どんな国、どんな民族も、おとぎ話や神話を持つ。
おとぎ話は、教訓を伝えるものであるとか、あるいは、もっと深い人間や世界の真理が隠されているものだとも言われる。
神話や伝説に関しては、神話が伝えられなくなったら、その国や民族は滅ぶと言う人もおり、その民族を護る重要な教えが神話の中に秘められているという主張もある。
※「おとぎ話」は「日本の童話」という意味だが、ここでは、両者を区別しない。

神話となると、何か壮大なものが込められているのかもしれないが、多くの場合、おとぎ話は、引き寄せの方法を子供に教えるために作られたのである。
とはいえ、意図しておとぎ話の中に引き寄せの方法を入れたと言うよりは、自然にそうなったのであり、その分、押しつけがましさがなく、子供達は自然に引き寄せを覚えていたのである。
神話は壮大であると言ったが、むしろ、壮大な引き寄せの秘法であるかもしれない。その点、将来大物になる子供向けであるし、大人向けでもある。

幼い頃に、おとぎ話に親しんだ人は、自然に引き寄せのノウハウが身に付いており、一生、概ね安楽である。
神話に親しんだ子供は大物になる可能性が高い。
おとぎ話というのは、だいたいがハッピーエンドであるが、ハッピーエンドを導く要因がどれも美しく、その美しいものを身に付けてしまえば、人生勝ったも同然なのである。
例えば、グリムの『ヘンゼルとグレーテル』で、兄妹は、なぜ魔女に勝利出来たのだろう?
それは、妹のグレーテルが、魔女をかまどに押し込む勇気と行動によってである。
幼くて、兄を頼るだけで、自分では何も出来なかったグレーテルが、兄の助けを得られない状況で、行動を起こしたから勝利したのである。
まさに、「キャシャーンがやらねば誰がやる」である(「キャシャーン」知らない方、御免なさい)。

グリムの『星の銀貨』には、やや微妙さはあるが、別にこれを教訓として教えるのではなく、童話としてマインドを導くためのお話である。
優しい女の子が、持っているものを欲しがっている人に次々にあげ、最後には、着ている下着まであげてしまい、全てを失ったが、その時、神様が沢山の銀貨と、新しい上等の服をくれるのである。
これは、イエスの言う「与えるものは与えられる」を、自然に教えるお話である。

グリム版、ペロー版がある『シンデレラ(サンドリヨン、灰かぶり)』は、辛い状況が訪れても、耐えて真面目に務めた方が良いことを、まず教えている。
そうやって培う、忍耐、技術、要領(合理性)、礼儀などは一生の宝であり、シンデレラも、そういったものを身に付けたからこそ、美しさを引き立て、王子様の目にも留まったのである。
そして、12時までに帰らないといけないといったように、楽しむことにも制限があることを認識し、勝手きままさを抑えることが重要である。
シンデレラの足が、小さなガラスの靴に収まるほど小さいのは、足の大きさというのは、実は、放埓(ほうらつ。勝手きままなこと)さが小さいことを示しているのである。
シンデレラの義姉達は、放埓に過ごした、つまり、足が大きいので、王子様に相応しくないのである。

伝説ではなく、アンデルセン童話のように、1人の作家が作ったものにだって価値がない訳ではない。
童話の形で語られる物語は、やはり、貴重な精神法則、つまり、引き寄せのテクニックなのである。
『マッチ売りの少女』のように、あきらかに大人を含む全ての人への教訓を込めたものもあるが、それにだって深い精神法則が込められている。
それは、心が持つ驚くべき力だ。普通の人は、それを見過ごし、ないがしろにしているが、この物語を子供の時に味わった人は、そうはならないのである。
『人魚姫』では、人魚姫は髪で身体を隠す慎み深さを持ち、声を出して自己主張をせず(声を失って、話すことが出来なかったのだが)、最後は、王子様を殺すよりは自分が犠牲になった。
海の泡となった人魚姫であるが、神様によって高次の存在にされ、そして、誰からも愛される永遠の乙女になったのであり、この物語を胸に秘めている者も、そうなるのである。