江戸時代の長州藩士であった高杉晋作の辞世の句(死に臨んで残す言葉)は

おもしろきこともなき世におもしろく

であったことはよく知られている。
ただ、一字違いの、

おもしろきこともなき世をおもしろく

であったのではないかとも言われているが、本当のことは分からない。
彼が書いたものが残っている訳ではないからだ。
そして、この句の後に、野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたものが知られているようである。
この2つを合わせた、

おもしろきこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり

であるが、一般には、「世界は、そのままでは面白いものではないが、それを面白くするのは、各人の気持ち次第だ」と解釈されているのではないかと思う。
もしかしたら、高杉もそんな意味で言ったのかもしれない。

だが、その場合、ちょっと困ったことがあるのだ。
この言葉から、多くの人々が、「では、この世が面白くなるような気持ちになろう、あるいは、面白い気持ちになれるよう努めよう」と思うからだ。
しかし、誰も、自分の思うままに、面白い気持ちになどなれない。いや、どんな気持ちにだってなれないのだ。
あなたは、自分の思うままに、楽しい気分、愉快な気分、憂鬱な気分、悲しい気分になど、決してなれない。

「雨が降れば憂鬱」と感じることが、愚かであるように言われることがあるかもしれない。
しかし、決してそんなことはないのだ。
誰も、雨が降って、憂鬱になるかならないかを自分で選ぶことは出来ないのだ。
憂鬱になるなら、なれば良いのである。
どんな偉人にだって、雨が降れば憂鬱だと思う人はいるのだ。
大切なことは、「雨が降って憂鬱になってしまう私は駄目な人だ」と思わないことだ。

だから、面白いこともない世の中で、自分の心を面白くできないからといって、自分は弱い人間だと自己嫌悪する必要はない。それは、あなたの欠陥ではない。
そして、世の中の印象を自分で決めようなんて思うと、必ず惨めな気分になる。それは決して叶わず、自分の無力を思い知るからだ。
まるで、イケメンの彼を、佐々木希と奪い合って、自分の愚かさを思い知るようなものだ。

では、面白くない心をどうすれば良いのだろう?
出来るだけ、何も考えないことだ。
一切の想念を、出来る限り起こさないことだ。
「そんな・・・頭を使わないと馬鹿にならないか?」
と思ってはならない。
瞬間的な想いは、自動的に起こる。それは、止めようとしても止まらない。
生きている人間が、頭を使わないなんてことはない。
ただ、その思考を、まるで他人のもののように、出来るだけ無関心でいることだ。

ラマナ・マハルシに、ある男が訴えた。
「隣の家の娘が美しく、もうたまらない。私は妻子があるが、この欲望を止められない。とんでもない間違いを犯しそうだ。どうすればいいでしょうか?」
マハルシは、
「そう思っているのは誰かね?」
と尋ねると、男は、
「私です」
と答えた。すると、マハルシは、
「私とは誰かを見出しなさい」
と言った。
しかし、多分、その男は、そう簡単に「私」を見出せないだろう。
それで、マハルシは、
「間違いが起こったとしても、それが運命だったと思い、苦しむな」
と、慈悲に満ちた態度で言った。
マハルシは言う。
「全ては、神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、あなたの小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
この世が面白かろうが、面白くなかろうが、それを、どうこうしようなどと思わなくなってこそ安らかでいられるのだ。つまり、全て大自然に任せることだ。

初音ミクと巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』(作詞・作曲:wowaka)の中に、

全然良いこともないし、ねえ その手を引いてみようか?

とフレーズがある。
まあ、全然良いこともないのは、お互い様だが、この手を引けるものなら引いてみるがいい。私がどう反応するか、自分でも分からないし、それで何が起こるかも分からない。
古事記で、タケミナカタノカミがタケミカヅチの手を取った時、タケミカヅチの手は氷や刀に変化し、タケミナカタノカミは恐れた。
私の手は何に変わるであろうか?
起こることは、どうあっても必ず起こる。
起こらないことは、どれほど熱望しようが、絶対に起こらない。
なるようにしかならないが、なるようにはなる。
ならば、気楽に、何が起こるかを傍観することだ。幼稚園の演劇を見るように。









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