ジッドゥ・クリシュナムルティによれば、釈迦の弟子の中で、釈迦の教えを本当に理解できたのは、木蓮と舎利弗の2人だけであったらしい。
直弟子以外で釈迦の教えを理解したのは稀有であろうから、我が国の有名な高僧達・・・最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元、一休、良寛などもどうであったか分からない。
ただ、法然や親鸞に尋ねたら、彼らは、「わしに分かるはずなかろ」と言うのだと思う。
特に、親鸞は確実だと思う。なんと言っても、自称「愚禿(頭を剃った愚か者)」だ。
良寛も自称「大愚」となかなかよろしい。
ソクラテスは「わしは、分からないことが分かっているので、他の人より知恵者と言えるのじゃよ」と言ったが、彼も親鸞達に近かった。
だが、彼らは、我々のような、わざとらしい謙虚というのとは違う。
「本当に、分からないことが分かる」というのは、それだけで大変なものだ。
アメリカのヴァーノン・ハワードは、それでも釈迦やイエスが、なぜ教えを説いたかというと、「千人に1人の理解する人のため」と述べている。
しかし、本当はどうだろう?
親鸞や良寛すら分からなかったのだ。
ハワードさんは分かっていたのだろうか?
釈迦やイエスの教えは、むしろ害の方が大きいのではないか?
教会は罪のない大勢の人達を火あぶりにした。
ガリレオもそれを避けるために地動説を取り下げ、スウェーデンボルグは亡命して生涯、祖国スウェーデンに戻れなかった。
他にも、キリスト教を巡る虐殺や戦争は歴史に暇(いとま)がない。
仏教の方でも、悲惨な戦いや蹂躙(暴力・強権などをもって他を侵害すること)は数知れない。
近年とみに勢いのあるイスラム教(やがてキリスト教を追い越すと言われている)は、ますます悪い状況になりつつある。
有名人が具体的に言うと殺されかねないが、日本の戦争責任を問うなら、宗教の中心地が崇められているのは大きな矛盾かもしれない。
イエスは予知能力があったのに、それが分からなかったのだろうか?
いや、そうではあるまい。
また、釈迦も本当は万能の超能力者だったらしいから、本当は分かっていたはずだ。
ここで、もう一度、「釈迦やイエスはなぜ、理解する人もいない教えを説いたのか?」という疑問に戻る。
禅の中に、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」というお話がある。
それが答だ。
達磨は、釈迦の教えを本当に理解していた賢者だ。
その禅の中で、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」と聞かれた賢者は、「この庭の木じゃよ」と答えている。
これは、庭の木でも、森の木でも何でも良いと思う。
いや、野ばらでも、野に咲くスミレでも、ベランダのチューリップでも良い。
「世界に1つだけの花」なんてもんじゃあない。
あの歌のように、1つ1つ違っていようが、そうではなく(あの歌の主張と違い)みんな同じだろうが、そんなこと、どうでもよろしい。
花は「咲こう」と思って咲くんじゃあない。
種が地に落ちれば、勝手に咲くのだ。
釈迦やイエスも、「教えを説こう」なんて思って教えたんじゃあない。
達磨も、何か志あって中国に来たんじゃあない。
達磨が、「よし、ここは一つ、俺がお釈迦様の素晴らしい教えを中国の人達に伝えてやろう」と思ったのなら、彼は偽物だ。
中国にだって賢者はいる。例えば、老子や孔子や荘子らだ。
だが、達磨は中国に来る必要があったのだ。
そして、達磨は道具に過ぎなかった。
「フォークの神様」と言われた岡林信康さんは、一度音楽界を引退して、4年の間、農耕をやり、また音楽に復帰したが、「昔は、音楽は自分の道具だと思っていたが、それはおこがましい。俺が音楽の道具なんだ」と言ったのと同じことだと思う。
釈迦やイエスすら、道具だったのだと思うのだ。
ましてや、我々が、ただの道具でないはずがない。
誰の道具かというと、言い方によって好き嫌いはあろうが、まあ、神の道具と言っておく。
達磨はなぜ中国に来たのか?
クリシュナムルティは「なぜ教えるのか?」と聞かれて、「花はなぜ咲くのか?」と問い返した。
花がなぜ咲くかなんて、いったい誰が聞くだろう?
「どうしてお腹が減るのかな?」なんて歌がある。
その歌にあるように、ケンカをしても、仲良ししてても減るのだ。
クリシュナムルティは、「どうしてお腹は減るのか?」と答えても良かったのだ。
私は、世界に1つの花なんかじゃあない。
みんな同じだ。
1つ1つ違うと思うから比べるんじゃないのかね?
ナンバーワンと言おうが、オンリーワンと言おうが同じだ。
むしろ、「俺はオンリーワンだ」って言う者は、「俺はナンバーワンだ」って言う者より、ずっと始末が悪いんだ。
だって、誰だって「オンリーワン」のプライド、見栄を持てるのだから。
あの歌は、全くのサカサマなんだよ。
世界に1つの花なんかじゃあない。
ただ、花なんだ。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
直弟子以外で釈迦の教えを理解したのは稀有であろうから、我が国の有名な高僧達・・・最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元、一休、良寛などもどうであったか分からない。
ただ、法然や親鸞に尋ねたら、彼らは、「わしに分かるはずなかろ」と言うのだと思う。
特に、親鸞は確実だと思う。なんと言っても、自称「愚禿(頭を剃った愚か者)」だ。
良寛も自称「大愚」となかなかよろしい。
ソクラテスは「わしは、分からないことが分かっているので、他の人より知恵者と言えるのじゃよ」と言ったが、彼も親鸞達に近かった。
だが、彼らは、我々のような、わざとらしい謙虚というのとは違う。
「本当に、分からないことが分かる」というのは、それだけで大変なものだ。
アメリカのヴァーノン・ハワードは、それでも釈迦やイエスが、なぜ教えを説いたかというと、「千人に1人の理解する人のため」と述べている。
しかし、本当はどうだろう?
親鸞や良寛すら分からなかったのだ。
ハワードさんは分かっていたのだろうか?
釈迦やイエスの教えは、むしろ害の方が大きいのではないか?
教会は罪のない大勢の人達を火あぶりにした。
ガリレオもそれを避けるために地動説を取り下げ、スウェーデンボルグは亡命して生涯、祖国スウェーデンに戻れなかった。
他にも、キリスト教を巡る虐殺や戦争は歴史に暇(いとま)がない。
仏教の方でも、悲惨な戦いや蹂躙(暴力・強権などをもって他を侵害すること)は数知れない。
近年とみに勢いのあるイスラム教(やがてキリスト教を追い越すと言われている)は、ますます悪い状況になりつつある。
有名人が具体的に言うと殺されかねないが、日本の戦争責任を問うなら、宗教の中心地が崇められているのは大きな矛盾かもしれない。
イエスは予知能力があったのに、それが分からなかったのだろうか?
いや、そうではあるまい。
また、釈迦も本当は万能の超能力者だったらしいから、本当は分かっていたはずだ。
ここで、もう一度、「釈迦やイエスはなぜ、理解する人もいない教えを説いたのか?」という疑問に戻る。
禅の中に、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」というお話がある。
それが答だ。
達磨は、釈迦の教えを本当に理解していた賢者だ。
その禅の中で、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」と聞かれた賢者は、「この庭の木じゃよ」と答えている。
これは、庭の木でも、森の木でも何でも良いと思う。
いや、野ばらでも、野に咲くスミレでも、ベランダのチューリップでも良い。
「世界に1つだけの花」なんてもんじゃあない。
あの歌のように、1つ1つ違っていようが、そうではなく(あの歌の主張と違い)みんな同じだろうが、そんなこと、どうでもよろしい。
花は「咲こう」と思って咲くんじゃあない。
種が地に落ちれば、勝手に咲くのだ。
釈迦やイエスも、「教えを説こう」なんて思って教えたんじゃあない。
達磨も、何か志あって中国に来たんじゃあない。
達磨が、「よし、ここは一つ、俺がお釈迦様の素晴らしい教えを中国の人達に伝えてやろう」と思ったのなら、彼は偽物だ。
中国にだって賢者はいる。例えば、老子や孔子や荘子らだ。
だが、達磨は中国に来る必要があったのだ。
そして、達磨は道具に過ぎなかった。
「フォークの神様」と言われた岡林信康さんは、一度音楽界を引退して、4年の間、農耕をやり、また音楽に復帰したが、「昔は、音楽は自分の道具だと思っていたが、それはおこがましい。俺が音楽の道具なんだ」と言ったのと同じことだと思う。
釈迦やイエスすら、道具だったのだと思うのだ。
ましてや、我々が、ただの道具でないはずがない。
誰の道具かというと、言い方によって好き嫌いはあろうが、まあ、神の道具と言っておく。
達磨はなぜ中国に来たのか?
クリシュナムルティは「なぜ教えるのか?」と聞かれて、「花はなぜ咲くのか?」と問い返した。
花がなぜ咲くかなんて、いったい誰が聞くだろう?
「どうしてお腹が減るのかな?」なんて歌がある。
その歌にあるように、ケンカをしても、仲良ししてても減るのだ。
クリシュナムルティは、「どうしてお腹は減るのか?」と答えても良かったのだ。
私は、世界に1つの花なんかじゃあない。
みんな同じだ。
1つ1つ違うと思うから比べるんじゃないのかね?
ナンバーワンと言おうが、オンリーワンと言おうが同じだ。
むしろ、「俺はオンリーワンだ」って言う者は、「俺はナンバーワンだ」って言う者より、ずっと始末が悪いんだ。
だって、誰だって「オンリーワン」のプライド、見栄を持てるのだから。
あの歌は、全くのサカサマなんだよ。
世界に1つの花なんかじゃあない。
ただ、花なんだ。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。