ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アラン・ワッツ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

全てが明らかになる

自分一人で、二役、三役、あるいは、それ以上を演じる一人遊びをやった覚えがある人は多いと思う。
これをまともにやるのは幼い子供で、小学生でも高学年にもなってやっていると、少々おかしな・・・と言うより危ない子だと思われるかもしれない。
だが、演劇の分野で一人芝居というものがあり、また、日本の落語では一人芝居が多用される。
小説も、作者による一人芝居のようなところがあるし、劇作家になって劇のシナリオを書くのは一人芝居に没頭するようなものだという気がする。

ところで、イギリス出身のアメリカの作家アラン・ワッツや、アメリカの発明家で作家であったイツァク・ベントフ、他にも、似たことを言った人がいたと思うが、我々は、一人遊びをしている神なのである。
想像力がある子供が、お父さんごっこお母さんごっこをやっているうちに、本当に、ここにお父さんやお母さんの両方がいると思い込むように、神である我々がいろんな人を空想で作り出しているうちに、本当に沢山の人がいると思い込んでしまったのだ。
私は、以前は、こんな話を見ると、「確かにそうに違いない」と思う部分はあるのだが、納得出来ないところもあった。
きっと、「神ともあろうものが、そんな間抜けであるはずがない」という想いが強かったのだろう。

妖精を見つける
AIアート62
「妖精を見つける」
Kay


だが、ローレンス・スペンサーの『エイリアンインタビュー』を読むと、我々という神が、かくも間抜けな理由が分かり、納得がいったのである。
我々は、宇宙人が高度なテクノロジーで作ったマインドコントロール装置の影響で、おかしな空想をし、それが本当であると信じてしまっているのである。
このことは、どんなに説明されても、普通は納得しない。
また、必ずしも『エイリアンインタビュー』に書かれていることが、事実そのままではないかもしれないが、基本的には、あの通りなのである。
そして、いずれにせよ、空想しているのは心なのであるから、心を消せば、全ては明らかになる。
心を消す秘法中の秘法が「私は誰か?」と自分に問うことである。

心が消えれば、世界は自分の空想であり、言うなれば、我々は劇をしているのだが、それは一人芝居なのである。
凄いイケメンや美少女を彼氏彼女にするのも、お金持ちになるのも、単に、劇のシナリオを書いて演じれば良いだけのことである。
「私は誰か?」と問い続ければそれが明らかになるだろう。
シェイクスピアなんて、それをかなり分かって書いていたのだろうと思う。
そして、アメリカ最大の賢者エマーソンが言ったように、我々がシェイクスピアなのである。

肝心なところが伝え難い

最強の瞑想は「存在の自覚の瞑想」であることは、ずっと前から分かっているのだが、これが世間で流行ることはなかった。
その理由は簡単で、「分かり難い」からだ。
「存在の自覚の瞑想」について、昔から示唆していたのは、イギリス出身の作家アラン・ワッツの『タブーの書』で、これは、とにかく印象深い本なのだが、ルドルフ・シュタイナーの本のように分かり難いし、力を得るには何をすれば良いのか分からない。
まるで秘密を隠しているように感じてしまう、まさに『タブーの書』だ。

しかし、引き寄せにしろ、リアル魔法にしろ、それが「出来るような気分」ではなく、本当に出来るようになるのは「存在の自覚の瞑想」だけである。
世界的に有名な瞑想指導者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギの著書『超越瞑想』の原題は『Science of Being and Art of Living(存在の科学と生きる技術)』で、根本では良いことを書いているが、この世界的な著作は、日本ではさっぱり人気がないし、アメリカでも、さほどではない。
個人的見解では、関英男博士も指摘していたが、マハリシは、ビジネスのために肝心なことを隠していたように思えるのだ。

巷には、「これまでの引き寄せがなぜ効かなかったのか」「そこで、こうやればうまくいく」といった本は多いが、おそらくだが、そういった本も全部駄目なんじゃないかと思う。
本当に効くのは「存在の自覚の瞑想」だけだが、これは、難しい訳ではないが、分かり難い。なぜ分かり難いかというと、世間的な観念と違うからだ。

「存在の自覚の瞑想」について、歌で表していたのは、ビートルズの『ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)』だったが、 直接的に書いている本はないと思っていた。
しかし、ネヴィル・ゴダードの『At Your Command(翻訳:新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま)』があるのだと分かった。
けれども、これを読むと、やはり、アラン・ワッツの『タブーの書(新訳:「ラットレース」から抜け出す方法)』のような「え?何書いてるの?」という感じになると思う。
『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD.H.ロレンスも、『無意識の幻想』で、「存在の自覚の瞑想」に関わることを書いているが、この本の冒頭に、「君にこの本を読む権利があるなんて思うな」「諦めてさっさとゴミ箱に捨てろ」みたいな警告をしている。
アラン・ワッツがさりげなく示した瞑想のやり方は「自分がいない世界を想像する」で、なるほど良いのだが、即物的に欲望を満たしたい人は納得しない。

少し前も、このブログのコメントで、「Kayさんは、『神様の奇跡が起こる 』と唱えればいいと書いていたのに、後から違うことを書く。確かな方法を知ってるならそれだけ書け」みたいな文句があったが、この人を「即物的な馬鹿」と笑えないところもある。
しかしだ。この人が本当に、1日中「神様の奇跡が起こる」と2週間以上唱えたかというと、それは絶対ないと思う。
我々は、そんなことは出来ないように洗脳されているのである。
そこで、関英男博士のように、毎日、腕振り運動を2千回か、せめて千回でもやれば分かって来ると思う。
関博士も、『宇宙学序章 グラビトニックス』(絶版。古書は一般に高価)で、「根気だけは必要」と書かれているが、絶対に「大変」というほどではない。しかし、やはり多少の根気は必要なのだ。
そんなわけで、無心に、丁寧に、腕振り運動をしようと思う。
















死後の世界について

『青い鳥』で知られるメーテルリンクは、死後の世界の存在を信じるだけでなく、死後の世界が無いと考えることが非常に不合理だとまで言った。
彼は『死後の存続』という本を書いているが、非常に分かり難い本だと思う。少なくとも、霊界物語といったものではない。

死後の世界は存在するのだろうか?
主要な宗教では、全て死後の世界の存在を説いているが、キリスト教では、死後、すぐに死後の世界で活動するのではなく、審判の日まで眠り続けるようだ。
だが、キリスト教を根本に書かれたダンテの『神曲』や、エマニュエル・スウェーデンボルグの『霊界日記』などでは、人は死後、すぐに霊界での生活を始めるとしている。

死後の世界の実証は大変に難しい。
その中で、死後の世界の可能性を示すものが臨死体験と呼ばれるもので、事故や病気で死んだと見なされた者が蘇生した時、死後の世界に行った記憶を持っていることがあって、その内容が、ただの幻想のレベルを超えていると思われることから、なんらかの信憑性を感じさせることがある。
だが、やはりそれは脳が作り出した幻影と考える方が合理的だと言う者もいる。

ところで、死後の世界を信じる理由の1つに、この世での不公平ということがある。
善い人間が、この世で辛い目に遭っているのに、悪人が良い思いをしていることがよく見られる。
確かに、「奢れる者は久しからず」で、悪人が楽しくしていられるのは一時的で、やがては、普通の人よりずっと惨めな状況に陥る場合が多いように思えるが、中には、高齢で死ぬまで楽しく生きる悪人もいるように思える。
それなら、この世では不幸だった善人が天国で幸福になり、この世では良い思いをした悪人は、死後は地獄で苦しむべきだと考えたくもなるだろう。

量子物理学を基に、肉体が死滅した後も精神が活動することを説く者もおり、中には、非常に素晴らしいと思える説もあるが、正しいかどうかよりも、誰もが納得出来るとは言い難いのではないかと思う。

死後の世界は、あるともないとも言えない。
だが、あると考えた方が、生が充実するという考え方には良い点が多いかもしれない。
また、「生きているが死んでいる」という言い方を、肯定的な意味でも否定的な意味でも言うが、この考え方が重要であると思われることもある。

ところで、私が納得してしまった、常識を超えた考え方があった。
それは、そもそも、生が幻想であるという考え方で、死後の世界があるというよりは、死後の世界の方がスタンダードで、生きている状態なんてものは、実際にはないというものだ。
書で言えば、アラン・ワッツの『タブーの書』(および、その改訂版の『ラットレースを抜け出す方法』)が、そんなことを説いていると思う。
やや難しい感じはするが、D.H.ロレンスの『無意識の幻想』も、そんなことを描いている。
飯田史彦氏の『生き甲斐の想像』からも、そんなことが感じられる。

生きている間は、美味しいものを食べ、猫と遊んで楽しみ、自然に触れて良い気分になるなど、良いことが沢山ある。
しかし、楽しいことにうつつを抜かしていると、それを得られない状態の時に悲惨を感じる。
だが、大切なことを忘れている。
それは別に難しいことであるはずがない。
ちょっとしたヒントがあれば分かるし、それは幸福をもたらす。
例えば、河合隼雄氏の本にあったが、死んだら月に行き、先に死んだおばあちゃんにも会えるという自分のストーリーを持っている小学生の女の子のようにである。
ただの絵空事といえばそうだが、ストーリーには不思議な力がある。








神様の正体

お互いの見解を参考にした訳でもなさそうな4人が、神について、同様なことを述べているが、それなら、神とは、だいたい、そんなものであると思って良いかもしれない。
まず、医療機器の発明家で、哲学者と言って良いと思う(学歴は幼稚園中退だが)イツァク・ベントフは、こうである。
「1人である神が、分裂してもう1人の自分を作り出し、一緒に遊んでいるうちに、2人いると思いこんだ」
次に、思想家、哲学者(本来、こんな肩書きは不要なのだし、公式なものではないが)のアラン・ワッツもほぼ同じだ。
「1人の神が、退屈なので、1人で家族遊びを始め、お父さん役、お母さん役、子供役等を1人で演じているうちに、本当に、父、母、子供がいると思い込んでしまった」
作家、自己啓発関係の事業家である中国出身の女性チン・ニンチュウは、牧師に教わった、次のことを納得しているのだと思う。
「人間とは、万能でないフリをしている神だ。なぜ、そんなことをしているのかというと、間違いなく、“面白い”からだ」
物理学者の保江邦夫さんは、彗星探索家の木内鶴彦さんに教わったことを裏付けている。
「神が、退屈なので世界を作り、面白い体験をするために沢山の人間に分裂したフリをしている」
お金持ちになる科学で知られるウォレス・ワトルズも、人間は神が自己表現をするためのものであるとしていたと思うので、これも合わせると5人だ。

よって、まあ、人間とは、別々の人がいるように見えて、本当は、同じ人である1人の神であるということになる。
とてもそうは思えないというのは、それほどうまく演じている、あるいは、設定が出来ているだけのことだ。
だから、本当は、山田太郎などの個人は存在しない。
だからまあ、人間は、楽しめば良いのである。
ただし、自己中心的に考え、振る舞うと、結局は、自分が苦しくなるように出来ている。
若い頃、超人的な身体を持ち、それで散々良い思いをしても、利己的であれば、やがて両足を失ったり、病気で立つことも出来なくなったり、その両方になる。
ただ、利他的な者が、さらに利他的であることを極めるために、そんな状態になることもあるようなので、悲惨な状況が必ずしも悪い訳ではない。

それで、運がよくなり、楽しい人生にするためには、本来の目的を思い出せば良いだけということになる。
つまり、面白い体験をすれば良い。それを得る準備をすれば良い。
必ずしも、ひきこもりが面白くない体験ではないが、実際に、鬱々として、面白くないなら、その状況から離れるべきだ。
そのためには、ちょっと「揺らぎ」を起こせば良いのである。
そのためには、移動するのが良い。物理的でも、精神的でも。

もっと
クラクラクラ クラクラさせてよ
ユラユラユラ ゆらぎを見せてよ
キラキラキラ きらめいていてよ
~『テオ』(作詞・作曲・編曲:Omoi。唄:初音ミク)より~








自分がいなくなった世界

私は夢の中で、「余命数ヶ月」ということになったことが何度かある。
夢の中でのことだから、医者などに面と向かって言われたのではなく、「なぜか知らないが分かってしまう」という感じだったが、リアリティーは十分だった。
夢というのは、目が覚めた直後に忘れてしまうことも多いが、そんな夢や、その時感じたことは鮮明に憶えている。
その時の感情は、おそらく、現実でそうなっても(余命少しになっても)似たようなものではないかと思う。
その意味では貴重な経験をさせてもらったわけだ。
鏡音リンさんの『炉心融解』という歌で、

僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ
~『炉心融解』(作詞:kuma(alfred)、作曲・編曲:iroha、唄:鏡音リン )より~

といった詩があるが、全くその通りだなあと思う。
その世界は、朝日が輝いていて、まるで、世界自体が白い光を放っているような、明るく、そして、静かな世界だった。
ところが、静寂に包まれたその世界に、人はいないし、動いているものが何もない。
そして、不思議なことに、私は、その世界の隅々を見渡しているのである。
まさに、これが「死」ってものかもしれない。
私は、死を先取りしたのかもしれない。

アラン・ワッツが、『タブーの書』で、自分が死んでいなくなった世界を想像してみろといったことを書いていたような気がするが、目が覚めた状態で想像してみたら、そこは、これまでの世界と似てはいるのだが、やはり静かで、まるで、音のない3D映画だ。
人々は動いているが、リアリティーがない。
そして、やがて、人間をあまり見なくなる。
カラスが一羽、気ままな感じで振舞っているのが、何か良い。
そして、私は、やはり世界の隅々を眺めている。
俯瞰(高いところから見ること)する場合もあるが、地上から広い視界で遠くまで見ていることもあるし、小さなものを拡大して見ることも出来る。
やはり、夢の中で、死亡宣告された世界とよく似ている。

つまり、こういうことだ。
世界を創っている自分の心が肉体から解放されて広がった世界では、肉体とそれに縛られた心の都合で世界を構築する必要がない。
その結果、出来たのが、この美しい静かな世界なのだ。
心は、宇宙の心の中に溶け、広がっていくので、どこでも好きな場所を見ることが出来る。
そして、慣れてくれば、心はさらに、どんどん広がり、やがては、数億光年先でも見ることが出来るのだろうと思う。
要するに、不自由がどんどんなくなってくるのだ。

肉体がないと、あえて世界をどうこうしようとは思わない。
世界を動かそうと意図するには、肉体を持つことによる不自由が必要だ。
それで、肉体を創造して、不自由なフリをすることで、自分の世界を創り、その中でどたばたやって見せるのかもしれない。
また、肉体を作る時、人生というプログラムを心臓の中に組み込むのかもしれない。
だから、深い感情を持ってイメージすれば、プログラムが書き換わり、世界が変わってしまうのである。
プログラムが書き換わる知らせは、胸が高鳴ったり、踊ったりすることだ。
いわゆる、ワクワクしたり、ウキウキしたりすれば、世界が変わっていくのはそのためだ。
H.G.ウェルズの自伝的小説『ポーリー氏の生涯』(翻訳はないと思う)で、ポーリーは、「人生が気に入らないなら、変えてしまえば良い」と言うが、それは慎重でなければならないだろうし、そう簡単に出来ないかもしれないが、とにかく、そういうことは出来るのである。
コリン・ウィルソンは、劇薬の青酸カリを今まさに口に含もうとした刹那、世界が変わり、冴えない労働者にして外部学生(学校に所属せず授業を受ける者)という立場から、ほとんど一瞬で世界的作家になった。
劇薬はやめておいた方が良いと思うが、何らかの方法で、心を一瞬無にしてしまうことが必要なのだろう。
まあ、人差し指を立てれば、一瞬、心頭は滅却するし、呼吸を極端に遅くしてもそれは起こるので、利用すれば良い。
ただし、肝心なのは、あくまで、気高い心で世界を変えようとすることである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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