「お前はお前さ」などという言葉を聞いたことがあると思う。
あるいは、「私は私だ」と言うこともあるだろう。
私は、2000年に購入して以来、必ず毎年8月に見るアニメ映画がある。それは、『アキハバラ電脳組~2011年の夏休み~』だ。
制作時は、10年以上未来の話だったはずが、いまや2年過去だ。早いものだ。この分だと、後百年もあっという間だが、それに関しては、私はなんとも思わない。
生きている間は、念仏を唱える限り、必ず恵まれるのだし、死ねば、阿弥陀如来の極楽浄土に行くことが決まっているからだ。
ところで、その映画の最後のあたりで、5人の中学2年生の少女達がこんな会話をする。場所は、大気圏外だ。
「王子様って、何なんやろ?」
「王子様は、お姫様がいるから王子様なんじゃないか?じゃ、お姫様はひばりか?」
ひばりは、黙って王子様が眠るプリムムモビーレ(城砦でもある軌道衛星)を見つめている。
そんなひばりを見ていた、つばめが言う(みんな鳥の名が名前になっている)。
「ひばりは・・・・・・ひばりだよね」
私は私、あなたはあなた、ひばりはひばり・・・
これはどういう意味だろう?
それは、神にそのように造られたという意味なのだと思う。
例えば、私は、異常なまでの人嫌いで、おかげで引きこもり気質で、本当にどうしようもない・・・しかし、これが私なのだ。
これは、神が決めた私の性質で、私にどうすることもできない。
人嫌いは良いことではない。自分でも嫌である。しかし、絶対に治すことはできないのだ。
私は、今は、昼食と夕食は食べず、朝に、ナッツとビスケットを少し食べるだけだが、これは私がそうしているのではなく、やはり、神にそうさせられているのである。ある時期から、そうなるように、神が決めていたのだ。つまり、運命である。
どれほど好ましい性質であれ、蔑むべき卑しい性向であれ、それは、自分の意志と関係なく与えられたのであり、神の意思でなければ変わることはない。だが、神に頼んでも、望むような性質に変えてもらえることはまずないだろう。
そして、自分がそうなら、他人もそうなのだ。
誰かの性格がどんなに気に入らないと思っても、あなたがそれを変えることは決してできない。それができると思ったり、それをやろうとするなど、まさに、神を恐れぬ傲慢さだ。もし、そんなことをすれば、あらゆる災いがやって来るだろう。
自分の性質も他人の性質もそのまま受け入れ、あるがままにしておくことだ。
そうすれば、そのままで必ず平安を得て幸福になるのだ。
受け入れる度合いが大きいほど豊かで強くなるだろう。
そのために、最も良い方法は念仏を唱えることである。
なぜなら、この性質のまま、阿弥陀如来は愛し、慈しんでくれるからだ。阿弥陀如来は、我々が善人になったり、人格者になることなど願ってはいない。ただ、頼って欲しいだけなのだ。助けて欲しいとすがる思いで、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、必ず見捨てずに救うことを、阿弥陀如来は、はるかな昔に約束し、その約束が破られたことはただの一度もなく、これからも決してない。
人間が未来を不安に思うことは、阿弥陀如来にとっては、侮辱というよりは悲しいことなのである。人が素直に頼れば阿弥陀如来は嬉しいのであり、そうであれば、喜んで護ってくれるのである。
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あるいは、「私は私だ」と言うこともあるだろう。
私は、2000年に購入して以来、必ず毎年8月に見るアニメ映画がある。それは、『アキハバラ電脳組~2011年の夏休み~』だ。
制作時は、10年以上未来の話だったはずが、いまや2年過去だ。早いものだ。この分だと、後百年もあっという間だが、それに関しては、私はなんとも思わない。
生きている間は、念仏を唱える限り、必ず恵まれるのだし、死ねば、阿弥陀如来の極楽浄土に行くことが決まっているからだ。
ところで、その映画の最後のあたりで、5人の中学2年生の少女達がこんな会話をする。場所は、大気圏外だ。
「王子様って、何なんやろ?」
「王子様は、お姫様がいるから王子様なんじゃないか?じゃ、お姫様はひばりか?」
ひばりは、黙って王子様が眠るプリムムモビーレ(城砦でもある軌道衛星)を見つめている。
そんなひばりを見ていた、つばめが言う(みんな鳥の名が名前になっている)。
「ひばりは・・・・・・ひばりだよね」
私は私、あなたはあなた、ひばりはひばり・・・
これはどういう意味だろう?
それは、神にそのように造られたという意味なのだと思う。
例えば、私は、異常なまでの人嫌いで、おかげで引きこもり気質で、本当にどうしようもない・・・しかし、これが私なのだ。
これは、神が決めた私の性質で、私にどうすることもできない。
人嫌いは良いことではない。自分でも嫌である。しかし、絶対に治すことはできないのだ。
私は、今は、昼食と夕食は食べず、朝に、ナッツとビスケットを少し食べるだけだが、これは私がそうしているのではなく、やはり、神にそうさせられているのである。ある時期から、そうなるように、神が決めていたのだ。つまり、運命である。
どれほど好ましい性質であれ、蔑むべき卑しい性向であれ、それは、自分の意志と関係なく与えられたのであり、神の意思でなければ変わることはない。だが、神に頼んでも、望むような性質に変えてもらえることはまずないだろう。
そして、自分がそうなら、他人もそうなのだ。
誰かの性格がどんなに気に入らないと思っても、あなたがそれを変えることは決してできない。それができると思ったり、それをやろうとするなど、まさに、神を恐れぬ傲慢さだ。もし、そんなことをすれば、あらゆる災いがやって来るだろう。
自分の性質も他人の性質もそのまま受け入れ、あるがままにしておくことだ。
そうすれば、そのままで必ず平安を得て幸福になるのだ。
受け入れる度合いが大きいほど豊かで強くなるだろう。
そのために、最も良い方法は念仏を唱えることである。
なぜなら、この性質のまま、阿弥陀如来は愛し、慈しんでくれるからだ。阿弥陀如来は、我々が善人になったり、人格者になることなど願ってはいない。ただ、頼って欲しいだけなのだ。助けて欲しいとすがる思いで、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、必ず見捨てずに救うことを、阿弥陀如来は、はるかな昔に約束し、その約束が破られたことはただの一度もなく、これからも決してない。
人間が未来を不安に思うことは、阿弥陀如来にとっては、侮辱というよりは悲しいことなのである。人が素直に頼れば阿弥陀如来は嬉しいのであり、そうであれば、喜んで護ってくれるのである。
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