ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

まだらの鳥

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

天使のささやき

いつも見ていて、存在を意識しなくなった物とか場所とか風景が、不意に美しく輝いて見えるという経験があるだろうか・・・というより、ないはずがないのだから、それを憶えているだろうかと問い直すべきだろう。
たとえば、心から嬉しいと思う出来事があった時に、何もかもが美しく輝いて見えるということがあると思う。
あるいは、朝早く起きて、頭がまだぼーっとしている時に見ると、見慣れたものが、何か非常に生き生きとしていると感じるかもしれない。

そんな美しさを、皆、忘れてしまい、普段は気にも止めない。
その重要性に気付きもしないのだ。
「アラビアのロレンス」で知られるT.E.ロレンスは、自叙伝であり、自分の戦記である『知恵の七柱』で、朝、思考が戻って来る前に見た砂漠の圧倒的な存在感を語っているのを、コリン・ウィルソンが『右脳の冒険』で引用していたが、ウィルソンも、その価値に気付いていたのだろう。
だが、ウィルソンは、それの起こし方を明瞭に言うことは出来なかったように思うのだ。

その「経験」を最も鮮烈に語っていると私が思ったのは、「20世紀最大の詩人」と呼ばれた、アイルランドの詩人・劇作家W.B.イェイツの未完の書『まだらの鳥』の中で、イェイツが自分を投影した主人公マイケルが、船の甲板の上で見た、湖の上に浮かぶ精霊の少女の記述だった。
翻訳で読んでも、私は、その美しさに圧倒された。
たとえば、空気が澄み切り、その少女の服のひだの1つ1つが鮮明に見えた・・・といったことも書かれていた。

だが、そういったものは、その気になれば、いつでもどこでも見ることが出来るのである。
そして、それを見ている状態が、時間が消え去った今で、そこでは、人間が隠し持った力を解放し、世界の創造主になるのだと思える。

そのやり方を、とりえず簡単に言えば、「思考、記憶、観念のフィルターを通さずに見る」だけである。
言い換えれば「直接的(ダイレクト)に見る」ということだ。
いや、いきなりこう言われたら、誰でも戸惑うかもしれない。
それで、超能力者達は、「凡人に分かることではない」と言うのだが、これは、凡人とか天才とかではなく、人間にとって最も重要なことだ。
これを忘れたから、人間は虫けらの状況にまで陥り、世界は腐敗して滅ぼうとしているのである。
いつも見ている、壁や、家具や、畳や、床も、思考のフィルターを通さず、新たな目で見れば、ロレンス流には「意味が流れ込んで来る」ような、不思議な、そして、間違いなく魅力的な何かを感じるのである。
それを、昔の人は「天使がささやいた」と言ったのかもしれない。
もう少し考えて、よく分かるように書こうと思う。
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未熟者の最後の手

人間の能力に関する真理・・・いや、宇宙の真理を一言で言えば、
「無になれば不可能はない」
ということだ。
そして、無になるとは、自我・・・早い話が心を消すことだ。
ただし、それは、眠っていたり、失神している状態ではない。
それどころか、「〇〇さん」と呼びかければ、「はい」と返事をするし、「ご注文は?」と尋ねれば、「カフェオレを」と答えもする(ただし、そうでない場合もある)。

自我がある状態が薪(まき)なら、無(無我)の状態は灰だ。
なら、薪が燃えれば灰になるように、自我を燃やせば無我になる。
自我を燃やす方法は、よく知られており、どれも間違いではない。
例えば、念仏を唱える、真言を唱える、坐禅を組む、断食をする、滝に打たれる・・・などだ。
ただ、無我になるまでに命を落としてしまう可能性がある危険な行をやる時は、ちゃんとした指導者の下でやらないといけない。
念仏を唱えていれば、いつかは無になる。
しかし、普通の人は、薪にたとえれば、水分が多い薪なので、なかなか燃えて灰にならない。
それでも、粘り強く燃やしていれば、いつかは燃えて灰になる。
つまり、粘り強く念仏を唱えれば、いつかは無になる。
しかし、我の強い未熟な心の場合、何十年もかかってしまう可能性が高く、無になる前に命が尽きることもあり得る。
そこで、早く、燃える乾いた薪のような自我にするために、「嫌いな人の機嫌を取る」「嫌いな人に従う」「耐え難きを耐える」などが効果的で、これはまさに、社会で文句を言わずに真面目に働くことであるから、立派に働くことが、いかに効果的かが分かる。
まあ、実際は、ある程度、しっかり社会で働きながら、念仏を唱えるなどをするのが良い手である。
しかし、そんなの、まっぴらだという人も多いだろう。
そう思うことがまさに我の心で、それこそが、無になる最大の邪魔者であるのだが、嫌なものは仕方がない。
そこで、W.B.イェイツの自伝的小説『まだらの鳥』に、少年時代のイェイツを投影した少年マイケルが、短い期間で無になった方法がある。
それは、食事を出来るだけ摂らないことだ。
とはいえ、これをそのままやるのは健康上良くないので、無理のない範囲で少食にし、その上で、何か行をすれば良いだろう。
度々、引用する、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えたホームレスは、元々、沢山食べるお金もないので、あまり食べずに、その言葉を唱えたから、わずか2週間で無になれたのだろう。
本当は、強制的に少食にさせられるより、自主的に少食にする方が効果があるが、そのホームレスは、本当に1日中、その言葉を唱えたから上手くいったのである。
だから、その気になれば食べられるのに、自分の意思で食べずに行に励めば、より早く達成出来るかもしれない。








「ありがたい」と言うと奇跡が起こる訳

「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツの未完の自伝的小説『まだらの鳥』で、イェイツ自身を投影した主人公マイケルが、マーガレットという名の絶世の美少女に対し、興味深い考えが浮かんでいる。
「美しいのも限度を超えると、憐れみを感じる」
なるほど、一度は言われてみたい言葉だ(笑)。
だが、これは、日本的、あるいは、日本語的感覚である。
と言うのは、古い日本語では、「可愛い」は「かはゆし(かわゆし)」で、「かはゆし」というのは「いたはしい(いたわしい)」気持ちを表す言葉であるが、「いたはしい」は辞書によれば「深く同情が起こるような、気の毒な有様だ。いたましい。」という意味だ。
確かに、過ぎた美しさを「いたいけ」と言うものである。
つまり、イェイツは、マーガレットが可愛いのであり、そのマーガレットは過ぎた美しさを持っている。
日本は「可愛いの国」と言われるらしいが、日本では、「可愛い」が最強で「美しい」より上なのである。

日本は可愛いの国である・・・というより、可愛いを崇拝する国だ。
これは、とても良いことだ。
可愛いは美しいを超えるのである。
日本語で、可愛いを一文字で言えば、「幼い、愛らしい」を意味する「乙」となり、乙女、乙姫などと言えば、「幼くて愛らしい女」「幼くて愛らしい姫」であるが、この「幼い」もまた、「愛らしい」という意味で使われることが多く、必ずしも年齢的な幼さを言うものではない。

「乙」がなぜ可愛いのかというと「2番目」という意味があるからだ。「乙種」が「第2種」を意味する通りだ。
つまり、一歩引いており、日本では、そんな態度が可愛いのである。
今では「甲乙」とよく言うが「乙甲」と書いて「めりかり」と呼び、これは「まぶしい低音」を指し、2番目の乙は、実際は1番の甲を超えるのである。
私は全く知らないが、フリーマーケットアプリの「メリカリ」は、「乙甲」の言霊を当てたのかもしれない。
「乙」に比べると、「若」は、「少ない」という意味で、「若い」は「少ない歳」ということで、別に悪い意味ではないが、「若」は「じゃく」と読む通り「弱い」という意味があり、「少し」という意味と合わせ、称賛の言葉ではないように思う。

急に日本語談義をやってしまったが、とにかく、日本の言葉には言霊が宿り、1文字1文字が極めて重要である。
日本語を大切にするだけで、自然と調和し、霊的な力に護られ、一芸に秀で、好ましいものを引き寄せ、健康で幸福になれる。
一方、そんな日本では、言葉をぞんざい(投げやりで乱暴)に扱うことの反作用が恐ろしいのである。
日本で、うまくいく人、楽をしている人、恵まれた人というのは、間違いなく、言葉を大切にしている。
特に能力が高いとは思えないが、指導的立場にある人に注意すると、ある時期から日本で流行りの省略語を徹底的に使わない人だったということがある。
これは、言葉をとても大切にしていることである。
省略語を聞いて、良い感じを持ったことは、確かに一度もない。
もしかしたら、省略語は、DS(ディープステート。闇の支配者)が、日本人の力を奪うために流行らせたと言われても驚かない。
実際、下品な省略語を使うほど、その者の力は落ちていくのだから。
「ちがくね?」などは言わない方が良いだろう。

それで、最高の口癖は「ありがたい」ではないかと思うことがある。
「ありがたい」は「有り難い」で、「滅多にない」「あり得ない」であり、つまり、「奇跡」のことである。
「ありがたい」と唱えると「神様の奇跡」も起こる。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、「ありがたい」を心を込めて1日1万回言わせたら、1週間ほどで完治してしまった。
心を込めてとは、やたら感情を込めることではなく、「ゆっくり」「しずかに」「丁寧に」唱えることで、特に緊急でないなら、これらを守れば、特に1日1万回も唱える必要はないと思う(奇跡が欲しければ、それ以上に唱えると良いが)。
教育学者の七田眞氏の著書『奇跡の超「右脳」開運術』に、ホームレスの男が、1日中「神様の奇跡が起こる」という言葉を唱えることを、2週間ほど続けたら、宝くじで1憶円当たった話があるが、この男は元々神様を信じていたらしい。
ただ、日本人は、キリスト教などで言うより、自然に神様を信じているものである。
「ありがたい」もまた、無意識に神様に感謝する言葉である。
これを唱えると、病気が治ったり、奇跡が起こるというのも分かる気がするのである。








退屈な時間は終わった

日本では、退屈な人が多いのではないかと思う。
子供でも、学生でも、若い人でも老人でも。
駄目な人間ほど、退屈な時間が多いことは、自分の経験で分かる(笑)。
私は、特に昔は、死ぬほど退屈だった(どんだけ駄目だったんやw)。

ところで、今は、暇つぶし出来るものが沢山ある。
代表的なものがスマホで、電車の中などで、大半の人がずっとスマホを退屈そうな顔で見ているのは、それがやはり退屈しのぎでしかないからだ。
他にも、ゲームや、テレビのバラエティ番組、面白いだけのテレビドラマ等があり、自分では「別に退屈なんかしていない」と思っているかもしれないが、全身の血が燃え上がるほど・・・でないことはもちろん、本当に楽しかったり、ワクワクしている訳ではない。
そして、我々庶民を、そんな状態にすることは、計画されたことであり、「与えられた娯楽」で慰められるのが「庶民」という家畜、あるいは、奴隷なのである。
生き甲斐のある人間は奴隷にならないからね。

だが、もう心配無用だ。
我々は、退屈な時間を楽しめるようになり、さらに、退屈ではなく、充実した「自由時間」や「冒険」、あるいは、「貴族的な暇な時間」を過ごせるようになった。
時間があるなら、アファーメーション(肯定的断言)をすれば良いのである。
呼び方は、アファーメーションでも、自己暗示でも、あるいは、呪文、つぶやき、祈り・・・なんと呼んでも構わない。
肯定的な言葉を、ゆっくり、静かに繰り返すことは楽しく、しかも、現実は唱えた通りに変わるのであるから、これほど嬉しく、面白いことはない。
これこそが、本質的には神である人間の仕事と言っても良いと思う。
世界は、心が作り出したホログラム(3次元映像)であり、思い通りになるのが人生である。

食傷気味になりながらSNSを見たり(本当に必要な時に見るのは楽しいだろう)、「あのアニメでも見るか」「ゲームの続きでもするか」「スイーツを食べるしかないな」といった、「デモシカ」な行為をするのではなく、「よし、世界を作る仕事をしよう」と、偽りの興奮とは全く違う、やすらぎやのどかさといった、真に好ましい感情を伴いながらアファーメーションを行うのである。
確かに、最初のうちは、それほど楽しいこととは思わないかもしれないが、やっていれば、不思議な満足感を得ることになる。

まずは、自分の幸福を優先したって構わない。
これまで何度も書いたが、「富」、あるいは、「成功」、あるいは、「富、成功」、あるいは、「歓喜、成功、富」といった言葉を、ゆっくり、静かに、反復する。声に出しても良いし、心の中で唱えても良い。
あるいは、ホームレスが1憶円を2回得た有名なつぶやき、「神様の奇跡が起こる」を唱えると、何が起こるか楽しみだ(七田眞著『奇跡の超「右脳」開運術』より)。
一休さんの遺言、「心配するな。なんとかなる」という言葉を繰り返すと、不安が消え、不思議な解決を見ることになるだろう。
あるいは、凛々しく、「わたしは、あらゆることができるスーパーマンだ」と、四六時中唱えていれば、そのようになる。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、数千年前に建てられた廟(神社やお寺のようなもの)が、昨日建てられたように新しいのは、その中で、「生命、愛、平和」という言葉しか使われないからであるという。
この言葉には神的なエネルギーがあり、我々も、この言葉を数多く唱えることで得られる恩恵は計り知れない。

「20世紀最大の詩人」とも言われる、アイルランドのノーベル賞作家である、劇作家・詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツの自伝的小説『まだらの鳥』に、こんな場面がある。
イェイツ自身を投影した青年マイケルが船の甲板にいると、海の上に精霊の少女が現れた。
その時、空気は澄み切り、彼女の服のひだの1つ1つがくっきり見えた。
彼女はマイケルに、少し咎めるように言う。
「あなたはいつ仕事を始めるのですか?」
マイケルは我々一人一人である。
では、我々は、新しい世界を作る仕事を始めようではないか?








私はなぜ歩くのが速いのか

駅から歩いて帰宅する人の中には、一目見て、もう目いっぱい必死で速く歩いていると分かる人がよくいる。
腕を派手に振り、状態をぐらぐら揺らし、服が「擦れる音と、乱暴な足音を立てて、随分無理をして歩いている。
しかし、私は数十メートル後ろを歩いていても、悪気はないが、普通にあるいてすぐに追いつき、一瞬で追い抜いてしまう。
時々、追い抜かれまいと思うのか、さらにスピードを上げてくる者もいるが、これは悪いが、私もちょっぴり脚に力を入れ、すぐに離れ去らせていただく。
どうも、私は、そのような人と一緒に歩くのは嫌なのだ。
それに、歩く時は、無理せず、自分にとって適度な速さで歩くべきなのだ。
私のようにね。

なぜ私が、人より歩くのが速いのか、よく分からない。
平均よりは多少は脚が長いかもしれないが、私程度ならいくらでもいると思う。
やはり、体重が軽いのと、朝晩のトレーニング(スクワット等)を欠かさないためかと思う。

W.B.イェイツの『まだらの鳥』という未完の小説の中で、イェイツが自らを投影した少年マイケルに、貧しい鋳物職人の老人が言う。
「魂が身体を離れないだけのパンを食べることです。そうしたら天国を見ることができます」
少食であるなら、炭水化物であるパンを食べたって構わないし、ほとんど食べない人にとっては、それは良い食物であるのだと思う。
多く食べるなら、炭水化物や砂糖を食べず、肉や魚、それに、チーズ、野菜、ナッツを食べるべきだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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