シェイクスピアを高く評価するのは作家で、高度な作家であればあるほど、シェイクスピアを賞賛し崇敬する。
ところが、アメリカの大作家カート・ヴォネガットは「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っていたのだ」という。
なるほど、優れた作家とは、人間をよく知っている作家のことなのだろう。加えて、多少下手かもしれないが、リズムがあって、心を惹きつける物語が書けるのだ。
シェイクスピアのお話自体は、今の時代では、さして面白いものではない。血沸き肉踊ったりしない。現代の刺激的な小説や、映画、漫画などに慣れてしまっていれば、かなり退屈かもしれない。しかし、人間に対する彼の洞察は色褪せない。
SF作家のH.G.ウェルズは、作家も大衆も高く評価する作家だ。
多くの作家が、ウェルズをSF分野に限定せずに大作家と賞賛し、人類規模でベストな作家と断言する者すら少なくはない。
彼の作品は、必ずしも、いつも大スペクタクル(壮観、壮大)ではない。しかし、比較的地味な展開に見えても、これが恐ろしく面白い。ウェルズは、良い作家であると共に、上手い作家でもあるのだと思う。彼の上手さを支えていたのは、科学者で通用するその圧倒的知識で、実際に、彼は科学者と見なされている場合もあり、科学の本も執筆している。無論、一般の人の認識をかけ離れた難しいことは書かないが、科学原理をさりげなく、そして、分かり易く書く才能もあったのだ。
科学に弱いSF作家もいると言うが、それはネタだろう。もし、科学に弱いSF作家がいれば、その作品はやはり安っぽくなる。
優れたSF作家は、ウェルズほどではなくても、やはり科学に精通しているか、少なくとも、深い関心を持ち、それなりの知識があると思う。
アイザック・アシモフは、『アイ、ロボット(われはロボット)』で、陽電子頭脳という、特に意味のない用語を使ったりはしているが、それは話を面白く感じさせるための工夫であり、彼は本物の科学者で博士の学位も持っている。
そして、ウェルズもアシモフも、やはり、人間をよく知っている。
ウェルズの作品は、語り手が物語を語るという形式のものが多い。
語り手は、物語の登場人物の1人を兼ねている場合もある。あるいは、語り手が最初に、おもむろに(落ち着いて)登場し、「私はこんな話を聞いたのだが・・・」として語り始めることもある。
だが、いずれの場合も、語り手は、自分自身のことは最小限に語るに留め、「出しゃばらない」。
ところが、これらの語り手達は、物語の主人公達について、あからさまな批判はしないが、多くの、いや、全ての主人公達は、人間としてどうしようもない欠点を持っていることを、さりげなく、しかし、鋭く描写してしまう。
もとより、欠点の無い人間などはいないが、ウェルズの物語の主人公達は、それを読者に曝(さら)されてしまうのだ。
だから、読者に洞察があればあるほど、人間として成熟していればいるほど、読者は主人公達に同情する。
なぜなら、知恵のある人間ほど、他人の欠点は自分の欠点と認識し、物語の主人公達の欠点を見て、自分を憐れむ気持ちが起こるからだ。
いや、ひょっとして読者が高慢な人間であっても、物語の愚かな主人公達を笑いつつ、どこか、「笑えない」ことに気付くのだ。
だから、ウェルズの作品は、私のような知恵のない人間が読んでも、かなり「痛い」のである。
今の若い人などが、「痛いやつ」「痛い話」「痛い子」「痛車」なんて言い方をよくするが、そのルーツなんてものがあるとすれば、実に、大作家の作品の中にこそあると思う。
ところで、ウェルズの作品でも、一見、主人公達が人格者で、英雄的ですらあるものもある。それは主に、長編の場合だ。
『タイムマシン』、『宇宙戦争』がそうである。
しかし、これらの作品にも、「愚かな主人公」はいる。
『タイムマシン』では未来人で、それは、とりもなおさず、我々人類そのものである。
『宇宙戦争』では火星人だ。強大な科学技術や文明を持ちながら、遅れた後輩に与えられているもの(土地や自然)を取り上げて自分のものにしようとする愚かさ、あるいは、劣った存在であっても、自分と同じ心を持っていることを無視して家畜のように扱う浅はかさである。
優れた小説は現代のバイブル(聖書)である。
その想像力の源泉は、本物のバイブルと同じである。それは人の心の深奥にあるエデンの園(楽園)、エリュシオンで、そこから現れる叡智を、霊感、神の火花、楽園の乙女、ダイモニア(ダイモーン)などと言う。
無論、小説は娯楽として楽しく読むものであるが、少しは、自分の心の奥の痛みにも気付いてあげないといけないのである。
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ところが、アメリカの大作家カート・ヴォネガットは「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っていたのだ」という。
なるほど、優れた作家とは、人間をよく知っている作家のことなのだろう。加えて、多少下手かもしれないが、リズムがあって、心を惹きつける物語が書けるのだ。
シェイクスピアのお話自体は、今の時代では、さして面白いものではない。血沸き肉踊ったりしない。現代の刺激的な小説や、映画、漫画などに慣れてしまっていれば、かなり退屈かもしれない。しかし、人間に対する彼の洞察は色褪せない。
SF作家のH.G.ウェルズは、作家も大衆も高く評価する作家だ。
多くの作家が、ウェルズをSF分野に限定せずに大作家と賞賛し、人類規模でベストな作家と断言する者すら少なくはない。
彼の作品は、必ずしも、いつも大スペクタクル(壮観、壮大)ではない。しかし、比較的地味な展開に見えても、これが恐ろしく面白い。ウェルズは、良い作家であると共に、上手い作家でもあるのだと思う。彼の上手さを支えていたのは、科学者で通用するその圧倒的知識で、実際に、彼は科学者と見なされている場合もあり、科学の本も執筆している。無論、一般の人の認識をかけ離れた難しいことは書かないが、科学原理をさりげなく、そして、分かり易く書く才能もあったのだ。
科学に弱いSF作家もいると言うが、それはネタだろう。もし、科学に弱いSF作家がいれば、その作品はやはり安っぽくなる。
優れたSF作家は、ウェルズほどではなくても、やはり科学に精通しているか、少なくとも、深い関心を持ち、それなりの知識があると思う。
アイザック・アシモフは、『アイ、ロボット(われはロボット)』で、陽電子頭脳という、特に意味のない用語を使ったりはしているが、それは話を面白く感じさせるための工夫であり、彼は本物の科学者で博士の学位も持っている。
そして、ウェルズもアシモフも、やはり、人間をよく知っている。
ウェルズの作品は、語り手が物語を語るという形式のものが多い。
語り手は、物語の登場人物の1人を兼ねている場合もある。あるいは、語り手が最初に、おもむろに(落ち着いて)登場し、「私はこんな話を聞いたのだが・・・」として語り始めることもある。
だが、いずれの場合も、語り手は、自分自身のことは最小限に語るに留め、「出しゃばらない」。
ところが、これらの語り手達は、物語の主人公達について、あからさまな批判はしないが、多くの、いや、全ての主人公達は、人間としてどうしようもない欠点を持っていることを、さりげなく、しかし、鋭く描写してしまう。
もとより、欠点の無い人間などはいないが、ウェルズの物語の主人公達は、それを読者に曝(さら)されてしまうのだ。
だから、読者に洞察があればあるほど、人間として成熟していればいるほど、読者は主人公達に同情する。
なぜなら、知恵のある人間ほど、他人の欠点は自分の欠点と認識し、物語の主人公達の欠点を見て、自分を憐れむ気持ちが起こるからだ。
いや、ひょっとして読者が高慢な人間であっても、物語の愚かな主人公達を笑いつつ、どこか、「笑えない」ことに気付くのだ。
だから、ウェルズの作品は、私のような知恵のない人間が読んでも、かなり「痛い」のである。
今の若い人などが、「痛いやつ」「痛い話」「痛い子」「痛車」なんて言い方をよくするが、そのルーツなんてものがあるとすれば、実に、大作家の作品の中にこそあると思う。
ところで、ウェルズの作品でも、一見、主人公達が人格者で、英雄的ですらあるものもある。それは主に、長編の場合だ。
『タイムマシン』、『宇宙戦争』がそうである。
しかし、これらの作品にも、「愚かな主人公」はいる。
『タイムマシン』では未来人で、それは、とりもなおさず、我々人類そのものである。
『宇宙戦争』では火星人だ。強大な科学技術や文明を持ちながら、遅れた後輩に与えられているもの(土地や自然)を取り上げて自分のものにしようとする愚かさ、あるいは、劣った存在であっても、自分と同じ心を持っていることを無視して家畜のように扱う浅はかさである。
優れた小説は現代のバイブル(聖書)である。
その想像力の源泉は、本物のバイブルと同じである。それは人の心の深奥にあるエデンの園(楽園)、エリュシオンで、そこから現れる叡智を、霊感、神の火花、楽園の乙女、ダイモニア(ダイモーン)などと言う。
無論、小説は娯楽として楽しく読むものであるが、少しは、自分の心の奥の痛みにも気付いてあげないといけないのである。
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