また、「至高体験」について取り上げる。重要なことだからだ。
アメリカの高名な心理学者のマズローや、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンが生涯をかけて探求したテーマだが、私は、彼らは掴み損なったのだと思う。
「至高体験」は、実質では「法悦」と同じである。
法悦(goo辞書)
1 仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜び。法喜。
2 うっとりとするような喜び。エクスタシー。「―にひたる」
もちろん、「2」で十分で、「1」は補足と捉えれば良い。
至高体験には、公式な定義はないが、マズローによれば、
「感動や恍惚感など人生において最高の幸福と充実を感じる一瞬の体験で,日常的な体験とは異なり,自己実現的人間へと成長・発達していくうえでの啓示的体験とされる。」
である。なんとも回りくどく、ややこしい。単に冗長な説明だ。後で私が明晰に述べる。
マズローは、「優れた人間とそうでない人間の唯一の違いは、至高体験があるかないかだけ」と言い、どうすれば至高体験が得られるかについては「偶然に頼るしかない」とした。
だが、ウィルソンは、「至高体験は誰でも体験しているありふれたもの」と言い、後に、マズローもそれを認めた。
そして、ウィルソンは、「至高体験とは、単に、自分を幸運と思うこと」と述べた。
2人とも、自分がよく分からないまま話を発展させたので、矛盾だらけとなる結果になった。
たとえば、ウィルソンは、こんな例を好んで使った。
ある平凡な家庭での出来事だ。
夫と子供達が食事をしながらお喋りをしているのを見ていると、妻は至高体験に達した。
その至高体験は、「自分の夫や子供達への愛情」「幸福感」の強烈さであった。
実際は、ウィルソンは、このことを言葉を尽くして語ったようだ。
翻訳であるが、『至高体験』(コリン・ウィルソン著)から引用してみよう。
たとえば一人の若い母親が台所をせわしげに動き回って、夫と子供たちの朝食を作っていた。太陽が降り注ぎ、清潔できちんとした服装をした子供達が、食事をしながらお喋りをしていた。夫は何気なしに子供たちと遊んでいる。彼らの有様を眺めていたとき、母親は突然あまりにも圧倒されたのだ。その美しさに、また彼らへの自分の大きな愛情に、素晴らしい幸福の気持ちに。かくして彼女は至高体験に参入していたのであった。・・・・
ウィルソンが、こんなふうに、なんとも冗長でクドクドと述べるのは、理解していない証拠である。別に、詩などの文学作品を書いているのではなく、至高体験とは何かという話をしているのだから、冗長な表現など不要だ。
さらに、この後、ウィルソンは、心理学や文学などの話を数多く引用して、この母親の至高体験の意味を述べているが、それはまさに下手な教科書を書いているようなもので、肝心な、「至高体験の本質は何で、どうすれば至高体験を得られるか」については、何も言わない。言えるはずがない。ウィルソンには分からないのだから。
挙句、後にウィルソンは、至高体験に近い体験が出来るペンを使った方法として、下らないテクニックを語るようになった。
ウィルソンは洞察においては天才であるが、どこかいい加減な人間であるし、マズローは学者馬鹿だった。
上記の母親は、「今」の瞬間を鮮明に感じた・・・それだけである。
この母親も、普通の人間と同じく、普段は、過去の記憶や未来の空想に心(脳)が占領され、今をあまり感じていないのである。
だが、その朝、夫と子供の様子を見ている時、過去の記憶や未来の空想が心の中から消え去り、今の瞬間だけを見たのだ。
つまり、至高体験とは、今の瞬間を(明晰に)感じることなのである。
現代人は、後悔などの過去の記憶や、不安などの未来の空想ばかりが心を占め、今の瞬間を感じることが極めて少ないことが不幸の元なのである。
だから、単に、今の瞬間に意識を向けるようにすれば、いつでも至高体験に入れるのだ。
もっとも、過去の記憶や未来の空想に慣れ切った人々には、そんな簡単なことが難しくなってしまっているのだが。
そこで、昔から、密教などで、歩いている時、「歩いている、歩いている」と思ったり、食べている時、「食べている、食べている」と思って、今やっていることに意識を向ける訓練をしたのである。
マズローが「優れた人間かそうでないかは、至高体験があるかないかだけの違い」と言ったのは重要な意味がある。至高体験にあれば、引き寄せ能力が高まり、望まずとも幸運に恵まれるからだ。
優れた人間の定義はいろいろに言われるが、確かな定義の1つは「幸運であること。引き寄せ能力が高いこと」となるはずである。現代では認められないかもしれないがね。
今、やっていること、今、見ているものに全身全霊で集中することだ。
と言うと、顔を真っ赤にして必死で集中しようとする馬鹿が多い。
学校のせいだと思うが、「集中する」ことではなく「集中しているフリ」「集中していると思ってもらえる演技」しか出来ない愚か者ばかりなのだ。
集中って、単に、心を込めてじっと見ること、あるいは、聞いたり感じたりすることなのに、そんな当たり前のことが出来ないのだ。
とりあえず、仏様や菩薩様のように、親指と人差し指(中指や薬指でも良い)を微かに触れ合わせ、その感触を「集中して」感じることだ。
それだけで至高体験に達し、引き寄せが出来るから。
アメリカの高名な心理学者のマズローや、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンが生涯をかけて探求したテーマだが、私は、彼らは掴み損なったのだと思う。
「至高体験」は、実質では「法悦」と同じである。
法悦(goo辞書)
1 仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜び。法喜。
2 うっとりとするような喜び。エクスタシー。「―にひたる」
もちろん、「2」で十分で、「1」は補足と捉えれば良い。
至高体験には、公式な定義はないが、マズローによれば、
「感動や恍惚感など人生において最高の幸福と充実を感じる一瞬の体験で,日常的な体験とは異なり,自己実現的人間へと成長・発達していくうえでの啓示的体験とされる。」
である。なんとも回りくどく、ややこしい。単に冗長な説明だ。後で私が明晰に述べる。
マズローは、「優れた人間とそうでない人間の唯一の違いは、至高体験があるかないかだけ」と言い、どうすれば至高体験が得られるかについては「偶然に頼るしかない」とした。
だが、ウィルソンは、「至高体験は誰でも体験しているありふれたもの」と言い、後に、マズローもそれを認めた。
そして、ウィルソンは、「至高体験とは、単に、自分を幸運と思うこと」と述べた。
2人とも、自分がよく分からないまま話を発展させたので、矛盾だらけとなる結果になった。
たとえば、ウィルソンは、こんな例を好んで使った。
ある平凡な家庭での出来事だ。
夫と子供達が食事をしながらお喋りをしているのを見ていると、妻は至高体験に達した。
その至高体験は、「自分の夫や子供達への愛情」「幸福感」の強烈さであった。
実際は、ウィルソンは、このことを言葉を尽くして語ったようだ。
翻訳であるが、『至高体験』(コリン・ウィルソン著)から引用してみよう。
たとえば一人の若い母親が台所をせわしげに動き回って、夫と子供たちの朝食を作っていた。太陽が降り注ぎ、清潔できちんとした服装をした子供達が、食事をしながらお喋りをしていた。夫は何気なしに子供たちと遊んでいる。彼らの有様を眺めていたとき、母親は突然あまりにも圧倒されたのだ。その美しさに、また彼らへの自分の大きな愛情に、素晴らしい幸福の気持ちに。かくして彼女は至高体験に参入していたのであった。・・・・
ウィルソンが、こんなふうに、なんとも冗長でクドクドと述べるのは、理解していない証拠である。別に、詩などの文学作品を書いているのではなく、至高体験とは何かという話をしているのだから、冗長な表現など不要だ。
さらに、この後、ウィルソンは、心理学や文学などの話を数多く引用して、この母親の至高体験の意味を述べているが、それはまさに下手な教科書を書いているようなもので、肝心な、「至高体験の本質は何で、どうすれば至高体験を得られるか」については、何も言わない。言えるはずがない。ウィルソンには分からないのだから。
挙句、後にウィルソンは、至高体験に近い体験が出来るペンを使った方法として、下らないテクニックを語るようになった。
ウィルソンは洞察においては天才であるが、どこかいい加減な人間であるし、マズローは学者馬鹿だった。
上記の母親は、「今」の瞬間を鮮明に感じた・・・それだけである。
この母親も、普通の人間と同じく、普段は、過去の記憶や未来の空想に心(脳)が占領され、今をあまり感じていないのである。
だが、その朝、夫と子供の様子を見ている時、過去の記憶や未来の空想が心の中から消え去り、今の瞬間だけを見たのだ。
つまり、至高体験とは、今の瞬間を(明晰に)感じることなのである。
現代人は、後悔などの過去の記憶や、不安などの未来の空想ばかりが心を占め、今の瞬間を感じることが極めて少ないことが不幸の元なのである。
だから、単に、今の瞬間に意識を向けるようにすれば、いつでも至高体験に入れるのだ。
もっとも、過去の記憶や未来の空想に慣れ切った人々には、そんな簡単なことが難しくなってしまっているのだが。
そこで、昔から、密教などで、歩いている時、「歩いている、歩いている」と思ったり、食べている時、「食べている、食べている」と思って、今やっていることに意識を向ける訓練をしたのである。
マズローが「優れた人間かそうでないかは、至高体験があるかないかだけの違い」と言ったのは重要な意味がある。至高体験にあれば、引き寄せ能力が高まり、望まずとも幸運に恵まれるからだ。
優れた人間の定義はいろいろに言われるが、確かな定義の1つは「幸運であること。引き寄せ能力が高いこと」となるはずである。現代では認められないかもしれないがね。
今、やっていること、今、見ているものに全身全霊で集中することだ。
と言うと、顔を真っ赤にして必死で集中しようとする馬鹿が多い。
学校のせいだと思うが、「集中する」ことではなく「集中しているフリ」「集中していると思ってもらえる演技」しか出来ない愚か者ばかりなのだ。
集中って、単に、心を込めてじっと見ること、あるいは、聞いたり感じたりすることなのに、そんな当たり前のことが出来ないのだ。
とりあえず、仏様や菩薩様のように、親指と人差し指(中指や薬指でも良い)を微かに触れ合わせ、その感触を「集中して」感じることだ。
それだけで至高体験に達し、引き寄せが出来るから。