アメリカの高名な作家、オグ・マンディーノ(1923~1996)自身の話だったように思うが、そうではなくても、彼の時代の話だろうから、そう昔のことではない。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。
モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。
モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。
モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。
モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。