ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

かもめのジョナサン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神の視点とは

リチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』は、絶賛する人もいれば、全く価値を認めない人もいる。
ところで、『かもめのジョナサン』と、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』から、似た視点を感じるには、まさに、この2作品の著者が共に飛行機乗りで、「高空の視点」を持っているからのように思える。

私は、『かもめのジョナサン』は、かなり前に一度読んだだけなのだが、最も印象深く憶えている言葉は、
「最も高く飛ぶかもめが、最も遠くを見通す」
だ。
全くその通りだと思ったのだ。
それは、物理的な高さを指すだけでなく、むしろ、精神的な高さのことだ。
では、精神的な高さとは何かというと、「神との近さ」だ。
1953年の傑作SF映画『宇宙戦争』で、火星人の飛行船に向かって歩きながら、コリンズ牧師は言う。
「我々より進んでいるなら、より神に近いはずだ」
精神的に進んでいるなら、その通りだ。
しかし、テクノロジーの進歩が、必ずしも精神的進歩を示すとは限らない。
コリンズ牧師は、火星人の飛行船のエネルギー光線を受け、消滅してしまう。
(私は、2005年の映画『宇宙戦争』は、悪くはないが、1953年の作品の方がはるかに優れていると思う)

では、高い、あるいは、より神に近い精神を持つ心は何を願うのだろうか?
他のかもめ達より高く飛んだジョナサンは、何を求めていたのだろう?
確かに、ジョナサンは、「かもめの可能性」を探求していたが、その結果、もたらされるものは、「皆が仲良くあること」だ。
なぜなら、皆が本当に高ければ、争う必要などないからだ。
この仲良くは、慣れ合いを指す「グループ内での仲良く」とはまるで違い、むしろ、正反対だ。
「グループ内での仲良し」は、グループ外の者や他グループを攻撃し、排除する。
グループという概念のない仲良し・・・それが「皆が仲良く」だ。
尚、より高い力を発揮するために協力する「チーム」はグループとは全く違うものである。

漫画・アニメ作品『まちカドまぞく』で、ポンコツ魔族(女子高生としてもポンコツ)のシャミ子(優子)に、超強力な魔法少女(女子高生としても優秀)な桃が逆らえないのは、シャミ子の願いが「皆が仲良くなりますように」だからだ。
小説・アニメ・漫画作品『灼眼のシャナ』で、ごく平凡な男子高校生、坂井佑二に、異世界の創造神「祭礼の蛇」がすっかり惚れ込んで一体化したのもまた、この2人(坂井佑二と祭礼の蛇)の願いが、紅世の輩、フレイムヘイズ、人間の区別なく、皆が仲良くなる世界を望んでいたからである(と思う)。
つまり、神の視点に立てば、その願いは「皆が(誰も例外なく)仲良く」である・・・と言って、そう間違えてはいないと思う。
「皆が仲良く」と思い、それを目指すなら、即ち、自分が神である。
そのような者に不可能などあり得ない。
今後の世界は、それを示す世の中になると思う。
「この人を愛す、でも、あの人は嫌い」は、責めはしないが、人の視点であり、その傾向が強いほど、無力と苦難を味わうしかないだろう。








本当は危ない短編の傑作達

短編の名作に、『星の王子さま』と『かもめのジョナサン』がある。
『星の王子さま』は世界で8000万部、『かもめのジョナサン』は4000万部売れているらしい。

『かもめのジョナサン』に心酔する者は危ない。
私もそうだった。
いったい、この作品の何がそんなに問題なのか?
それは、自分をジョナサンと同一視した場合に困るのだが、往々にしてそうなるのだ。
そうすると、かもめ社会の長老達を見下すようになってしまう。
何といっても、ジョナサンは、最初から最後まで穢れなき存在だ。
確かに、ジョナサン自体は、長老達に、「馬鹿」とも、「時代遅れ」とも、「利権を守りたいだけの老いぼれ」とも言わなかったが、読者はそう思うのだ。
だが、人間にとって大切なことは、自分が長老達の仲間であると、つくづく思い知ることなのだ。

『星の王子さま』も、かなり危ない。
『星の王子さま』では、王子さまは色々な星を訪問し、そこに住む「変な」者達を見る。
また、著者テグジュペリ自身の投影であると思う、このお話の主も、子供の時に出会った、世間の「変な」人達のことを語る。
そしてやはり、読みながら、ほとんどの人は、それらの「変な」星の住人や世間の人達を見下してしまうはずだ。
自分を、王子さまや、少年時代のお話の主と見なしてしまうのだ。
だが、それこそ、「変な」連中に負けない愚かなことなのだ。
自分が、あの「変な」やつらと全く同じだと、つくづく思い知る者だけが「まとも」なのに、まともな人間はほとんどいないのだ。

そして、わが国の短編『銀河鉄道の夜』も、やっぱり危ない。
ジョバンニは自分の愚かさについて思い悩むが、かおる(後から列車に乗ってきた女の子)の蠍の話で吹っ切れる。
蠍は、自分は沢山の命を奪ってきたのに、いざ、自分が奪われる時がくると必死で抗い、イタチを道連れにしてしまったことを後悔する。
そして、蠍は、神様に、「この次生まれてきたら、この身をみんなの幸せのために使って下さい」と祈りながら死ぬ。
ジョバンニとカムパネルラは、自分もそうあろうと誓い合う。
そして、カンパネルラは、実際にそんなことをしたからまずいのだ。
読者は、自分を、天に昇った蠍や、それに倣おうとしたジョバンニやカムパネルラに同一視してしまう。
この物語は、「いい人」だらけで、読んでいると幸せな気持ちになるが、それが危ない。
自分は誰に似ているのだろう?
それは、カンパネルラが命を捨てて救ったザネリしかいないのに、誰もそう思わない。
それが危ないのだ。
自分は、つくづく、ザネリ以下なのだと思い知る人間だけがまともなのだが、そんな者はほとんどいない。

ならば、やはり短編の『歎異抄』を読むと良い。
著者も、著者が話す師の親鸞も、自分がつくづく愚か者であると思い知っている。
そして、まともな読者は、自分は、この2人にも遠く及ばないことを感じるのである。
ただし、「つくづく」でなければならない。
しかし、やはり、そんな者は滅多にいないのだ。









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人生の選択とは本当に深刻なものなのか?

誰でも、人生の選択に迷うことが、あるかもしれない。
ただ、選択には、積極的選択と消極的選択とがあるだろう。
積極的選択とは、2つ(それ以上の場合もあるかもしれないが)の道があるが、本当はどちらもやりたくて悩んでいるというものだ。アメリカのスポーツ選手には、大学で野球とフットボールの両方をやり、いずれのスポーツのプロ球団からも熱心に誘われるという例は少なくないようだ。それで、実際に、プロ野球とプロフットボールの両方の選手をやっているという場合すらあるが、普通はいずれかを選ぶ。
こういった積極的選択が出来る人は、他人からは羨ましいが、本人はいたって深刻なものだろう。
もう1つが、消極的選択といって、2つ(それ以上の場合もあるかもしれないが)の道のどちらも嫌だが、どちらかを選ばないといけないというもので、現実的には多いものだ。
例えば、学校を続けるかやめるか、あるいは、会社を続けるかやめるかといったものだ。やめた場合は、その後のことは全く白紙という場合が多いに違いない。
また、積極と消極が混じったようなものもある。
例えば、学校や会社をやめてミュージシャンになりたいが、成功するかどうか全く分からない世界なので、仕方なく現状を続けるか、思い切ってやってみようかといったものだ。

自分の力で道を切り開いた成功者の多くは、「リスクがあってもやりたいことをやるべし」なんて勇ましいことを言う。自分がたまたま上手くいっただけだということを知らず、自惚れている人だ。
また、上手くいなかった場合に責任を問われるのを恐れてだろうが、「とりあえず現状を続け、その中で新しい道への準備を進めて・・・」といった、毒にも薬にもならないことを言う人も多い。

『美少女戦士セーラームーン』の作者の武内直子さんは、薬剤師になったが、漫画も描いていて、漫画が売れたので、漫画家専業になったという、これも羨ましい人だ。
いまどき珍しく、作品の多くがアニメ化された漫画家のこげどんぼ(以前はコゲどんぼ)さんは、漫画家になることに挫折してOLになったが、イラストも描いていて、そのイラストが人気が出て、アニメのキャラクタデザイン等をやっていると、漫画も描くことになり、漫画家で大成功したが、OLの方も続けているという変わった人だ。
まあ、才能がなければ、彼女達のようなことは出来まい。
では、さしたる才能も無い我々はどうすべきか?
世間には、「才能はあると思えばある」なんて勝手なことを言って、騙して儲けようという者が多いから、気をつけた方が良いのだろう。
才能というのは、確かに誰にでもある。しかし、それがメシの種になるかどうかは別問題なのだ。例えば、天才的な木彫り工の才能があったって、食べていけるまでになれるのは、百人に一人いないのではないかと思う。
ちゃんと楽団に所属している、高度な腕前の演奏家が、年収400万円(あるいはそれ以下)なんてことも珍しくも何ともない。楽器は自前なので、そんな収入では、一人で食べていくのも難しい。たまたま美少女に生まれた演奏家が、一時的に高収入を得ることがあるが、それは極めて稀な例だし、そうなったらなったで、色々大変だ。

さて、どうすればいいかだが、我々は、自分の思うように選択できる訳ではない。
学校や会社をやめるということも関しても、自分の思うままにやめたり、続けたりすることなど出来ないのだ。
私も大学をやめ、仕事もいくつかやめたことがある。その時は自分の意志でやめたり、自分がやめる原因を作ったように思えたが、全てはなりゆきだ。結果は既に決まっていたのである。
優雅に飛んでいるカモメは雑食性で、本当に何でも食べる。ゴミバコはひっくり返して餌を漁るし、虫でもトカゲでも食べる。このあたり、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』にも書かれているが、カモメの群にパン屑を投げてやると、カモメ達はそれを争って奪う。しかし、取り逃したかもめが悔しがる訳でも、「私はなんて駄目なんだ」と悩む訳でもない。
我々もカモメの真似をすればいい。
ただし、重要なことがある。以下は、『かもめのジョナサン』には書かれていない。
ジョナサンのように、せっかく取ったパン屑を他のカモメに投げてやるというのも、別に彼の意思ではない。彼は、彼の脳にプログラミングされた通りにそうしたのである。そのプログラミングは、彼が生まれた時に、脳内に作られたのだ。他のカモメには、そんなプログラミングはなかったというだけのことだ。だから、ジョナサンは、他のカモメが自分のようにしないからといって心を乱す必要はなかったのだ。

思慮分別を捨て、なりゆきに任せることだ。
ただ、こう言うと、「なるほど、小賢しい理屈を捨ててこそ、最適な判断が出来るのですね」などと言う人がいる。
そうではない。実際は、なりゆきに任せようが、そうでなかろうが、結果は変わらない。ただ、それなら、なりゆきに任せた方が心が平和だというだけのことだ。
ラマナ・マハルシなら、「誰が迷っているのか?」と言うことだろう。

手塚治虫さんの『ザ・クレーター』という短編集の中にこんなお話がある。
ある青年には、2つの道があり、いずれの道でも成功する自信が彼にはあった。
それで悩んでいると、不思議な雰囲気の紳士が現れ、コインを投げて決めろという。その奇妙な説得力に押され、青年はコインの示すまま、1つの道を選ぶ。
青年は成功するが、やがてひどい状態に追い込まれた。それで、選択を後悔していると、またあの紳士が現れ、一度だけやり直しが出来ると言い、青年はそれに従う。
もう一方の道でも、青年は成功する。しかし、やがては最悪の事態になり、青年はまたも後悔し、青年は2つの世界に分裂してしまった。
問題は青年にある。
どんな事態になろうと、青年は平気でいられたのだ。そして、平気でいようが、悩み苦しもうが、結果に変わりはない。
『バガヴァッド・ギーター』や『荘子』には、そのあたりのことが見事に説明されている。
ただ、『荘子』では、「これが理解出来る者は滅多にいない」と言うが、『バガヴァッド・ギーター』では、宇宙で最も賢い至高神クリシュナが、アホなアルジュナ王子のために、分かるまで教えるのである。

ただ、私は、『バガヴァッド・ギーター』には、続きがあっても良いと思うのだ。
もっとも、『バガヴァッド・ギーター』は、大叙事詩『マハーバーラタ』の一部であるから、『マハーバーラタ』の別の部分にあったりするのかもしれないが、私は知らない。ただ、何を書くべきかは知っている。それはまた、追々教えよう。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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