容すれば、殴られても、痛みにのたうつ自分を他人のように感じるようになるのである。
精神分析学者の岸田秀さんが、全ては幻想であるという『唯幻論』で有名になった時、誰かが、岸田さんを殴り、「全て幻想なら痛くないだろう」と岸田さんに言ったという。
いや、そりゃ、痛いさ。しかし、岸田さんには、あまり現実感はなかったと思う。多分ね。
運命は全て決定済みであることを受容するようになると、いろいろ面白いこともある。
何か、非常に困ったことが起こるとする。
そして、動揺し、不安になり、場合によっては、恐怖すら感じる。
だが、次の瞬間、「あれ、私は何に困っていたのだろう?」と思う。
実際、何も思い当たらない。
単に、請求書が溜まり、払うアテがないというだけのことだ。私に何の関係があろう?
そして、次の瞬間には、「あれ、何かあったような気がするが…覚えていないし、まあ、いいか」となる。
ひょっとしたら、あなたも3分前には、別の会社に勤めていたのかもしれない。
バートラント・ラッセルという、数学と哲学の天才で、アリストテレス以来の大論理学者と言われる人がいた。数学者でありながら、ノーベル文学賞を受賞したという変わった人だった。その彼が、『世界5分前仮説』といって、世界は5分前に出来たものかもしれないという説を作ったが、これがどうにも否定できないのである。
しかし、いずれにしても、世界を創造するのは神であって、我々ではない。
我々はただ、役を演じる役者なのである。
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