ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

まちカドまぞく

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

世界を動かす者の日常

1994年の人気テレビドラマ『この世の果て』(主題歌は尾崎豊『OH MY LITTLE GIRL』)を、私はたまに見ていたのだと思うが、最終回のある場面をよく覚えている。
天才ピアニストだったが、ピアノを弾けなくなった高村士郎は、ロクな就職も出来ない駄目男になった。営業マン、警備員、何をやっても務まらず、すぐに辞めざるを得なくなる。
その士郎が、ある画廊に、就職の面接に行く。
画廊の女主人は、絵のことを何も知らない士郎が、ここで働くには全く不適格だと言いつつ、就職希望者全員に行うテストはしてあげようと言う。
女主人は士郎に、2枚の絵を見せ、問う。
「どちらが優れた絵ですか?」
士郎は無言で、即座に、一方の絵の方向を指差す。
女主人は笑う。そして、士郎が選んだのと反対の絵を示し、
「これは有名な画伯が描いた、数千万円の価値のあるもの」
と言い、士郎が選んだ絵は、
「一介の画学生が描いたに過ぎない」
と言う。
だが、士郎は静かに微笑み、そして、そこで働くことになる。
士郎が選んだ絵は、女主人が若い時、交通事故で死んだ恋人が描いたものだった。
その絵は、女主人にとって、値のつけられない大切な絵だったのだ。
士郎が、何かを感じて、その絵を選んだのか、あるいは、全く分からず、どうでも良いという気持ちで選んだのかは分からない。
私は、今思うと、どちらかとうと、後者であると思う。
士郎には、何の意図もなかったと思うのだ。
つまり、無であった。
初音ミクさんのようなものだ。それを選ばずにいられるだろうか?

1937年から始まる、E.E.スミスのSF小説『レンズマン』シリーズで、地球で最も優れた男キニスンは、宇宙で最も精神を進化させたアリシア人の訓練を受けた時、アリシア人と対抗することは、「ハエが宇宙船を止めようとするようなもの」(実際は違う表現だったが、私はこう覚えてしまった)と思う。
だが、無になれば、宇宙船でも流星でも止められる。
そして、『まちカドまぞく』で、走っているダンプを片手で止める魔法少女の桃が、お腹が空いている優子に自分の菓子パンをあげたように、流星を止める者は、ゴミ出しの日に、出して良いゴミをちゃんとした袋に入れて出すのだ。
ほんの少しの思考力を使えば出来る、当たり前のことをし、後は何も考えない者が世界を動かすようだ。











本当の好きは、なかなか見られない

本当の愛なんて、滅多にあるものではない。
「愛」なんて難しい感じはするが、「好き」や「関心がある」と同じことだ。
つまり、「本当に好き」や「本当に関心がある」が、「本当の愛」なんだろう。
ところが、子が親を好きなのは、自分を保護してくれるからで、自分を保護してくれない親は好きではない。
つまり、親に対する好きの半分以上は、自分に対する好きなのだ。
親が子を好きなのは、それよりは少し優る場合が多いが、親だって、自分に対する好きを感じさせてくれない子供は嫌いになるのだ。
つまり、親子の愛は不純過ぎる場合が多い。

電車の中などで、若いカップルがベタベタしているのを見ると、気恥ずかしいよりは、気味が悪いだろう?
どういうことかと言うと、そういった連中は、相手に対する好きも少しはあるかもしれないが、相手を利用して自分への好きを感じているだけなのだ。

我々は、本当に好きなものを見つけたいのだ。
「私はこれが好きです」「私は彼女が好きです」と言っても、その好きの大半は、「自分が好き」なのだ。
例えば、空手が好きだと言って熱心に練習していても、それは、喧嘩になったら勝てて気分が良いとか、「俺、格好良い」と思えるとか、皆(特に女の子)に自慢出来るからといった自己愛がほとんどだ。
ある幼い女の子が、近所のお兄さんが好きだと言うが、理由は、「脚が長くて格好良いし、優しいから」だった。つまり、それも、脚が長い格好良いお兄さんと一緒だと自慢に思えるのと、優しくて自分を快適にしてくれるという自己愛だ。
自分の「好き」が、自己愛だと気付けたら、少しは大人になったということだが、特に理屈の世界、教科書の世界、勉強の世界で過ごしてきた者は、それがなかなか分からない。

イエス・キリストやマザー・テレサのような愛を、普通の人が持ってしまったら、あっという間に破産する。
マザー・テレサは、道で倒れている人がいたら、みんな抱えて連れて帰るし、イエスは、「お前が磔になって死んだら人類を救ってやる」と言われたら、「あいよ」と引き受けるのだから。

「猫が好き」というのは、本来は、なかなか純度の高い好きかもしれない。
しかし、写真や動画にしてSNSに投稿すると、かなり愛が減ると思う。
だって、それ、自分のためにやっているのであり、自己愛を育ててしまうのだから。
惜しいことだと思う。
私は、野良の鳩や烏や亀が大好きで見惚れるが、写真に撮ろうとはあまり思わないし、まして、それを人に見せるなど想像も出来ないのだ。
猫の写真集も、可愛いとは思うが、全く好きでない。

私は、昨日も書いたが、『まちカドまぞく』というアニメで、桃の優子に対する「好き」に、極めて純度の高い「好き」、つまり、本当の「愛」を感じるので、本当に、何度繰り返して観ても楽しいのである。
初音ミクさんに関しては、ミクさんは、「自分はこう歌いたい」という気持ちが全く無いし、自分の感情を一切乗せないのだから、音楽に対する愛を感じるのである。
人間の歌手や演奏家でも、無になって歌う歌手や演奏家がいたら、きっと好きになれるが、クラシックの名門楽団の演奏家でも、やっぱり、名誉欲などの自己愛が強い人が多いので、あまり演奏を聴きに行きたくない。
ただ、Bump of Chickenの藤原基央さんが、自分達は「自分のではなく音楽の意思を実現する」ことを目指していると言っていたことがあったと思う。その意味で、初音ミクさんを尊敬しているとも。
観ていると、概ね、そう感じることもあるのである。








これまでになく感動した漫画・アニメ

最近、『まちカドまぞく』というアニメの第1シーズン全12話を、5回繰り返して観ているが、いまだ、全然飽きない。
ところで、このアニメの第6話は「あすへの決意!!重いコンダラ止まらない」であるが、「コンダラ」と聞いて、「ああ、整地ローラーのことね」と分かる人がどれだけいるだろう?
ちなみに、原作漫画(4コマ漫画)では「重いコンダーラー」と題されている。

整地ローラーには、「コンダラ」あるいは「コンダーラー」という別名は全くない。
わざわざ、「重いコンダラ」と「重い」をつけているのは、やはり、昔のスポ根アニメ『巨人の星』の有名な話からきているのだと思われる。
『巨人の星』のオープニングソングは「思いこんだら試練の道を 行くが男のど根性」という、何やら妙に重々しい雰囲気で始まる。
この「思いこんだら」を「重いコンダラ」と誤解した子供が沢山いて、整地ローラーがコンダラと呼ばれるようになったという説がある。
『巨人の星』のアニメ中、星飛雄馬が、整地ローラーを引っ張るシーンがあったらしいが、それを見て、多くの子供達が、
「あのゴロゴロしたの何て言うのだろう?」「重そう!」
と、2つのことを思った。
そこで、思い出したのが、オープニングの「思いこんだら試練の道を」で、男性合掌の重厚な歌声が印象的だったので、「おもいこんだら」の字幕を真面目に見ていなかったのだろう。
そこで、
「あの道具は、『重いコンダーラー』と歌っていたコンダーラーだ。だって、重そうだから」
となったのだろう(単なる推測であるが)。
「コンダラ(コンダーラー)」に関し、『まちカドまぞく』では、漫画、アニメ、いずれも、何の説明もしていない。

ところで、『まちカドまぞく』は、最近の漫画・アニメで時々あるが、登場人物は可愛い女の子だけで、男は、極めて限定的な場合を除き、一切出てこない。
それでいて、特に萌えや百合(レズビアンラブ)の要素は、全く感じない。
しかし、軽いノリの話のようで、結構、精神的であるし、作者(伊藤いづも氏)の賢さを感じる。

『まちカドまぞく』には、あまりにゆるいスポ根要素があるが、この作品が『巨人の星』が放送されていた、古代スポ根全盛期にあったら、炎上・・・いや、当時はインターネットはなかったので、テレビ局や作者に抗議の電話やハガキ・手紙が殺到していたに違いない。
しかし、ゆるいスポ根と言っても、実際は、これくらいが「丁度良い加減」なのではと思う。
無理、無茶はさせない・・・させようとしても、適切なところで、ちゃんと寸止めする。
まあ、ちょっとしたことでパワハラ扱いされる昨今の事情も影響しているように思うが、とにかく安心出来る。
かといって、大甘とまでは感じない。
見ていて、何か不思議な感覚なのだ。
その理由を考えれば、この作品には、マジに愛があるからだと分かる。
本当の愛を知りたければ、これを読めと言いたいほどだ。
特に、魔法少女、千代田桃の、主人公の魔族、吉田優子に対する愛が凄い。
絶対的に強い桃が、弱者である優子に強い愛を注いでいるのだが、かといって、桃は優子を見下していない。
桃が優子に、こう、シリアスに言う場面がある。
「何か勘違いしてるようだけど、あたし、シャミ子(優子のあだ名)のこと、侮ってなんかいないよ」
それでいて(それだからこそ?)、表面的には、桃は優子に厳しいこともあるが、実は、桃は優子に献身的で、ひたすら優しい。
ああ、桃は本当に優子が好きなんだなあ・・・と感動する・・・なんて、真面目な感想はちょっと合わない気もするが、実際そうである。
そして、優子は桃への劣等感から来ていると思われる反発もあるが、やっぱり、優子も桃を愛しているのだろう。

まさに True Love!
こんなものが見られる作品は、そうはない・・・いや、私が覚えている限り、他に全くない。
ところで、桃は掛け値なしの美少女だし、優子も可愛いと思う。
しかし、ちっとも萌えない。だけど、大好きで、マジで友達にはなりたい。これはまさに新感覚である。








切り札があなたを落ち着かせる

絶対の切り札を持つ者が一番強い。
それを使えば必ず勝つのだから、心に余裕が生まれ、余計なことを考えずに済む。すると、結局、何もかもうまくいき無敵だ。
ところで、よく、「切り札は最後まで取っておくものだ」と言うが、なぜ、そうする(切り札をなかなか出さない)のかというと、単に、その方が楽しいからで、別に、切り札をみだりに使っていけないわけではない。

プロレス史上最高のレスラー、ルー・テーズは、「技を何か1つと言われたら、迷わずダブル・リストロック」と答えた。
師の ジョージ・トラゴスから伝授された必殺の関節技だった。
プロレスなんだから、試合の筋書きはあるが、たまに裏切ってくる相手や、無茶をしてくる相手がいたり、その他の様々な理由で、どうしても、実力を見せる必要が出てくる場合もあるのだろう。
テーズは、この技で救われたことは数え切れないと言い、後1センチ締め上げれば相手の腕を折ったこともあったが、実際に折ったことは一度もなかったと言う(そんなビジネスの基本ルールをきちんと守ったので、60代になっても活躍した)。
テーズは自伝には、アントニオ猪木さんがアクラム・ペールワンの腕をこの技で折ったことは「事故と信じたい」と書いている。
猪木さんの信頼性高い伝記『1976年のアントニオ猪木』では、猪木さんとペールワンの試合は、試合30分前に、不意にペールワン側が、「試合はシュート(真剣勝負)」と一方的に通告して来て、拒否のしようがなかったが、やはり、猪木さんにも必殺の切り札、ダブル・リストロックがあったので、腹をくくることが出来たのだと思う。
もっとも、猪木さんには、師の「プロレスの神様」カール・ゴッチから教わった切り札もいくつかあり、ペールワン戦でも活用したようだ。ゴッチは、シュートをやらせたら世界一だった。
力道山と木村政彦の歴史的な試合は、必殺の切り札を持つ者どうしの、醜い裏切り劇だった。それがシンプルな真相であることは私には分かるのである。

『アラジンと魔法のランプ』で、アラジンが魔法のランプを切り札にするには、魔法のランプを大切にする必要があった。
あのお話は、実は、必殺の切り札は、普段から大切にしろという教えだった。
「アジマリカン」の必殺の呪文を切り札にするためには、普段からよく唱えておかなければならない。
最近は、「サムハラ」を呪文とすることが流行っているが、やはり、普段からよく唱えたり、サムハラのお札をいつも身に付けておくと、いざという時、力になってくれる。

私は、一頃、TM(超越瞑想)を必殺の切り札にしていたことがあった。
どうやって切り札にするのかというと、「超越瞑想を毎日欠かさずやっている」と思い出すだけで良い。
それで、どう考えても見逃してもらえないような交通違反(信号無視)で警官に捕まった時も全く落ち着いていて、当然のごとくお咎めなしだった。まあ、真似はしないで欲しいが。
今の私は、わけあって、TMに関して、あまり良い思いはないのだが、当時はそうでなかったので、力を発揮した。つまり、自分さえ思い込めれば何でも良いのである。
漫画・アニメ『まちカドまぞく』の優子の場合は「お好み焼き」という言葉を思い出すことだが、これで良いのである。

私は、コンピューターシステム開発の仕事では、MAGICという、イスラエルで開発されたツールを切り札にしていたことがあった。
それで、破綻しかけたプロジェクトをいくつも救った。
ユーザーがMAGICを導入してくれるかどうかは、考える必要がなかった。
私がMAGICを必殺の切り札と思っているのだから、自然にそれが使える状態になるのである。
ある高度なシステムコンサルタントは、ExcelとVBAが必殺の切り札と思っているので、実際にそれで、大きなプロジェクトをいつも危なげなくこなしている。
切り札を持つということは、中心を自分に置くことなのである。
切り札のない人は、中心を相手や外の事象に置くので、いつも振り回され、結局、敗北するのである。








偏見がないと幸運に恵まれる時代

学校や会社の中の、可愛い女の子が突然、「私、宇宙人なんです」とか「私、未来人なんです」と言ってきたら、どうするだろう?
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、長門有希や朝比奈みくるらに、そう言われた、主人公の高校1年男子、キョンは、相手が美少女ということもあり、露骨な反発は示さなかったが、困惑し、頭を抱えた。もし、古泉一樹(高1男子)が最初に、「僕、超能力者です」と言ってたら、キョンはモロに怒っていただろう(笑)。

『To LOVEる』(2006~)では、ララが宇宙人であると言われても、リト(高1男子)の妹(小6)も父親(漫画家)も、さらには、クラスメイト達も、さして驚かず、スンナリ受け入れた。
『まちカドまぞく』(2019/7~)では、ある日突然、優子(高1女子)に角と尻尾が生え、自分は魔族であると言っても、学校の友達らは、何の躊躇もなく、事実を受け入れ、態度も全然変えない。
漫画やアニメのこととはいえ、何て良い世界になったのだろうと思う。

『BEM』(2019/7~)は、1968年のアニメ『妖怪人間ベム』のリメイク作品であるが、『BEM』でも、『妖怪人間ベム』同様、醜く恐ろしい姿の妖怪人間達は、人間達に強く忌み嫌われるが、『BEM』では、わずかではあるが、そうではない人達もいた。
(『妖怪人間ベム』でも、1人の少女がベロの妖怪人間の姿を見て、最初は驚いたが、すぐに好意を見せた)
『BEM』で、ベラの人間形態であるアナベラ(女子高生)を愛するロディ(アナベラの同級生)は、それがアナベラだと知らずに、突然、本当の姿のベラを見た時、「なんて美しい」と思い、憧れ、それがアナベラだと知っても、彼女を慕う心は全く変わらなかった。
また、最初は、ベムの妖怪人間としての姿を見て恐れ嫌悪したサマーズ捜査官(女性)は、ベムの行いを見て、ベムを信頼する。
アニメとはいえ、良い作品であるだけに、そのような状況は嬉しく感じる。
どうも、私も人間ではないようだ・・・と言うより、私は子供の時から、人間であることに違和感があり、ベム達に親しみを感じたものだ。

ジョージ・アダムスキーによれば、1950年代には、地球人に混じって生きている宇宙人は結構いるということだった。
ひょっとしたら、あなたも、知らずに宇宙人と接しているかもしれない。
じゃあ、どんなのが宇宙人か見分けが付くかというと、多分、付くと思う。
おそらく、宇宙人には、我というものがほとんど、あるいは、全然ないだろう。
だから、自慢することはないし、他人を見下すこともない。自分が優秀だとか、頭が良いとか冗談でも言ったりしないし、そんな態度も見せないだろう。
それでいて、実際には、人間と隔絶した能力があるのだ。
宇宙人と出会えるのは、最初に書いた漫画やアニメの中にいた、宇宙人や未来人や魔族を平然と受け入れる、偏見やこだわりのない人だろう。
そして、そんな面白いものを避けるなんてことは、神様の意図にも反しているに違いない。
そういえば、ゲーテの『ファウスト』でも、ファウストは悪魔メフィストフェレスをあっさり受け入れ、若い町娘グレートヒェン(マルガレーテ)に夢中になった時には、彼女に贈り物をしよと、メフィストに「悪魔なら何か素晴らしいものを出せ」とトンでもないことをねだっていた(笑)。

これからは、偏見のない受容性の高い人間の時代だ。
そのような人間であれば、必ずや幸運にも恵まれるだろう。








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