ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アインシュタイン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

自分を重要視しない者の時代

人間は、病気で苦しいと、仕事がどうでも良くなる。
政治家は世界に興味がなくなるし、経営者は会社のことがどうでも良くなる。
「まさか、そんなことはない」と言う者も多いだろうが、本当に苦しければ、完全にとは言わないまでも、かなりそうなる。
そして、仕事への関心を低減しないと治らないことが多い。

経営者が病気で苦しみ、ある程度、会社への関心を失った時、部下の会社幹部達に、
「私は順調に回復している。会社のことは、お前達を信頼しているので安心している」
と、この時点では、まだまだ心にもないメッセージを送る。
俺が復帰したら、あいつらの不首尾を挽回しなくてはならないという気持ちは、まだある。
ところが、自分が休んでいる間、会社はちゃんと回っていたし、やむなく権限を譲渡した者も、思ったよりうまくやっている。
ひょっとしたら、俺は居ても居なくても、そんなに変わらないのかと思う。
それで、俺の病気は、そのことを俺に気付かせるための、見えない者が仕組んだものではないかと思う。
病に伏している時も、うっすらと、そんなことを考えていたのである。
健康を回復し、仕事に復帰したら、そんなことは忘れてしまうように見えても、人を信用しようという心構えは高まっているのである。

別に、社長でなくても、病気というものは、謙虚さを覚える薬のようなものだ。
自分は、それほどの存在ではなく、この世での役割の一部を担っているだけだ。
不要な人間などいないが、かといって、1人の人間の役割など、たかが知れている。
いつまでも、そう思わないなら、どんどん病気が重くなったり、自由を奪われるトラブルに巻き込まれる。
たとえ、トランプ大統領のような人だって、あまりに自分に固執すると、やはり、この世から取り除かれるが、彼はそうではないと思う。
多くの人が、次の大統領選挙にトランプに出て欲しいと思っているが、彼はむしろ、自分以上にやってくれる人がいることを望んでいるだろう。
次の大統領選では、彼ももう78歳になるが、これは大統領に相応しい年齢ではない。
しかし、次の大統領選で、82歳になるバイデンや、トランプと同じ78歳になるヒラリー・クリントンは出馬する気十分なのである。

伝記によれば、アインシュタインは自分を全く重要視していなかったという。
亡命したアメリカでプリンストン高等研究所に研究員として入る時も、全く高給を要求せず、また、いつもヨレヨレの服を着ていても平気だったし、頼まれたら中学生の数学の宿題も手伝った。
アインシュタインは自分を重要人物と見なしていなかったから、ナチスが自分の首に高額の賞金をかけた時も、あまりピンと来ず平気だったようだ。
そして、ネットの時代こそ、自分を重要視せず、自由に言ったり動いたりする者の時代なのだと思う。








四股こそキング・オブ・トレーニング

アインシュタインがよく歩いたという話を印象的に憶えている。
また、誰だったか忘れてしまったが、ある天才が、「歩いている時に創造的になる」と言ったという話がある。
それで、気になって検索したら、歩くことと優秀であることとの相関関係を示す情報は、思ったより多かったし、本格的な研究でも実証されているように思う。
そのアインシュタインだが、彼はアメリカに亡命後、高給でプリンストン高等研究所に勤務していたが、車を買おうとはせず、自宅から研究所までの、かなりの距離をバスにも乗らずに歩いて通勤していたらしい。
研究所の人達が、アインシュタインに、自分の車に乗るよう勧めても、アインシュタインは断っていたようだ。
だからというのではないが、おそらく人類の経験的に、歩くことは、健康と頭の働きに良いことは、おそらく正しいと思う。

脚の運動をした後は記憶力が上がるという実験を、昔、テレビで見たこともある。
ただ、この場合は、脚の屈伸運動を採用していたが、歩く方が、より記憶力の向上が見られたかもしれない。
老齢でも、よく歩く人は、頭脳が衰え難いことは、だいたい間違いないのではと思う。
しかし、自動車大国で経済大国である日本の、ある意味では良いことなのだろうが、車にばかり乗って、歩かない人が多くなっていると思う。
結果、日本人全体の知性が低下しているかもしれない。
有名なインフルエンサー(西村博之さんのことだが)の動画が面白いので時々見ているが、あの人が、よく人の事を「頭悪いです」「馬鹿です」と言うのは、私はあまり気持ち良く思わないが、それでも、「その通り」と思うことがほとんどだ。ひょっとしたら、歩かないことで、多くの日本人が本当に馬鹿になっているのかもしれない。そして、ある動画で、このインフルエンサーが驚くほど歩くことが分かり、ますます「賢い人は歩く」の確信が強くなった。

脚の運動なら何でも、非常に頭脳に良いというわけでもないと思う。
詳しい話は省略するが、ウォーキング、ジョギング、縄跳びは頭に良いが、スクワットは、別に悪くはないが、いまひとつと思えた。
私は個人的にあまり好きな人ではないが、物理学者で合気道家というより、最近はスピリチュアル方面で有名な保江邦夫さんが著書で、四股で頭が鍛えられるような気がすると書いてあるのを見て、ピンと来た。
四股と言っても、保江さんのは、大東流合気柔術式の四股で、派手に足を上げたり、上げた足を床にどすんと落とすのではなく、膝を曲げたまま適度に上げ、そっと足を床に下ろすのである。
この大東流合気柔術式の四股が、鍛錬においても、頭脳明晰化においてもキングではないかと思う。
私も、2年ほど試行錯誤しながらやってみたが、なるほど、これは凄いもので、全国民がやるべきとすら思い、もしかしたら、歩くよりもさらに良いかもしれない。

ウォーキング、ジョギング、縄跳び、そして、四股にあって、スクワットにないもの。
それは、足が床から離れることで、その浮いた脚の負荷はゼロになる。
一方、スクワットでは、常に体重の半分の負荷がかかっている。
そして、四股の場合は、一時的に、片足に全体重がかかる。そして、腰を落として体重を味わうことに意味があるのだと思う。
アメリカ海軍特殊部隊である名高いネイビーシールズの教官が、腕立て伏せの指導動画の中で、「体重をしっかり味わえ」と言っていたことが印象的だったが、脳は、グラビティ―(重力)を味わうことで活性化するのではないかと思う。
そして、四股で、片足の負荷がゼロになり、片足に全体重がかかり、そして、体重をじっくり味わうという繰り返しが良いリズムになり、身体や脳を活性化させるのだと思う。

私は、四股がすっかり好きになった。
気持ちが良く楽しいからである。
スクワットは、続けるために、やや気力や根性が必要だが、無理にやるとストレスがたまり、心身に悪影響がある。
それで、私はスクワットもやるが、気持ち良い範囲でやることにしている。腕立て伏せもそうである。
それで、もっぱら、四股と腕振り運動をやっている。
これだと、気持ちが良く楽しいだけなので、根性も克己心も必要なく、楽々続いている。

尚、大東流合気柔術式の四股は、『佐川幸義 神業の合気』の中に、写真入りで紹介されているが、実施者がはかまを履いていることや、解説が少ないので、詳細が分からない。
だが、要は、脚を上げる時は、膝を曲げたまま適度に上げ、足を降ろす時は、そっと降ろせば良いのだと思う。
詳しいことは、また書こうと思う。








頭が良い単純馬鹿が一番強い

良い教師やコーチは、生徒や弟子のために、自分は大したことは出来ないことをよく知っている。
自分が指導した生徒が成功したとしても、それはたまたまだ。
逆に、成功した人が、「私が成功したのは師のおかげ」と思っていたとしても、それはほとんど勘違いだ。
アインシュタインは、大学入学試験に失敗したが、1年間、指定の予備校に行けば、試験が免除されて大学に入れるという制度を利用して無試験入学したのだが、その予備校の科学教師の授業が自分に良い影響を与えてくれたと言って感謝していた。それで、アインシュタインは、成功した後で、その予備校教師を訪ねて行ったが、その教師は、アインシュタインを全く覚えていなかった。
その教師の教えを生かせたのは、あくまでアインシュタインの力だが、それだって、何かの偶然の幸運(セレンディピティと呼ばれるようなもの)のおかげであり、それを、アインシュタインは、個人的に好ましく思っていた、その教師のおかげであると勘違いしたのだ。

幸運の扉はどこにでもあり、たまたまそれを見つけてノックすればうまくいくが、同じように、不幸の扉もそこいらにあるのかもしれない。
どうすれば、幸運の扉を見つけられ、不幸の扉を避けられるかというと、精神状態次第だ。
ある種の精神状態にある者は、幸運の扉しか見えない。
しかし、逆に、不幸の扉に行きついてしまうような精神状態というものもある。
そのような精神状態とは、道徳的な善悪とは全く関係ないとは言わないが、それはあくまで二義的で、むしろ、「整っている」か「雑然としている」かの差だ。
だから、一般に、部屋が片付いている人の方が成功しやすい。なぜなら、部屋の中の様子は、頭の中をよく表しているからだ。
サイコパス(脳の欠陥のために良心を持たない人)というのは、意外と頭の中が整っている場合が多い。何と言っても、サイコパスの特徴は善悪に関係なく「割り切り」がうまいことだから、案外に心が整っているのだ。
早い話が、頭が良くても単純馬鹿が、一番成功する。
アインシュタインは、自分を本当に単純馬鹿と思っていたらしく、「エレベーターの操作のような難しいことは自分には無理」と言って、学歴のない2度目の奥さんにまかせっきりだった。

人間の思考が複雑になる原因は、潜在意識の中にゴミが多いことである。
頭が良くても、潜在意識の中にゴミが沢山あると、愚鈍に陥る。
それで、「あんな賢い人が、あんな馬鹿なことを…」ということになるのだ。
そして、実を言うと、潜在意識の中のゴミが少ない者が、本当に頭が良いのである。
潜在意識の中にゴミが少ないと、抽象化や概念化の能力が高まる。
潜在意識の中にゴミがあると、どうしても、そのゴミにぶつかって思考が止まり、モノを、そのモノの通りにしか見れない・・・つまり、抽象化や概念化が出来なくなる。
例えば、電圧の勉強をする時、「例えば水圧のように」といった、例え話で抽象的に理解出来るのは、潜在意識の中のゴミが少ない者だ。
そして、イエス・キリストは例え話の達人だった。
だから、イエスの言動がうまく書かれた福音書を読むと、潜在意識の中のゴミが消えて、抽象化がうまくなる。
旧約聖書や仏典も、やはり、そのような作用がある。

だが、最も手軽に潜在意識の中のゴミ(潜在意識の中のストレス)を消せるのは、やはり、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」だと思われる。
ロイド博士自身も、「ヒーリングコード」と聖書に矛盾がないことを確認したと言うが、もちろん、「エネルギー療法」も同じと思う。
「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」で、潜在意識の中のストレスが癒され、結果、心が整うと、直観が高まり、知性が向上し、心身が健康になると考えられるのである。そしてさらに、願わずとも幸運に恵まれたり、超能力を発揮することもあると思われる。








2種類の賢い人

今日(10月31日)はハロウィンで、ハロウィンとは何かと言うと、一般的認知ではオバケの仮装をする日だ(笑)。
ハロウィンはキリスト教とは関係がない。
最も簡単には、ハロウィンはケルト人の大晦日(1年の終わり。年の暮れ)である。
ところが、ケルト人とは何かという定義は難しい。
ところが、ところが(笑)、ケルト文化という確固としたものがあり、自分はケルト人だという強いアイデンティティーを持つ人は少なくないと思う。
そして、ケルト文学、ケルト音楽、ケルト神話、その他ケルト式の様々な工芸、芸術などのケルト文化があり、それらは愛好者が多く、実のところ、私も大好きである。まあ、あまり詳しくはないが。

私がハロウィンと聞いて、すぐ思い出すのは、レアード・コーニクの小説『白い家の少女』(1974)で、1977年に、当時14歳だったジョディ・フォスターの主演で、この小説にほぼ忠実に、カナダ、フランス、アメリカの合作映画が作られ、1977年に公開されている。
『白い家の少女』は、小説も映画も、リンという名の少女(映画ではジョディ・フォスターが演じた)の14歳の誕生日から始まるが、それが、10月31日のハロウィンの日だった。
イギリスから、作家の父親と共に移住してきたリンは、ハロウィンの習慣を知らなかった。
まあ、イギリスといい、アメリカ、その他の国といい、ハロウィンのイベントやパーティーの習慣のある場所もない場所もあり、当時は、インターネットなどない、世界事情はテレビや書籍でしか知ることが出来なかった時代である。

リンは、美少女という以外は、外見は普通だが、普通の少女・・・いや、少年も含め、普通の14歳とはかなり異なるところがあった。
それは、彼女が聡明だということだが、それは、学校の成績が良いなどといった意味ではなく、もっと根本的な意味でだ。
高名な作家であるリンの父は、高い知性を持っていたと思われるが、リンも遺伝的に頭が良いのだろう。
だが、それだけではない。
リンは学校に行っていなかった。
それは、父親がそうしたのだと思われるが、父親は、リンにその理由を話し、リンもそれを十分に納得していた。
リンのように賢い子にとって、学校は、害悪でしかない。
いや、別に賢い子でなくても、学校は、害の部分の方が大きいのだが、賢くない子にとっては、学校に行くのは、やむを得ないことかもしれない。
そして、リンの父親は、リンに学校が必要ないということ以上に、リンが学校に穢されて欲しくなかったのだろうし、今や、リン自身がそう思っている。

岡本太郎は、小学生の時、授業中、両耳を堅く両手で塞ぎ、自分の崇高な頭脳に、穢れた教師の言葉が入って来ないようにしたと言うが、リンは、両手で耳を塞ぐ以前に、学校に行かなかったのだ。
リンも岡本太郎も正しい。
馬鹿以外は、学校に行くべきではない。
学校に行けば(正確には学校に馴染めば)馬鹿になることは確実である。
アインシュタインも授業を聞かず、教師に返答を求められても黙っていたという。

そして、リンや岡本太郎やアインシュタインのような、賢くて個性的な子供を、大人は許さない。
学校は、彼らを徹底的に攻撃し、改造しようとする。
岡本太郎やアインシュタインは、それで苦しめられたが、リンの父親は、リンを、そんな目に遭わせたくなかった。きっと、自分がそんな目に遭ったのだろう。
そして、リンに「大人と戦え」と言ったのだ。「負けるな」ともね。
しかし、それは無謀というもので、リンは、いろいろ大変なことになってしまう。

リンの父やリン、そして、『白い家の少女』という作品には、欠けていることがあるのだ。
それは、高次の力・・・一般的には、神の力の活用法だ。
リンも、リンの父も、『白い家の少女』の作者も、そんなものに頼りたくなかったのかもしれない。
しかし、仮に天才としても、1人の人間の力など、たかが知れている。
岡本太郎もアインシュタインも、「高い力」のことは十分に認め、そして、助けを得ていたのだと思う。
レアード・コーニク(Laird Koenig)は、Wikipedia(英語版)によれば、94歳で存命のようだ。








一番賢い人

「謙譲の美徳」ほど良いものはない。
しかし、「謙譲なフリ」はいくらでも見られるが、本物の謙譲を見ることは、まあ、滅多にない。
謙譲とは、謙遜のことで、遜(へりくだ)ることである。
とても偉い人が、自分は全く偉くないという態度を見せれば、誰もが、その人物を本当に偉いと感じるが、見せかけだけでそうすれば、そいつは、実は大したやつじゃないと分かってしまう。

アルベルト・アインシュタインの人格が美化されていると言われることもあるが、おそらく、彼は、本当に自分を重要人物だと思っていなかったと思う。
その意味では、彼は、大変な謙譲の美徳を持っていたわけだ。
彼のエピソードには、快いものが多い。
彼は、物理学者としての自分について、「趣味で物理学を続けてきたが、別に大したものじゃない」と手紙に書いていたことがあったらしい。
アインシュタインは、ドイツからアメリカ亡命後、プリンストン高等研究所の研究員になった。
ところで、プリンストン高等研究所に入る際の給料額の交渉の時、希望額を聞かれたアインシュタインは「500ドル」と言い、相手に、「月500?それでは少な過ぎませんか?」と言われると、アインシュタインは「いえ、年です」と言ったという話がある。
この話には、別バージョンがあり、研究所では元々、アインシュタインに年棒2万ドル(当時では超高給だ)を用意していたが、もっと高い額を希望しているかもしれないので、アインシュタインに希望額を聞いたところ、アインシュタインが「1000ドル」と言い、あまりの安さに担当者が「え?!」と驚くと、アインシュタインは慌てて「いえ、500だっていいんです」と言ったらしい。
別に、アインシュタインが、天才にありそうな、お金の計算が出来ない人だったわけではない。彼は、本当に、あまりお金を必要としていなかったのだ。
彼は、自動車を所有せず、研究所までの何キロもの道を、毎日、バスにも乗らず、歩いて通っていた。自動車通勤する職員がアインシュタインに同乗を勧めても、アインシュタインは応じたことがなかった。
また、ある母親が、中学生の娘が、近所の数学の先生に宿題を手伝ってもらっていたと知り、誰かと聞いたら、アインシュタイン博士だと聞いて卒倒しかけたというが、アインシュタインは、全く当たり前にそんなことをするのだった。
アインシュタインは、自分の頭が良いとも思っていなかった。
エレベーターの操作を妻に聞いた時、
「お前がやってくれ。私が難しいことは一切苦手だって知ってるだろ?」
と言ったという話もある。
ちなみに、彼の妻(再婚の妻)は、高校も出ていなかった。
洗濯石鹸でヒゲを剃っていた理由は、「2種類の石鹸の区別が出来ない」からだった。
与太者とも仲良くし、お金を乞われると、大らかに渡し、妻には怒られたが、アインシュタインは、別に、間違ったことをしたとは思っていなかった。「自分のものは人のもの」だったのだ。
彼が、エネルギーと質量を区別せず、重力と加速度を区別せず、時間と空間と重力をどこかごっちゃにしていたのは、まさに、自分と他を区別していない発想から来ていたように思う。

荘子が言っている。
「最も賢い人は、区別をしない」
「次に賢い人は、区別はしても、優劣をつけない」
アインシュタインは区別をしない人だったのだ。
なら、我々は、せめて、「優劣をつけない」のレベルを目指したい。
それが、「自分を偉いと思わない」ことだ。

私は、あるホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたら、奇跡が次々に起こった(1憶円が2回当たったことも含む)理由は、この言葉を唱えると、区別が消えるからだと思う。
神様の前では、人間なんて、どれも大したことはない。
いかにホームレスとはいえ、やっぱり、自分は偉いと思っている。それがなくなる。
そして、さらに延々唱えると、一切の区別が消える(これはやや複雑だが、自我が消えると共にトランス~変性意識~に入る)。
奇跡のメカニズムが分かったように思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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