ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アテーナー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

力ある女神達がイノセンスである理由

ギリシャ神話の神々のことを「人間臭い」と表現する人がよくいると思う。
完全であるはずの神に似合わないように思える行いがよく見られるからである。
しかし、それを、「人間臭い」というのとは違うと思う。
ひどく無邪気に感じる神々の行いは、全く人間臭くなく、それこそ神らしいと思うのである。

ギリシャ神話の最高位の神々であるオリュンポス十二神は、ほとんどがゼウスの兄と姉、そして、ゼウスの子で、例外は愛と美の女神アプロディーテーだけだが、アプロディーテーはゼウスの祖父ウラヌスから生まれた女神である。
オリュンポス十二神は、男神6柱、女神6柱だが、力や勢力において際立つのは、若い女神であるアテーナーとアルテミスである。
アテーナーは大神ゼウスとほぼ互角とまで考えられるし、ゼウスの後継者と思われるアポローンの双子の妹(一説には、先に生まれた姉)であるアルテミスも、アポローンと並び称される。
ところで、アテーナー、アルテミスとも処女神として知られる。
アルテミスは純潔の女神とも言われるが、この2柱の女神は徹底して処女であることに重きを置く。
アルテミスはカリストーという非常に美しく愛らしい精霊の少女を気に入って可愛がり、身近においていたが、カリストーは、彼女を見初めたゼウスと交わり身ごもる。
カリストーの妊娠を知ったアルテミスは、一切の事情を知ろうともせず、カリストーが処女でないという理由だけで追放する。
普通に考えたら、アルテミスの行いは理解し難く、カリストーを可哀想に思うだろう。

だが、ギリシャ神話でいう処女とは、固定観念を持たないということと考えると良いのだと思う。
知恵と戦いの女神アテーナーは固定観念を持たないが故に、知恵に優れ、軍神アーレスに打ち勝つほどの力を持つのである。
アテーナーは、その力を保つために、固定観念を持たないこと、つまり、処女であることに徹するのである。
アルテミスが水浴しているところに、たまたま通りかかったアクタイオンという男を、アルテミスは自分の裸を見たというだけで鹿に変え、アクタイオンは、彼が連れていた猟犬に食い殺される。
ここまでに処女に徹底するからこそ、つまり、固定観念を近付けないからこそ、アルテミスもまた、神々の中でも別格の扱いを受けるほどの力を持つ。
また、オリュンポス十二神には含まれないどころか、ゼウスの敵であったティターン族の女神であるヘカテーは、強大な権能を持っていたが、ゼウスはそれを取り上げなかった。
ヘカテーもまた処女神であり、ゼウスすら手が出せない、侵し難い力を持つ女神である。

恐るべき力を持つ処女神達は、とても無邪気である。この無邪気さが、固定観念を持たないことを表してもいると思う。
ところで、聖母マリアは処女のままイエスを身ごもったと福音書に書かれているが、それを表面的な言葉のまま受け取ってはいけないかもしれない。
こう言ったからとて、別にカトリックの教義を否定することにはならない。
マリアは不要な固定観念を持たない優れた女性だったということだ。
死海文書やエドガー・ケーシーのリーディングにおいては、マリアは普通の方法でイエスを身ごもったとされている。
言葉通りの意味でマリアが処女だったということに、こだわるのはおかしい。そんな信仰はレベルが低いと、未来において思われるかもしれない。
むしろ、マリアは世俗の固定観念を持たなかったこと、世間の教義や信念に平伏すのではなく、天の理を貴び、従っていたというところを強調すべきなのである。

我々も、アテーナーやアルテミスが固定観念を嫌っていたこと、マリアが固定観念に穢れない存在であったという視点でギリシャ神話や新約聖書を読むと、得るところは大きいのであると思う。
きっと、アテーナーやアルテミス、そして、ヘカテーの力の一端に触れると思う。









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最大の防御力を得る方法

心を鍛え、何者にも負けないようになれる最上の方法は、沈黙と食の慎みである。
この2つで得られるのは防御の力であり、この方法でなら、驚くほどの効果があり、あなたは生涯、誰にも傷付けられることはなくなる。
その力は、大神ゼウスが女神アテーナーに与えたアイギスという盾のようなものである。
知恵と戦いの女神アテーナーは、これにより、「アイギス持つアテーナー」と称されるのである。
アイギスはありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされている。
全くその通りの力が得られる。
沈黙を守り、食を慎むだけで良いのである。

ただし、完全に何も言わない沈黙や、極端な少食をしなければならないのではない。
不要なおしゃべりや、満腹するまで食べるようなことをしてはいけないだけだ。
完全に黙ってしまえば、日々の糧を得ることすらできないだろう。
また、あまりに食べないと、身体が痩せ細り、心までギスギスしてしまうことだろう。
人間には、適度な会話と適切な食事が必要である。

しかし、無駄なことを言うのは、断じて差し控えなければならない。
世間の人々は、あまりに無駄な言葉が多い。
是非を争い、自分の面目や見栄を守るための、醜い、不快な言葉を抑えることができないのだ。
だが、本当に話すべきことは、驚くほど少ないのだ。
言ってはいけないことはもちろん言ってはならない。
他人の悪口、陰口や、自分に関わりもない物事や人物の批判などをしてはいけない。そんなことで声を張り上げる人間は醜くて見るに耐えず、その言葉は穢れている。
単に言いたいだけのことでしかないなら、言うのを我慢して沈黙を保つのだ。
言わなくても良いことは、言うより言わない方が千倍も良いのだ。
人間は、必要もないことを言う度に、頭が悪くなり、感覚も鈍くなっていくのだ。

だが、我々は聖者でもなければ、聖者を目指すわけでもない。
だから、必要なことは話さなくてはならない。
ただ、ほとんどの場合は、ただ明白な事実だけを述べ、質問には、「はい」か「いいえ」で答えれば事が足りるのである。

ラマナ・マハルシは、悟りを開いた後でさえ、3年の沈黙の行をして、揺るぎない自己を確立した。
かなりの段階に達した者なら、このように完全に沈黙したとしても、世間的なことも神が世話を焼いてくれる。
ある者が、神により、17歳だったマハルシに食事を毎日届けるよう命じられ、その通りに畏まって務めたのだ。
だが、我々は自分の食事は自分で得なければならない。
よって、必要なことであれば、誠意ある言葉で、きちんと会話しなければならない。
それができず、自分の食事や服を自分の力で得られないなら、愚か者であるということだが、今はそうでも心配はいらない。
沈黙と食の慎みの力によって、苦労は去るだろう。
神が守るからである。
そして、あなたが、外にいる邪悪なものを攻撃をする必要はない。
最強の勇者である神が、あなたの代わりに戦ってくれる。
だから、あなたはただ、無駄なことを話したがり、必要以上に(腹8分目以上に)食べさせようとする内なる敵を退ければ良い。









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人生を世間に売った人の歩き方

私は、毎朝、通勤で駅へ向かって歩いている時、中学生が通学する集団と対向する形になる。
私は大抵、毎日同じ時間に家を出るし、彼らもそうであろうから、顔を合わせる相手はほぼ決まっているはずだ。
そこそこには、彼らの顔を見ているはずであるが、彼らの顔を憶えていることは全く無い。
ところが、ただ1人、はっきり憶えてしまった女子生徒がいる。
美少女なのかといえば、確かに美少女だが、同じくらいの美少女なら、多分、他にもいるだろうから、それが理由で憶えている訳ではない。

ところで、大学生も、あまり多くはないながら、すれ違うのであるが、こちらは、格好の良い服装をした女子大生や、逆に、あまりにだらしない格好の女子大生であれば、憶えていることもある。だが、見れば美人でも、顔をあまり憶えていない。そして、男子学生を憶えていることは全く無い。
ところが、やはり、女子大生の1人をはっきり憶えてしまった。こちらは、相当な美人で、服のセンスも抜群であるのだが、どうも、それが理由で憶えた訳ではないような気がする。

なぜ、女子中学生の1人、女子大生の1人をはっきり憶えてしまったかというと、それは目だ。
特に中学生の場合、前を見ないで歩いている子が多く、対向して歩いていると、こちらが避けないと衝突しそうな感じになることが多い。だがこれは、大学生でもあまり変わらないように思う。いや、実際は大人も同じなのだ。
誰も、意識して前を見て歩いていないのだ。
ところが、上記の2人は、そうではない。そして、今では珍しい特性と言えるが、自分から避けて道を空けるのである。特に、その女子中学生の慎ましい歩き方は好意に値する。また、その女子大生は、ちょっと鋭い感じの素晴らしい目をしている。私は、彼女を心の中でアテーナーと呼んでいる。最も輝く瞳を持つ女神だ。一方、中学生の子はアルテミスと呼んでいる。理性と芸術の神アポローンの双子の妹、最もおがやかな女神レートーの娘で、新月の女神とも言われる純潔の女神だ。

前を見て歩いていない者は、意識を捨てて生きている。意識を捨てているということは、人生を捨てているのである。そして、そんな人が非常に多い。

竹宮恵子さんの漫画で、純粋な心を持っているがゆえに、文明社会で生きるのが辛い青年の話がある。彼は、街の中の、虚ろな、死んだような顔の人を見るのが辛かった。きっと、そんな人々はいつもうつむき、前を見て歩いていない。だが、ある時、彼は1人の少女を見て驚愕する。「生きている!あの子は生きている」。彼女は、他の子と違う。生命が息づいていた。
古い漫画で、なんという題名だったか思い出せないが、ホラーもので、その少女も魔の者だったというおちであったとは思う。多分、『少女の魔女があなたの心臓を食べる歌』なんて歌になっている元の漫画のように思う。

本当に、前を見て歩いていない者が多い。人の行動は、心構えを表していることが多い。前を見て歩いていない者は、実際に、人生においても、前を見て歩いていない。
ずっとうつむいて歩いている女子大生と対向して歩いていて、試しに避けずに放っておいたら、本当に真正面ぎりぎりまできてしまったことがある。顔を見ると、きれいな顔をしているのに、知性が全く感じられない薄気味悪い顔だった。
携帯やスマホを見ながら歩いている者は、人生を携帯に渡してしまったと言って良い。この場合の携帯、スマホとは、世間の象徴である。まさに、自分の人生、自分の内面を見ず、世間だけを見ているのだ。世間にひれ伏す者は、自分で生きることを止めたのだ。イエスは、「私は生命を与えるために来た」と言ったが、その意味がよく分かるように思う。だが、現代はもはや手遅れかもしれないのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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