ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イェイツ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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ぞっとするこの世の秘密(劇的内容)

前回の記事で、我々という存在は小説や漫画の登場人物であり、世界は小説や漫画であるという、割とよく聞く話をした。
その小説や漫画の作者が、ある人物が悟りを開くというストーリーにすれば、その人物は最高の人間だし、魔法使いになるというストーリーにすれば、その人物は無敵かもしれない。
まあ、そこまででなくて良いから、自分は引き寄せの達人にして欲しいと作者様にお願いしたいものである(笑)。

ところで、世界は小説や漫画というよりは、劇であると考えた方が納得し易いかもしれない。
というのは、今まさに、自分は世界という舞台の中で、自分の役を演じているからであるが、20世紀最大の詩人と言われたW.B.イェイツも『ラピス・ラズリ(瑠璃)』という詩で、まさに世界とはそのようであることを書いている。

私は、小学4年生の時、誰に教えられたわけでもないが、この世界は劇であることを見抜き、爽快な気分になったことがある。
ところで、劇と言えば、そのストーリー・脚本を文学作品として書いたものを戯曲と言い、人類最高の戯曲家(劇作家)はウィリアム・シェイクスピアであると考えられていることも多いと思う。
ただ、シェイクスピアの作品というのは、どこか地味な印象があるかもしれない。いや、実際に地味なんだと思う。
しかし、だからこそ、作中の登場人物に自分を重ね易く、つまり、登場人物に共感し易いのだと思う。
アメリカを代表する現代作家カート・ヴォネガットは、「シェイクスピアは下手な作家だったが、人間をよく知っている」と述べていたが、この言葉は、シェイクスピアが下手な作家であるというのではなく、人間を本当によく知っている人だと言いたかったのだと思われる。

で、レベルの低い話かもしれないが、我々としては、この世界という劇の作者様に、自分がお金持ちになるストーリー、モテモテになるストーリーをお願いしたいものである(笑)。
そのためには、引き寄せが簡単に出来れば良く、そして、そのためには、至高体験を起こさせてくれれば良いのである。

前回の記事がまさに、どうすれば、我々が生きているこの劇の作者様に、自分に至高体験を起こさせてもらえるかという話であった。
登場人物の分際でそんなことが出来るのかというと、どうも出来そうなのだ(笑)。
その鍵が、イェイツの『ラピス・ラズリ』である。
さすが、イェイツは魔法結社の会員だっただけあり、魔法の秘儀をこの『ラピス・ラズリ』に埋め込んだ。
私は、この詩を、原文(英語)と、少なくとも5種類の訳文を読んだ。
やり方は、後でまとめて述べるから安心して欲しい。

そういえば、『美少女戦士セーラームーン』の作者、武内直子さんもイェイツが好きなようだが、『美少女戦士セーラームーン』もイェイツの影響が大きく、転生後の土萠ほたる(セーラーサターン)によくイェイツの詩を暗唱させ、ほたるがサターンに覚醒するきっかけを与えたのもイェイツの詩だった。
ちなみに、ほたるが暗唱した詩で印象的なものは『再来(再臨)』であった。
この詩も、世界の壮大な仕組みを見事に明かしている。

あまり言われることはないかもしれないが、シェイクスピアの作品は、よくマンデラ・エフェクトを起こすのである。
つまり、人によって、憶えているストーリーが違うのだ。
『ハムレット』や『リア王』の結末が、どうも記憶がぼんやりしている人が多いと思う。
ハムレットとオフィーリアのどちらが死んだのか、両方死んだのか、どんな順番で死んだのか、いろんなバージョンの記憶があり、両方死ななかったというストーリーを憶えている人もいるほどだ。
実のところ、シェイクスピアも迷ったのだ。
そして、作者たるシェイクスピアが迷うことで、沢山のパラレルワールド(並行宇宙)が出来てしまった。
作者が迷った時に、関係する登場人物は至高体験を起こすのである。
そのコツは、実にイェイツが『ラピス・ラズリ』に書いている。
「主役を務めるほどの役者は泣かないものだ」
「ハムレットもリア王も陽気(Gay)なのだ」
本当にぞっとする話である。
これを見たあなたほど幸運な人はおるまい。

夕暮れの薔薇
AIアート733
「夕暮れの薔薇」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ハムレット(新潮文庫)
(2)リア王 ――シェイクスピア全集(5) (ちくま文庫)
(3)イェイツ詩集(対訳) (岩波文庫)
(4)薔薇: イェイツ詩集 (角川文庫)
(5)塔: イェイツ詩集
(6)最後のロマン主義者 イエーツ訳詩集 (加島祥造セレクション1)
(7)W.B.イェイツ全詩集
(8)美少女戦士セーラームーン 完全版(1)

至高体験を起こす方法(6)

前回述べた至高体験の起こし方の鍵は、この現実世界が幻想である・・・現代的な言い方ではVR(仮想世界)であることを見抜く(あるいは感じる)方法だった。
そのためには、薄目で何かを眺め続ければ良いだけであるが、その際、呼吸を利用すると効果的であることが分かっている。
どんな呼吸をするかは、3つ上げられる。
1つは、深呼吸で、普通はこれで十分だ。
2つ目は、単に呼吸を意識するだけで、呼吸をコントロールしないというものだ。これに関しては、これが気持ち良ければ、あるいは、気分転換にやれば良く、これで心を静めやすい人もいる。
また、呼吸を意識することは、精神状態の確認には良いものである。なぜなら、呼吸の状態と精神の状態は一致するからだ。
3つ目は密教の方法で、呼吸していないように見えるほど微かな呼吸をするというものだ。これは、慣れないとうまくいかない。そもそも、密教ではこれ自体が修行である。だが、効果が凄く、進歩すると高次元世界に入ってしまう。
いずれにしても基本的な考え方は1つで、長続きすることをやることで、それには、楽で気持ち良い、あるいは、好きで面白く感じることをやることだ。
そして、この3つをトータルで採用したやり方が、深いゆったりとした呼吸(単に深呼吸だが)をしながら薄目で見ることである。

W.B.イェイツ(20世紀最大の詩人と言われたアイルランドの詩人・劇作家。ノーベル文学賞受賞)は、たびたび至高体験を経験し、詩の中でも表現している。
彼は、至高体験をエクスタシー(日本語では法悦、忘我、没我等)と呼んでいたが、彼もどうすればそれを起こせるのか、はっきり分かっていたわけではなかった。
しかし、彼は、老年になっても、今で言うロックな生き方・・・体制に収まらず、反逆的で、孤独を恐れない生き方をしていた。
少し前に流行った「ちょい悪おやじ」どころではなく、徹底したBAD(ワル)で、不良老人であることを自任していた。
それが出来たのも、至高体験でエネルギーを得ていたからで、このように、生命エネルギーを得る至高体験を岡本太郎が「爆発」と呼んでいたことは明らかだった。
前述の通り、イェイツは、至高体験を起こす方法を明確には分からなかったが、面白いことを述べている。
それは「恨むのをやめた時に起こるようだ」である。
恨む相手が何かはっきり言っていないが、それは、人や運命だろう。
それらを恨むことをやめた時に至高体験が起こる・・・さすがな洞察で全く正しい。
正しいが、恨むことをやめることほど難しいことはない。
だが、そもそも思考を消せば恨むことは出来ない。恨むことは所詮思考だ。
それなら、深呼吸しながら薄目で見れば良いのである。
さらに、楽にやれるならマントラを唱えると良い。
マントラに優劣は一切ない。自分が楽に唱えられるものを唱えれば良く、毎回変わっても全く差し支えない。

美しい小
AIアート715
「美しい子」
Kay


だが、イェイツだって、強烈なやり方も知っていた。
天才的な文豪や芸術家なら誰だって知っているのだ。
芥川龍之介だってそうである。
岡本太郎も好きだったようだ。
そんなことも追々述べる。
尚、イェイツの時代にVRの概念はもちろんなかったが、彼はこの世界が劇のようなものであることには気づいていた。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)至高体験(コリン・ウィルソン)
(2)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(3)フランケンシュタインの城(コリン・ウィルソン)
(4)まだらの鳥(イェイツ)※イェイツの自伝的小説
(5)イェイツ詩集(対訳) (岩波文庫 )
(6)ケルトの薄明(イェイツ)
(7)美の呪力(岡本太郎)
(8)悪霊(上)(ドストエフスキー。江川卓訳。新潮文庫)
(9)悪霊 (1) (ドストエフスキー。亀山郁夫訳。光文社古典新訳文庫)

至高体験を起こす方法(2)

至高体験(Peak experience:絶頂体験)は、プチ悟り、瞬間的な悟りと言って良いと思う。
悟りを開いた人物は人類の歴史の中でも多くはないと思う。私の認識では、釈迦とイエス、それに、黒住宗忠とラマナ・マハルシを入れてもいいかなという程度である。
しかし、パートタイムの悟りである至高体験なら、誰でも起こすことが出来る。長く多く起こせた者が偉大な人物になる。
悟りを開いた人間は全知全能であるが、至高体験を起こすほどそれに近付き、引き寄せ程度であれば自在になる。
必ずしもそうではないが、子供の時は至高体験になることが多く、私ですらあり得ない出来事を数多く起こしたし、物理学者のフレッド・アラン・ウルフもテレポーテーションを体験したことを明かしている。

今回は、かなり強烈な至高体験の例と、その起こし方だ。
なぜこの話にしたのかというと、たまたま思い出したからだ。
ところで、至高体験では、「たまたま」ということがとても重要になる。
悟り自体がたまたまのもので、望んで得られるものではないが、至高体験にも似た性質がある。

今回の話は、アイルランドのノーベル賞作家でもある「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが気に入っていた話で、イェイツ自身が作ったものかどうかはっきりしない。
あるアラブ人の賢者(男性)の話だ。
そのアラブ人は、生涯に3度、最高の歓喜を体験する。イェイツはそう言ってはいないが、それは特に強烈な至高体験と言えると思う。
そもそも、イェイツの時代には至高体験という言葉はなく、イェイツは至高体験と思われることを、普通にエクスタシー(忘我、没我、法悦)と呼び、これ(エクスタシー)を芸術の目的と断じた。
そのアラブ人が最高に歓喜する原因になった出来事は3つ。
1つは家族を皆殺しにされたこと、1つは家を奪われたこと、1つは自分の死を悟ったことだ。
もう滅茶苦茶で、それでなんで歓喜するのかということに、普通はなるだろう。
なぜ歓喜したのかというと、彼はそれらの時、神になった・・・とまでは言えないかもしれないが、それに限りなく近づいたからだ。
そして、重要なことは、彼は、この3つの歓喜の体験によって、間違いなく、いつでも至高体験を起こせるようになったに違いないことだ。
つまりこうである。
家族が殺されたことは不幸な出来事だが、それを起こしたのは神である。
だが、彼は、それを神の思し召しとして受け入れたのではない。
それを自分の意思としたのだ。そうすれば、自分が神ということになる。
そして、いかなる偶然も自分の意思とすれば、いつでも自分は神なのである。
たまたま電車が遅れて遅刻したとしても、それ(電車が遅れたこと、遅刻したこと)を自分の意思とすれば、その出来事は神である自分が起こしたことになる。
好きな女の子にフラれたことも、目の前で黒猫が横切ったことも、何かの会場でたまたま知り合いに出会ったことも、全て自分の意思である・・・そう見なした時、自分は神である。
このように思うようになれば、至高体験が度々起こり、やがて当たり前になる。
まとめて言えば、いかなる出来事も自分の意思であると見なすのである。
風が吹いたことも、猫が鳴いたことも、岸田首相が野田元首相の圧力に屈し「政治資金パーティーはもうやらない」と言ったことも、受験に落ちたことも、ライブコンサートのチケットの抽選が外れたことも、宝くじで1億円当たったことも。

天地開闢
AIアート711
「天地開闢」
Kay


いきなり究極的な方法になってしまった。
だが、これを実行するのはなかなか大変かもしれない。
とはいえ、これこそ、子供なら簡単に出来ることかもしれない。
私など、小学4年生くらいまでは、いつもではないが、この世界は自作自演の劇であると思っていたくらいだ。
家や学校やテレビの洗脳のため、だんだん全知全能から離れていったが、とんでもない場所で好きな女に子にぱったり会った時は、自分でやったことに気付いていたものだ。
偶然を自分の意思であると思うようになるほど、どんな偶然でも起こせるようになるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)至高体験(コリン・ウィルソン)
(2)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(3)イェイツ(渡辺久義。あぽろん社) ※あまり知られていないが重要な書
(4)幻想録(イェイツ) ※原題はヴィジョン。イェイツ作の聖書のようなもの
(5)イェイツ詩集(対訳) (岩波文庫)
(6)まだらの鳥: 自伝小説(イェイツ) ※自伝小説というより自伝的小説

王のマントラ(真言)

昨夕、このブログで書いた「吾神なり(我神なり)」という言葉を、私は大変に気に入ってしまった。
この言葉がまさに、「この世界、あるいは、私の人生を創っているのは私である」という真実を表しているからだ。
つまり、これほどの真実の言葉はない。
合氣道家の藤平光一が、「真理を口にすれば氣が出る」、すなわち何ごとも思い通りになると書かれていたが、藤平氏が出した1つの真理の言葉が「重みは下にある」だった。もちろん、地球上においては正しく、この言葉を口に出せば氣が出るだろう。
ニサルガダッタ・マハラジは、最高の真理は「私は存在する」であり、これが最高の真言(マントラ)であると言った。
しかし、「吾神なり」「私は神である」は、最もストレートでシンプルな真理で、それらの言葉に優る。
なぜなら、「重みは下にある」や「私は存在する」の認識は、心や感覚器官に依存するが、「吾神なり」にはそれがない。

「吾神なり」は、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の文語的翻訳でもそう書かれていたが、どうも私は、この言葉の読みで「われ雷(かみなり)」という言葉が浮かんでしまう。
だから、素直に「私は神である」とか、「われは神」と言うことが多いが、ここらはこだわる必要はなかろう。自分が好きな言葉を使えば良い。学校なら、どれか1つに強制されるのだが。それも下らない理由で(笑)。

では、私は神であるのに、その割には人生がぱっとしないのはなぜだろう?(笑)。
それは、ラマナ・マハルシが説明している通り、簡単に言えば、神は心の潜在的傾向性を、そのまま外界に投影してしまう・・・つまり、心の深いところにある想いのまま世界を作るのである。
それで、その心の深いところの想いを好ましいもの(大金持ちや美男美女になるなど)にするというのが引き寄せのテクニックだが、それはほとんどうまくいかない。
なぜなら、それ(心の潜在的傾向性)は幼い時から、親や学校、そしてテレビによって繰り返し叩き込まれたもので、非常に強固であるからだ。
だが、「われは神」と言って、心の奥にあるものを外界に投影させているのが自分であると宣言することで、それ(心の潜在的傾向性)は消えていく。
魔物は正体を見破られると消えるというのは、世界中のおとぎ話のパターンである。

20世紀最大の詩人と言われたノーベル賞作家W.B.イェイツのお気に入りの話に、アラブの賢者の話がある。
この賢者は、家族を賊に殺された時、家を奪われた時、そして、自分の死期を悟った時という、普通なら最大の悲劇と思われる出来事が起こった時、最大の歓喜を感じた。
この賢者は、世界で起こること全てを自分の意思と見なしていて、それによって神に近付くと理解していたからだ。
だが、この話は複雑過ぎるし暗過ぎる。
全く、根暗なイェイツの好きそうな話だが(笑)、我々はもっとシンプルで明るいハッピーな形で理解すべきだ。
まあ、根暗な人はイェイツ式で行けば良い。実は、ニーチェもイェイツと同じ考え方だった(ニーチェの方は今回は省く)。

澄んだ空気
AIアート522
「澄んだ空気」
Kay


心の潜在的傾向性を自分で作る必要はない。
引き寄せのテクニックでは「私は金持ちだ」とか延々と唱えて、それを心の潜在的傾向性にしようというのだが、それはあまりうまくいかない。
なぜなら、本気で金持ちになりたいと思っている人でなければ、それを唱えることは長続きせず、無理にやればストレスでさらに悪い心の潜在的傾向性を作る危険があるからだ。
そんなことは何もしなくても、余計な心の潜在的傾向性が消えれば、神である私が心の奥にある良いものを取り上げ、外界に創造し、いずれ心が完全に消えれば、天国が現れるのである。それを悟りと言う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)アイ・アム・ザット 私は在る
(4)氣の威力
(5)イェイツ
(6)ケルトの薄明(W.B.イェイツ)
(7)ツァラトゥストラ(上)

深呼吸で神に近づく原理

昔、ひろさちやさんの本で読んだだけだが、イスラム教徒は「インシャーアッラー」という言葉をよく使うらしい。
これは「もし神の思し召しがあれば」という意味で、例えば、明日の午後3時に待ち合わせをしようという合意をした後で「インシャーアッラー」と言う。
ところが、翌日、片方が時間に遅れてしまったが、遅れた方は、「神の思し召しがなかったから遅れた」と堂々と言う。
金を借りても同様で、「〇月×日に返そう。もし神の思し召しがあれば」と言い、返せなくなっても、「俺は返すつもりだったが、返すことが神の思し召しでなかった」と言えば良いのである。

こういう話をすると、決まって、「それええなあ」という感じで受け取り、「へーんだ!俺が約束を果たせないのは神の思し召しでなかったからなんだよー」と相手をあざ笑う態度を取れば良いのだと思う馬鹿がいる。そんな人間に見込みはない。
だが、先日のロシアのプーチン大統領の演説ではないが、相手を尊重する気持ちを大切にすれば、このやり方で、非常に平和な世界になるのではと思う。
相手を尊重しないのは、尊大で自己中心的に考えるからであり、根本的には欲張りなのだ。

今の世の中では、相手が欲張りでないことは求め難い。みんな、すっかり欲張りになってしまった。
だが、自分のことは、「もし神の思し召しであれば」と思うことは良いことである。
しかし、ここで重要なことがある。
それは、ニーチェが「運命愛」と呼んだもので、どんな運命であれ、それは自分の意志でもあるとすることだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツも同じ考え方をしており、イェイツの方が分かり易いかもしれない。
つまり、あらゆることは神の意志で起こるが、神の意志を自分の意志でもあるとした時に、自分が神に限りなく近づく。
それが神になる方法であり、また、アインシュタインが言ったように、「神は老獪である。だが悪意はない」のであり、全てはよくなる。

花の時
AIアート453
「花の時」
Kay


とはいえ、思考があるままでは、なかなかそうは思えない。
ひどく嫌な目にあった時、「これは神の意志であり、私の意志でもある」と思おうとしても、本心ではそう思っていないので、それは嘘になってしまう。
思考があると、ビートルズの『イエスタデイ』のように、「なぜ彼女は行ってしまったんだ」と嘆き、「それが神の意志であり、自分の意志でもある」などとは、とても思えない。
だが、思考を消し、積極的に同意しないまでも、静かにしていれば、彼女は実はひどい女であったと分かったり、あるいは、もっと素晴らしい恋人が出来るかもしれない。そんなことはよくあるだろう。

深呼吸を心掛け、思考を消していけば、自我の愚かしい願いは叶わないかもしれないが、それが何かは今は全く分からなくても、最高の恵みが得られるだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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