ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

木鶏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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無敵の存在とは

アメリカの高名な作家、オグ・マンディーノ(1923~1996)自身の話だったように思うが、そうではなくても、彼の時代の話だろうから、そう昔のことではない。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。

モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。

モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。








古猫の教え『猫の妙術』

『猫の妙術』という、江戸中期に書かかれた談義本がある。
談義本とは、単に通俗的な読み物のことで、「滑稽物語」とも言われる、庶民の娯楽である。
ところが、このとても短い『猫の妙術』を読むと驚愕する。
おそるべき真理が、読み易く、面白く書かれている。
私は、中味(中身)そのものは、『荘子』と全く同じだと思ったが、実は、『猫の妙術』は、『田舎荘子』という書の一部で、確かに、『荘子』の有名な木鶏(木彫りの闘鶏)の話を参考にしているらしい。しかし、『猫の妙術』の方が、はるかに分かり易く、丁寧に書かれている。
また、『荘子』というのは、あくまで、無為、無用、無益を説く書で、役立たずで何もしないことを究極とするが、『猫の妙術』は、万能の教えだ。
もちろん、『荘子』も、本当のところは、神のようなものになることが書かれているが、それは隠されている。
だから、二宮金次郎(二宮尊徳)は、『荘子』と同じ無為自然を説く『老子』を馬鹿にし、否定した。金次郎には、老子、荘子に隠された魔力を見抜けなかったのかもしれない(分かっていて、わざと否定してみせたとも考えられるが)。

『猫の妙術』は、ストーリーそのものが重要なのではないと思う。
それは、『荘子』の木鶏の話が、木鶏のごとく静かな闘鶏が無敵だというだけのストーリーであるのと同じだ。
ある屋敷にネズミが現れ、ネズミ捕りの名人猫が次々、投入されるが、修行を積んだ優れた猫達が、このネズミに全く敵わず、逆にネズミに噛みつかれる始末だった。
それほど凄いネズミで、なす術がなかった。
そして、ついに、噂に聞こえた古猫が連れて来られた。
見栄えのしない、動きも鈍い古猫であったが、ノロノロとネズミに近付くと、パクっとネズミを咥えて出てきた。
その神技に驚愕した、このネズミに手も足も出なかった名人猫達は、うやうやしく古猫に教えを乞う。
すると、その古猫は、対話形式で、親切に名人猫達に教えを授けるが、その内容が実に良く、その対話を聞いていた武士も感服する。
『荘子』では、抽象的に語られていた宇宙の真理とも言うべきことを、ネズミを捕らえるということを題材に、分かり易く語るのだから有り難い。
『荘子』の木鶏の話の中に真理があることに気付く者は多いが、やはり、『荘子』は不親切過ぎるのである。なぜ、木鶏のような不動の闘鶏が無敵なのか、実質的には全く説明していないのだから。

あのロジャー・ムーア(2代目007俳優として有名)とトニー・カーチス(アメリカの名優)が共演した、『ダンディ2 華麗な冒険』というイギリスのテレビドラマがある。
その中で、ムーア演じるイギリスの貴族シンクレア卿が、こんなことを言っている。
「私の祖父の教えだ。攻撃こそ最大の防御なり、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしない者が一番強いのさ」
私は、子供の時、これを聞き、これこそ、この世の真理と思ったが、悟り切らなかったようで、全く生かせなかった。
『荘子』も『猫の妙術』も、それ(シンクレア卿の祖父の教え)と同じことを言っているのだが、『猫の妙術』は、お馬鹿な面白いお話として、分かり易く語ってくれているのである。
私は、講談社学術文庫の『天狗芸術論・猫の妙術』のみ読んだが、他にもいろいろ出ていると思う。








沈黙の力

「気圧(けお)される」という言葉がある。
「相手の勢いに押される。精神的に圧倒される。」という意味だが、これは、普通、相手の身体の動き、声、あるいは、表情の強さ、激しさによるのだろう。

だが、そうではなく、相手が何もせず、声も出さず、表情もなく、じっと動かないまま、気圧されるといったこともあるのかもしれない。
そんな存在が、『荘子』に出て来る木鶏(もっけい)である。
木鶏とは、文字通り、木の鶏(にわとり)のことだが、『荘子』に出て来る木鶏は、「木彫りのような鶏」である。
闘鶏(鶏同士が戦う競技)において、木彫りの鶏のように、どこまでも静かな鶏に対し、いかなる強い鶏も近寄ることすら出来ず、すくみ上ったり、逃げ出すのである。

人間も、この木鶏のような人間が、一つの理想の姿かもしれない。
『ベン・ハー』という映画で、武器など何も持たないイエス・キリストに対し、囚人護送団の隊長が立ち向かってくるが、イエスが静かに向き合っただけで、その隊長は気圧されて動けないという場面があった。
その時は、まだ、その人物がイエスであるとは分からなかったが、その姿に憧れた人は多いと思う。

どんな人物が、無言で相手を圧倒してしまうのだろう。
それは、心が徹底的に静かな者だ。
自覚意識すらなく、仏教で言う「自己を忘れた」状態と言えるかもしれない。
その心に一切の想念はなく、万物と一体化しているような境地である。
合気道の達人、植芝盛平は、「私は宇宙と一体化しているので、私と戦うことは宇宙と戦うことである」といったことを言っていたと思う。
完全に無になり、宇宙と一体化した者が無敵であることは間違いない。

では、どうすれば、そうなれるかというと、普通に考えると、長く厳しい修行を積むしかないと思われる。
だが、何かのきっかけで、普通の人が無になってしまうことがあり、そんな時、平凡な人間が超人に変わる。
そうなるために邪魔なものが、超人になりたいという欲望なのだから、厄介であると同時に面白い。

ところが、今は、誰でも無になれる時代である。
そうなれば(無になれば)、『法華経』に書かれている通り、1回食事をするほどの時間の間に、無数の仏の元を訪ね、それらの仏を供養することが出来る。
そして、おそらく、『法華経』を繰り返し読むことで、それに近付けるだろう。
それは、かなり忍耐が必要であるが、他に力を得る道がなければ、試してみれば良いだろう。
ただし、法華経を読んで、感動のあまり、宮沢賢治のように自己否定に徹するようなことをせず、あくまで、強くなるために読んでいただきたい。









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木鶏(もっけい)のごとくあれば戦わずして勝っている

木鶏(もっけい)という言葉をご存知だろうか?
闘鶏用の鶏を訓練する名人がいて、その名人のところに預けられた当初は、鶏は敵を求めて闘志をみなぎらせ、いきり立っているが、やがて、木彫りの鶏のように全く動かず、鳴き声も立てなくなる。
そうなると、どんな相手も、向かい合っただけで怯えて逃げ出し、戦わずして勝ってしまうのである。
これは、『荘子』の外編に出てくる話で、外編は、荘子自身が書いたのではないという説が有力と思うが、思想的には荘子らしいと言えると思う。

『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎も木鶏のようである。
三下ヤクザなど5人やそこらいたところで、紋次郎と対峙すると、「びびって」逃げ出す。
いわゆる貫禄負けというやつである。
紋次郎は、全く表情がなく、冷淡な目に言いようのない凄みがある。
そして、それが匂うような男っぽさで、いつも紋次郎にその気はないのだが、年増のしたたかな美女も清純無垢な美少女も惹き付け、離れることができないようになってしまうのである(紋次郎は、いくら言い寄ってきても、堅気の娘さんに手を出すことは決してない)。
なぜ紋次郎がそのようであるかというと、心が死んでしまっているからだ。
もっとも、「心が死んでしまっている」という意味を性急に早合点してはならない。

『ベン・ハー』という映画で、囚人連行団の傲慢で無慈悲な団長に対し、謎の男がすっと立って向かい合うと、その男を蹴散らそうとした団長だったが、なぜか何もできず、何も言えずに引き下がってしまう。
その男は、後でイエス・キリストであったことが分かる。
イエスは、きっと全くの無表情で、真空のように澄んだ目をしていたのだろう。
心が完全に死んでいるのである。

江戸時代の禅僧、至道無難(しどうぶなん)の有名な言葉に、「生きながら死人となりて、なりはてて、想ひのままにするわざぞよき」というものがあるが、それが木鶏のように見えるほど心が死んだ、紋次郎やイエスのような者のことであるのだと思う。
どうやればそうなれるのかは、イエスについては、生い立ちや来歴(経歴、履歴)が分からないが、紋次郎に関しては、小説とはいえ、十分なものが書かれているのである。
岡田虎二郎は、「聖書よりイソップに良いことが書いてある」と言ったらしいが、私も、新約聖書の福音書は一度は読んでおくと良いと思うが、それよりも、『木枯し紋次郎』を読む方が良いと思う。
私は通勤時間に、スマートフォンでKindle版の『木枯し紋次郎』を読んでいるが8巻まできた。
そう遠くなく、15巻全部読み終わってしまうのが惜しいと思っている。









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真に強い男の姿

馬鹿にされることに非常に敏感な人がいる。
しかし、そんな人も、自分に力があれば、馬鹿にした相手に思い知らせるような行動を起こしたいと思っているだろうが、そうでないなら、泣き寝入りするしかない。
男の場合、力のあるなしに関係なく、「男は面子が大事」とばかり、黙っていられないという者もいるかもしれない。

しかし、真に強い人間は、面子など気にしないものだ。
『大いなる西部』という、1958年のアメリカ映画(西部劇)の傑作がある。東部からテキサスにやってきた、貿易船の船長をしているジム・マッケイは、婚約者である牧場主の娘パットと馬車で移動中、パットの家と敵対するヘネシー家のドラ息子と、その手下達に襲われる。パットがライフル銃を取り出すのを慌てて止めたジムだが、連中に馬車から引きずり出されると、身体にロープを巻きつけられ、馬に乗ったその荒くれ者達に引っ張られる乱暴を受けた。ジムの被っていた帽子は奪われ、それに銃をぶっ放される(弾は全部外れ、帽子に穴は空かなかったが)。怪我はなかったが、争う姿勢を見せないジムにヘネシーの息子は腰抜け呼ばわりをして去っていく。怒りを燃やすパットだが、ジムは冷静だった。
ブロンドの美しき婚約者パットに、「悔しくないの?」と尋ねられると、ジムは、「別に。新参者への挨拶だよ」と言う。しかし、パットは納得できない。

荒くれ者や、たちの悪い連中は、世界中のどこにでもいる。ジムが生きてきた海にも、いくらでもいただろう。
そもそも、若い男とは行儀の良いものであるはずがない。
ジムは、そんな中で鍛えられ、もう慣れてしまっていたのだ。多少の怒りは感じるだろうが、その程度のことでは動じないのだ。

「弱い犬ほどよく吼える」とは、よくいったものだ。
『荘子』に木鶏(もっけい)の話がある。木で作った鶏のように、全く動じない闘鶏の鶏だ。
闘鶏用の鶏を育てる名人がいたが、彼は、鶏が、いきりたったり、闘争心をみなぎらせている間は、最も強い鶏ではないと言う。しかし、どんな相手を前にしても木鶏のように泰然自若とするほどになれば、どんな鶏も敵わない。相手は、その鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。

男の場合、日常、「挨拶」を受けるものだ。それに動じずに応えると一目置かれる。
むしろ、挨拶されないと悲しいものである。
睨まれたり、虫の好かないやつだと思われていると思ったら、大いに喜ぶべきだ。そして、きちんと挨拶を受けよう。それが、男としてワクワクする瞬間だ。
その時、ジム・マッケイのようでいられたら、強くなった自分に満足するが、動揺したり、軽々しく反撃するようなら、自分の小ささや弱さにがっかりする。
そんな道を通らない限り、木鶏のような不動心を得、超人に進化することは無いと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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