ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アンデルセン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私の引き寄せの力の秘密がかなり分かった

何度も書いたが、私は、自分があり得ないような奇跡を自分の意思で明確な形で起こせることから、そのやり方を出来るだけ簡単に・・・形式的とか公式とは言わないながら、単純な手法に出来ないものかとずっと思っている。
その中で、分かってきたことがある。
それは、奇跡を起こした人には、共通のやり方があるというよりは、共通の性質があるということだ。
そして、自分で奇跡を起こした時のことを考えても、やはり、共通のやり方ではなく、共通の「状態」があったのだ。
つまり、こういうことだ。
奇跡・・・つまり、出来過ぎの引き寄せは、テクニックではなく、体質の問題なのだ。
体質というのは、体の性質という意味だけでなく、精神的な特徴・・・つまり、精神性も指す。
精神性と言うと難しそうだが、これから述べるように、難しいことではない。
だが、やはり、「精神性」という言葉よりは、「体質」の方がぴったりすると思う。
この精神性という意味での体質を、「在り方」といった表現をする人がいるが、それだと抽象的過ぎて分かり難い。
実際、とても簡単なことなのだ。
だが、その体質(精神性)を直接表現しようとしたら、やはり、「在り方」なんて言葉になってしまうのかもしれない。
そこで、体質そのものの説明ではなく、その体質を作る方法について述べる。これだと、ますます、誰でも出来ると思う。

2022年4月7日、藤子不二雄Ⓐさんが亡くなられ、元・藤子不二雄コンビだった、藤子・F・不二雄さん、藤子不二雄Ⓐさんの両方が亡くなられたが、彼らの少年時代は、戦後間もない頃で、漫画の本や雑誌は非常に少なく、手に入ったものを、何回もと言うより何十回と読んだことだろう。
実は、それが引き寄せの体質を作るのだ。
今は、漫画に限らず、小説もアニメも、非常に沢山あって、同じものを繰り返し見たり読んだりすることが少なくなった。
それが、引き寄せが下手な人が多い原因のように思う。
ところが、非常に凝り性で、同じ作品を、何回も、何十回も繰り返し見る変わり者がいるが、引き寄せを無意識でやってしまうのは、そんな人達だった。
もちろん、同じ漫画を何度も読むと飽きる。
藤子・F・不二雄さん、藤子不二雄Ⓐさんらの場合、同じものを何度も読むしかなかったのだが、それでも十分楽しんでいたのだと思う。
引き寄せが上手い時の私は、まさに、そんな感じだ。

アンデルセンの自伝を読むと、アンデルセンも強力な引き寄せの力を持っていたことが分かる。
彼は、子供の時、家に一冊の童話の本しかなく、幼い時はそれを母親に読んでもらい、自分で読めるようになると、それを自分で繰り返し読んでいた。
それで、彼は、自然に引き寄せの力を身に付けたのだろう。
確認出来る限り、偉人のほとんどがそうだが(ニュートンもアインシュタインも)、別に偉人でなくても(私がまさにそうだが)、引き寄せが上手い者は、そんなことをやっているものだ。

私は、子供の時、粘着的なほど何度も、『ピノキオ』や『みつばちマーヤの冒険』を読んでいたが、その頃の引き寄せの力が強かったことは何度も書いた。
また、中学1年生の時は、平井和正さん原作の、石ノ森章太郎さんの漫画作品『幻魔大戦』をひたすら読み、やはり、あり得ない引き寄せを起こしていたのだ。
今でも、『幻魔大戦』に書かれた、ほとんどのセリフを覚えているほどだ。

読むもの、見るものは、本当に何でも良い。
ただ、精神性が低い作品は、おそらく、繰り返し読むことは出来ないが、もし、出来たとしても、そのような作品では、引き寄せの力は得られない(負の引き寄せなら出来るかもしれないが)。
引き寄せには、ある程度のモラル、道徳性が必要なことは事実である。
幸い、私が子供の時、繰り返し読んだ『ピノキオ』も『みつばちマーヤの冒険』も『幻魔大戦』も、非常に高いモラルを持って書かれたものだった。
私の引き寄せの力の秘密が、かなり分かったと思う。












家出人の鮮やかな引き寄せ

子供部屋おじさん、子供部屋おばさんという俗語があるらしいが、これは、大人になっても親の家に居続け、必然的に、子供の時にあてがわれた自分の部屋に居ることになることから、そう呼ばれるのだろう。
世の中には、いい歳をして親の家に居る者を、恥ずかしいことと蔑む者が、特に年配者に多い。
ただ、「親の家に居続けることは恥ずかしい」という考え方の元になる「独立してこそ一人前」という思想を広げたのは、実は、不動産屋や家電メーカーという話もある。
つまり、息子や娘が親の家を出てくれたら、マンションを借りてくれるし、テレビも冷蔵庫も売れるというわけである。

昔であれば、男なら、15歳にもなれば家を出て独立するのが普通で、女の場合は、一番美しい十代の中頃に嫁に行くのが普通だった。『赤とんぼ』という歌の「十五で姐(ねえ)やは嫁に行き」は、珍しいことでもなかったのだろう。
こんな昔の慣習を持ち出して、「親の家にいつまでもいるのは情けない、いや、おかしい」と言う者もよくいるが、よく考えれば、上で述べたようなことは貧しい庶民の話で、貴族のような家柄の良い家や、あるいは、親が富、地位を持っている場合は、むしろ、必要もないのに家を出るのは、親や、あるいは、親族を裏切ることになる。

野生動物の世界では、親子の関係こそ忘れ、離れるとしても、同じ群れに居ることが多く、実質、親の家にいるようなものだが、全く独立して単独で生きる動物もいる。
昔の、多くの貧しい庶民は、やはり息子は15歳くらいになったら、旅姿で、親と涙の別れをして家を出、その後、生涯、親子が会わないことも珍しくはなかっただろう。
ただ、これは、やはり相当な昔のことで、出て行く息子も、あてもなく出て行くわけにはいかないので、普通は、同じ村か近くの村の、顔見知りの職人の親方に弟子入りして、親方の家に住むといった具合だったのだろう。
ところが、あてもなく出て行くこともあり、これがなかなか興味深いのである。

野生動物では、単独で親から独立した直後に襲われて死ぬこともあるだろうが、人間だって、旅姿でさっそうと出ていった男が、あっという間に強盗に襲われて身ぐるみ剝がされたり、最悪、殺されることもあっただろう。
あるいは、一人前の男として、希望を持って出て行ったが、奉公先が見つからず、乞食に身を落とすこともあったかもしれない。
まあ、そういうことがないように、いろいろな意味で備えておくものだが、どうしても、要領が悪い・・・というよりは、はっきり言って頭が悪い者はいる。
だが、男も若いうちは見栄えが良いので、女に世話してもらい易いというのではなくても、雇ってもらいやすいものである。
これは、現代でも、そう違いはなく、独立するなら、外見が良くて好かれ易く、また、エネルギーがあって何でも出来る若い時に限るとは言える。

いずれにしても、独立のリスクというものがあり、それを恐れて、親元から離れない者は多いだろう。
しかし、あてもなく出ていった者には神の恵みがあったり、あるいは、引き寄せの力を発揮することが多いように思うのである。
例えば、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、14歳で故郷のオーデンセの村を出て、デンマークの首都コペンハーゲンに1人で行った。コペンハーゲンに親戚がいたらしいが、結局、そこには行かなかった(単に、辿り着けなかっただけだろうが)。
それで、アンデルセンは路頭に迷うが、そこで神様に熱心に祈ったらしい。
すると、裕福な奥さん達が世話を焼いてくれて、住むところや仕事を得ることが出来た。アンデルセンはこれを神の恵みであったと述べている。
ちなみに、アンデルセンは、長身ではあったが、容貌は醜く、そのせいか、生涯独身であった。

もう1つ、私が好きな面白い話がある。
著名な精神科医ミルトン・エリクソンの父親の話だ。
エリクソンの父親は16歳で家出し、あてもなく旅をしていたが、家出こそ、本物の独立と言えるかもしれない。
彼は、若かったので、別に不安もなく、たどり着いた村を歩いていた。
すると、そこに馬車が通りかかり、馬車に乗っていた男にエリクソンの父親は自分を売り込んで、その男に雇われ、さらに、その男の娘を嫁にした。
エリクソンらしく言うと、無意識にまかせて自然にうまくいったのだ。
すると、私は、さらに、こんな話を思い出した。
自動車セールスでギネス記録を持つジョー・ジラードが、30歳で初めて自動車ディーラーの販売員になった時のことだ。
ジラードは自動車販売店にいて、客が来るごとに、セールスマン達が順番に対応して車を売ることになっていた。
だが、客が入ってきた時、ジラードは自分の番ではなかったが、出て行って客に対応した。
ジラードがそんなことをしたのには理由があった。
彼は無一文で、どうしても、今日、車を売って販売手数料をもらい、家族の食べ物を買わなければならなかったのだ。
ジラードは、その時、何を言ったのか、何をしたのか、全く覚えていないと言う。
だが、車は売れ、彼は見事、妻子に食べ物を買うことが出来たのだ。
この時も、ジラードの無意識がうまくやったのだろう。
私も、セールスコンテストで優勝した時の、神がかったセールスは、無意識によるものだったと思う。








あなたは醜いアヒルの子か

シンデレラ症候群(シンデレラ・コンプレックス)という言葉は時々聞くが、醜いアヒルの子症候群(醜いアヒルの子シンドローム)という言葉もあるようだ。
(シンデレラ・コンプレックスは、「シンデレラ・コンプレックス症候群」「シンデレラ・コンプレックス・シンドローム」と言うのが正しいと思う)
いずれも、「今は駄目だが、いずれは・・・」といった願望が強い人のことと思う。

『シンデレラ(サンドリヨン。灰かぶり姫)』は、古い伝承を、ペローやグリム兄弟が取り上げて広めたものだが、『醜いアヒルの子』は、アンデルセン個人の創作だ。
そして、『シンデレラ』は、正直、許容出来るレベルの理不尽と言ったら怒られそうだが、本当に不幸な少女達の中では、シンデレラはかなりマシで、本当の人生の苦しさを知る者から見れば、「あんなん普通や」となるかもしれない。
また、シンデレラが成功したのは、彼女が稀に見る美少女だったからだし、魔法使いの力を借りることが出来た点が大きい。
だから、シンデレラ・コンプレックスを患う者は、やや「おめでたい妄想家」という雰囲気がなくもない。

だが、醜いアヒルの子症候群は、ちょっと深刻だ。
シンデレラは不幸な時から美少女だった。
しかし、醜いアヒルの子には美点が全くない。
『醜いアヒルの子』に強く感情移入する者もそうで、そんな者達は本当に苦しく、夢にすがるようなところがある。
しかも、これは作者のアンデルセン自身の物語がベースであるので、リアリティや希望を感じられてしまうのである。
「自分は、今は誰からも認められず、力もないが、本当は白鳥なのだ。いつかは才能を発揮し、誰もが称賛、さらには、羨望する存在になる」
と思うことで、やっと辛い今を生きる悲しい人達。
なぜ、「悲しい人達」と言ったのかというと、そんな人達が本当に白鳥になることは、まあ、滅多にないからだ。
そして、醜いアヒルの子症候群を患った者は、自分は白鳥にはなれなくても、大人のアヒルになれればいいという悟りの境地に至ることが出来ず、いつまでも・・・もしかしたら、死ぬまで醜いアヒルの子症候群でいるかもしれない。

ビートルズの『エリナー・リグビー』という歌がある。
エリナー・リグビーは、残飯をあさる貧しい老婆だが、ボロボロのドレスに、ありったけの宝石(偽物だろう)を付けて王子様を待ち続けている・・・そんなひどく惨めな老婆だ。
彼女は、シンデレラ・コンプレックスといった幸せな者ではなく、生涯、醜いアヒルの子だった。

アンデルセンは確かに、かつては醜いアヒルの子だった。
14歳で故郷のオーデンセの村を出て、首都コペンハーゲンに出た時は、まさに、醜いアヒルの子以外の何者でもなかった。
舞台俳優志望で、歌も練習していたが、やっと演劇関係の人の前で歌を披露する機会が出来た時、アンデルセンの歌を聴いたその人は、アンデルセンは気が狂っているのではないかと疑った。そのくらい、下手というよりは向いてなかった。
そんな少年アンデルセンは、幸運ななりゆきで学校に、そして、大学にまで行けたが、苦難の学生時代だった。
だが、アンデルセンは天才だった。
彼は自伝で、「神の加護により幸福な人生だった」と書いている。
確かに、彼は容姿が醜く、結婚はおろか彼女の1人も出来たことはないし、作品が広く海外にまで知られるようになっても、当時の出版業界の事情もあり、富には無縁だった。
それでも、国家から、多くはないが年金をもらい、働く必要がなく、外国旅行に明け暮れた。
何より、多くの人に称賛されていることで満足感があったのだろう。
ある時期までは、アンデルセンは、作品は知られていても、彼自身は誰からも褒められなかった。
しかし、ある日、学生たちが集って彼を称賛した時、彼は気絶するほど感激したというから、彼は本当に、今でいう承認欲求に飢えていたのだろう。

そんな彼が、達成感と、そして、多分だが、世間の理不尽さへの恨みも込めて『醜いアヒルの子』を書いた。
そして、これを読んだ多くの凡人が、「自分もいつか」と思いながら、結果、多くの場合、良くても虚しく諦め、悪ければエリナー・リグビーになった。

私やあなたは醜いアヒルの子だろうか?
その通りと言うのは、あなたを騙して儲けたい、詐欺的な新興宗教の教祖やセミナー講師のような者達だろう。
そして、重要なことを指摘すれば、アンデルセンだって、成功したのは「たまたま」で、たとえ天才とはいえ、彼だって本当は高確率で醜いアヒルの子のまま一生を終わっていたのだ。
才能があるからといって成功するほど、この世は天国ではない。
だが、白鳥になることが本当の幸福ではないことに気付けば、鷹になれる。
鷹になって、悠然と空を飛ぶ境地になれる。
その姿には、白鳥も羨むことだろう。








運命に逆らわない

年配の人は別かもしれないが、我々は子供の時から、「叶わない夢はない」「なりたいものになれる」などと言われてきたと思う。
しかし、世界的なスポーツ選手や音楽家になるには、努力以前に才能が必要という考え方も、かなり定着してきた。
一方で、「人間に差はない。かけた時間で決まる」という「一万時間の法則」のようなものも信奉者がいる。
村上龍氏と坂本龍一氏の対談書で、村上氏が、こんな話をしていたのを憶えている。
「今の坂本があるのは(彼らは呼び捨て出来る間柄)、才能ということもあるが、3歳の時から十年、みっちりピアノを弾いたからだ」
しかし、「才能がなければ、十年ピアノを弾いても駄目」とは言っていない。
だから、
「大工になるなら、中学生の時から十年、みっちり大工の修行をした方が良い」
という結論となるわけである。
まあ、一般人の場合はしょぼいのは仕方がないが、重要なことを言っているのである。
チームラボの猪子寿之社長と、現在はドワンゴの社長をしている夏野剛氏の対談でも、猪子氏は、
「人間の能力に差はない。イチローは元々大したことない選手だったが、誰よりも野球に時間をかけたから成功した」
というが、イチロー並に時間をかけて日本の一軍選手にすらなれない選手もいるかもしれない(多分いる)。
しかし、自分に見合ったことで時間をかけることには意味があるだろう。

イチローや坂本龍一どころか、ちょっとした人気歌手や、そこそこの規模の会社の経営者にだって、なれない人はなれないのである。
それは、努力の問題ではなく、さして努力しなくても、そんなものになれる人もいれば、いくら努力してもさっぱりな人もいる。
「天は人の上に人を作らず」と言った人がいるが、それは疑わしい。
才能と言えば才能なのだろうが、才能が必要ないようなことでも、うまくいかない人はうまくいかないように思うのである。
まるで駄目男は、どこまで行ってもまるで駄目男である。

つまり、運命は決まっているということだ。
大物になる運命にない人は、どうあがこうが、大望を持とうが、トンビが鷹になれないようなものである。
どんなに頑張っても、猫は虎に勝てない。
ラマナ・マハルシは、
「働く運命にあれば仕事は避けられない。しかし、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」
と言った。
ニートも運命かもしれない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、元々、故郷のオーデンセで職人として生涯を送る運命だったが、運命に逆らって、14歳で1人でデンマークに出て作家になったと思っている人が多い。
しかし、作家になることがアンデルセンの運命で、彼だって、歌手や俳優を目指していた頃はさっぱりだったのだ。

だが、自分の運命を見極め、運命に従うことに決めれば、良い人生になる。
例えば、ジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンだって、運命に従わなかった40歳くらいまでは、かなりの駄目男だったのである。
ワシントンは見栄っ張りで、金持ちの名士になるのが目標で、金持ちの未亡人と結婚したり、危ない事業をやったりしたが、それは運命に合わないことだったので、いつも大失敗して散々な目に遭ってきた。
彼は、軍人のような、苦しい上に、出世して儲かるかどうか分からないことなど、元々、やる気はなかった。
しかし、そのような運命にあることを悟り、運命に従うことを決意し、まず、軍人になって、ついに、アメリカを独立させた英雄になった。
まあ、やはり、我々のほとんどは、英雄どころか、トップにもなれないのだと思う。
だが、運命に従えば、英雄にだって味わえない甘露を得られるかもしれない。

「人間は無になれば不可能はない」という。
しかし、正しくは、「人間は無になれば運命を悟る」のではないかと思う。
無になるにはどうすれば良いかというと、それはいろいろあるだろうが、ある意味、考えることをやめることが必要だ。
そのためには、例えば、お経を上げたり、祝詞を唱えたり、真言を唱えたりするのが効果的な方法であることを示してくれる人が多くなってきたと思う。








ハッピーエンドは賢い準備から

中国出身の女性実業家、自己啓発指導者、作家であるチン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』に、夢を叶えるための、ある簡単な秘訣が書かれているが、それは聖書にも明確な例が見られるもので、本物の引き寄せ指導者が好んで語るものである。
『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』では、こんな話だ。

ハリウッド・スターのバート・レイノルズがまだ駆け出しの頃、既に大スターだったクリント・イーストウッドに、
「人気が出るまで何をしていましたか?」
と尋ねると、イーストウッドは、
「成功するための準備をしていた」
と答え、それを聞いたレイノルズは成功への階段を駆け上がった。
しかし、この本の著者は、これについて、ただ、レイノルズは「深遠な原則を理解し」としか書いてくれていない。
何て不親切なんだ・・・と思うが、まあ、要は、成功の準備をすれば良いのである。
偉大なる引き寄せマスターのフローレンス・スコーヴェル・シンは、お金がないが世界一周旅行に行きたいという男性に、旅行カバンを買って、旅行の準備をするよう薦めた。
その男性がそれに従うと、思いがけないところから大金が入り、彼は旅行に出かけた・・・こんな感じである。

旧約聖書の『列王紀略下』に、エリシャが砂漠に雨を降らせた話がある。
エリシャは、どんな準備をしたのだろうか?
エリシャは王に、砂漠に、水路となる溝を掘るよう要請し、王はエリシャを信じて溝を掘らせた。
すると、大量の雨が降った。
つまり、溝を掘って、雨が降った時に必要な水路の準備をしたのである。

これらの準備は適切だった。
しかし、少し注意が必要だ。

可愛いあの子を彼女にしたいなら、まず、格好良い服を買い、髪型も決めてデートの準備をするべきだし、さらに、デートでのエスコートを余裕で出来るよう、お店をしっかり調べておくことも必要だろう。
だが、モテないやつは、この方面の準備が下手なものであり、準備がかえって逆効果になることも多い。
準備とは、決して表面上のことではなく、心の問題であり、あの子を彼女に出来る心の準備が出来ているかどうかなのである。
これについては、新約聖書の『マタイ福音書』の「十人の乙女のたとえ」のイエスの話が参考になる。
十人の乙女が花婿を迎えに行った。
十人の乙女はランプを持っていたが、予備の油を持っていたのは五人だけだった。
だが、花婿の到着が遅れ、ランプの油が切れてしまった。
五人の乙女は予備の油を持っていたので大丈夫だったが、残りの五人は油を買いに行く間に花婿が来てしまい、婚礼の宴の建物に入れてもらえず、油を準備していた五人だけが結婚出来た。
油を準備していなかった五人の乙女も、下らないものの準備はしていたかもしれない。
だが、知恵がなかったので、肝心の油を準備していなかったのだ。
知恵のない者の準備の例を上げれば、例えば「病気になった時のためにお金を貯めておこう」といったものだ。
すると、準備した通り、病気になるのだ。
知恵のない準備は虚しい結果を呼ぶ。

知恵のない準備をした者の例に、あの童話作家のアンデルセンがいる。
24歳のアンデルセンは、好きな女性が出来、彼女を得るための準備をした。
その準備とは、自分のことを知ってもらうための自伝を書いたのだ。
当然、振られた(笑)。
一般的なオタクが失敗するパターンだ。
つまり、自分のことを知ってもらうのではなく、相手を理解することが必要なのだ。
この点、アンデルセンもただの阿呆で、もちろん、彼は一生独身だった。
だが彼は、14歳でデンマークに出て来てから長い間、作家として成功するための長い準備をしたのだ。
志した歌手や役者としては全く認められずに馬鹿にされ、その後、教師のパワハラに耐え続けて学業を終えたのである。
『人魚姫』や『マッチ売りの少女』などのヒロイン達の苦しみを、アンデルセンが美しく描けたのは、自身の辛い経験があったからである。
準備は、パートタイムでやるものではない。
常に、怠りなく備えなければならない。
根気も必要であるが、自然でまっとうなことをやれば良いのであるから、それほど辛くはなく、むしろ楽しいし、もし、辛いならば報いも大きいであろう。
アンデルセンも、苦難が報われた時の感動(学生たちの称賛の儀式)を自伝で熱く語っている。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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