ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡田虎二郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

中村天風や岡田虎二郎が超偉い本当の理由

中村天風という偉人がいたが、その弟子で有名な合氣道家だった藤平光一によれば、天風は亡くなる時、「俺の教えは全て忘れろ」と言ったらしい。
つまり、天風は自分の教えは全部間違いだったと認めたということらしい。
そうではない。
中村天風の間違いは、沢山の本を書き、沢山の講演を行って余計なことを教えたことだ。
彼の教えはただ1つと私は思っている。
それは「肛門を引き締めよ」だ。
それだけで良かった。
なぜなら、人間は肛門を引き締めながら思考することは出来ないからだ。
つまり、本当に大切なことは、思考を消すということだけだ。
それさえ分かれば、中村天風は間違ってはおらず、1つの正しい道を示した。
ただし、あくまで1つの道だ。
それで言えば、私はよく知らないが、藤平光一は、難しいことは言ったが、何か残しただろうか?
私には、藤平光一の話は、面白くはあるが、何も分からない。

中村天風よりも分かり易く教えたのは、むしろ、明治・大正の偉人で、岡田式静座法で知られた岡田虎二郎だった。
岡田式静座法とは、早い話が、腹に力を込めることだった。
正座そのものはしなくて良いと私は思う。
実際、岡田は「常に腹に力を込めよ」と言い、「生活しながら静座するのではなく、静座しながら生活せよ」と言ったように、起きている限りは静座・・・その実は腹に力を込めることをやれと言ったのである。
岡田の場合は、中村天風と違い、その理由も述べている。
「人間が下らないことを考えるのは、腹から力が抜けているからだ」
だが、岡田も分かっていなかったのは(言わなかっただけかもしれないが)、人間の考えは全部下らないということだ。
腹に力を込めれば、その下らないものである思考の一切を消すことが出来るのである。

現代の座敷童
AIアート169
「現代の座敷童」
Kay


中村天風の「肛門を引き締める」も、岡田虎二郎の「腹に力を込める」も、目的は同じで「思考を消す」ことだけだ。
どっちのやり方でも等しく効果があり、好きな方でやれば良い。
ちなみに、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、常に下腹に力を込めよと教え、岡田虎二郎に近い。
中村天風のように、ヨガをやった者は、肛門を締める教えを受けているので、そっちを勧めるのだと思われる。

だが、思考を消すもっと優れた方法は、ラマナ・マハルシが教えた「私は誰か?」と自分に問うことである。
マハルシも「私は誰か?」以外の想念を起こしてはならないと教えた・・・つまり、常に「私は誰か?」と問えということだ。
もちろん、実際は、出来るだけ多くとしか言いようがないが、「私は誰か?」は、直接思考を消してしまう点、腹や肛門に力を込めることより優れているし、やり易いと思う。
とはいえ、好きな場合は、肛門を引き締めたり、腹に力を込める方法も導入しても良いが、彼らも認めたように、彼らのその他の教えは不要である。
岡田虎二郎も、死の直前、自分が書いたものは全部燃やしたのである。
こういったことはなかなか出来ず、中村天風も岡田虎二郎も、そういった点、最も偉大なことをしたのであり、やはり偉い人達であったと思う。








本当に良い書物とは

書物が読者に知恵を与えることはある。
しかし、それはいつも、極めて限られた読者に対してである。
一方、書物が読者の大半を愚鈍にしてしまうことならザラにあると思う。

老子や荘子が言うように、人の作為は悪い結果を生み易い。
だから、著者が「読者に知恵を与えよう」と意図して書いた書物は、読者に悪い影響を与え易い。
本当に良い書物は、著者の備忘録(早い話がメモ)であった場合が多い。

岡田虎二郎は、小学生の時、ルソーの『エミール』を読んで人生を変え、偉大な賢者になったが、彼が読んだのは『エミール』の前書きだけだった。
ルソーは、元々、『エミール』の前書きだけを、備忘録として書くつもりだったらしいが、その後で余計なことをしたのかもしれない。

宮沢賢治は、『雨にも負けず』を、やはり自分だけの備忘録として書き、人に見せる気などさらさらなかったのに、誰かがそれを発見して公開したのだが、おかげで、大勢の人々が、『雨にも負けず』を大誤解して、悪い影響を受けたのかもしれない。
私はそう思う。
そもそも、あれは宮沢賢治の心象世界・・・つまり、想像世界であるが、宮沢賢治すら、その世界にリアリティを感じていなかった。
だから、宮沢賢治は、親が残した有り余る資産で、あの時代の日本でグルメ三昧していたのだ。
宮沢賢治は善良な魂の持ち主ではあったが、現実の問題解決には全く適さない人間だった。
それこそ、それは『雨にも負けず』を見れば分かりそうなものだ。
ちなみに、宮沢賢治の座右の書は『化学本論』(片山正夫。1916)であった。

ラマナ・マハルシの『私は誰か?』という短い問答集がある。
これは、ある人が、当時21歳だったマハルシに質問をし、沈黙の行の最中であったマハルシは、砂に指で回答を書き、それを質問者が書き写したものだ。
実に素晴らしい内容で、後に、マハルシも「これで十分」と言ったらしいが、公開された時には、かなりの加筆がされていた。
まあ、それでも短くて良いものではあるが。

さりげなく書かれた知恵を発見出来た者は幸福である。
これはというものを見つけたら、他を捨て、それを大切にすることだ。
そして、おそらくは、誰もがそんなものを見つけているのである。








「釈迦も弥勒も殴り殺す」の真意

昨夜(つまり、これを書いている少し前)、かなりユニークな夢を見た。
実際の夢の内容は、私は記憶していない部分が多いが、ざっくりではこんな内容だ。
ある謎の男がいて、科学者だか神秘家なのか分からないが(一番近いのがイカサマ師という印象であったが)、彼は、人に不思議なスキルを与えることが出来る。
人に与えると言っても、見ていたら、与えるのは少女だけ、それも、美少女だけなのだが、別に、妙な意図があるのではなく、美少女の特性を拡張・増大させるスキルであるのだろうと思った。
そのスキルは、「微笑みで癒しを与えるスキル」で、美少女が微笑みで癒しを与えるなんて、アイドル的で平凡と思うかもしれないが、その力が半端なかった。
スキルを与えられた美少女の微笑みを見ると、本当に癒される・・・不安が瞬間に消滅するのである。
私も、その微笑みを見て、その威力に驚いた。
モナリザの微笑みなど比較にならない・・・というか、あのおばさんの微笑みで癒されるのは、相当通な人だけだろう(と思う)。

ところで、スピリチュアル思想の影響か、不安を取り除くことが出来れば、人間の問題が全て解決すると思っている人が多いかもしれない。
それを示す象徴的なお話がある。
心理学者のアレクサンダー・ロイド博士が、講演中に、会場の1人の女性に夢を尋ねたら「100万ドル(約1憶3千万円)」ということだった。
ロイド博士がその女性に、「100万ドルで何をしたいのですか?」と尋ねると、女性は、「100万ドルがあったら不安がなくなる」と答えた。
そこで、ロイド博士は、エネルギー療法で、女性の不安を取り除いた。
それで、その女性は、本当の夢は不安をなくすこと、即ち、安心することで、100万ドルではなかったことを理解した。
(尚、エネルギー療法とは、ロイド博士の著書『「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく』にあるもので、両手を胸に重ねる、あるいは、重ねた手をどちら回りでも良いが胸の上で滑るようにゆっくり回転させるというものだ)

では、この、エネルギー療法で不安を取り除いた女性は、幸福になっただろうか?
つまり、成功した・・・これは曖昧な表現で、はっきり言うなら、引き寄せが自在になっただろうか?
それはない。
多くの人が勘違いしている。
安心することがゴールなのではない。
それ(安心がゴールであること)は宗教で、宗教が人を幸福にすることはない。
最初に、スキル「不安を消す微笑み」を美少女に与える男がイカサマ師に見えると書いたが、本当にイカサマ師だ。
近藤真彦さんのミリオンヒット曲『ミッドナイト・シャッフル』に、「天使のような悪魔の笑顔」という印象的なフレーズがあったが(古いか)、このイカサマ師が美少女に与えたスキルは、そんなものかもしれない。

つまり、不安を消しても、再び、不安に飲み込まれるのは目に見えている。
世間は・・・大衆の集団意識は、あらゆる人間を飲み込み、不安で縛り、凡庸な人間にしてしまうのである。
そうならないためには、集団意識に飲み込まれない強い個性を持つしかない。
有名なロイド博士も、その点に気付いていないようだ。
彼は、『「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく』以前から、癒しの方法を多くの人々に教えてきたが、彼が儲かり続けているということは、人々の問題が解決していないということだ。
それはそうだ。
彼が出来るのは、一時的に不安を消すことだけだ。
生涯に渡って不安を持たないためには、自分で個性を磨くしかない。
これは、ナントカ療法一発で出来るようなことではない。
人々の方も、「スイッチ1つ押せばOK」的な「ナントカ療法」を求めるから、ニーズには合っているので、ロイド博士は儲かるし、一時的には感謝される。
だが、私は、ロイド博士が話すのをYouTube動画で見たが、あれは誠実な人間の顔ではないと思った。

師を超えない弟子は個性的ではない。
そもそも、いつまでも師のところにいる弟子は個性を殺されているのだ。
イエスや釈迦を崇敬はしても、コピーしようとしてはならない。
コピーしようとするのが宗教である。
禅語の中にも、「釈迦や弥勒に出会ったら、棒で殴り殺してやる」という物騒なものがある。
宮本武蔵だって、「神に出会えば神を切り、仏に出会えば仏を切る」と書いている。
つまり、「俺は真似はせん。オリジナルでいく」と言っているのである。

個性を磨くには、好きなことを寝食を忘れてやるのが一番である。
「好きなことを見つけるのが難しいんですよねー」と言う者は、〇〇して△△してろである(下品で言えない 笑)。
そんなことを言う者を、誰も(神も)助けてくれない。

「自分でいる」とは、平凡でぼーっとしていることではない。
個性的であるということだ。
ただし、世間や権力者の言う「個性的」は全力で無視しないとロボットにさせられる。
「君が君でいる」とは、「君が個性的である」ということだ。

岡田虎二郎が、金に窮しているという男に「金?金は腹に力がつけばいくらでも出来ますよ」と言ったという。
この「腹に力がつく」とは、「個性的になる」ということだ。
虎ちゃんも、もっとちゃんと言えよと言いたい。
つまり、大切なことは、岡田式静坐をやることではなく、自分が好きなことをすることである。
もちろん、岡田虎二郎は、方便として岡田式静坐法を作ったのであり、その先どうするかは、岡田の責任ではない。
勝手な想像だが、彼も落胆したのかもしれない。
誰も彼を超えないのだから。
ちなみに、岡田が開眼したのは小学生の時、ルソーの『エミール』の前書きを読んだのがきっかけだった。
実は、ルソーは、『エミール』は前書きの部分だけ書く気だったらしい。








自由の掟

確かに、私の敬愛する岡田虎二郎が言ったように、地球上を闊歩する力を得、自由に生きるために、努力、克己(自分に打ち勝つこと)、忍耐は必要ない。
だが、だからといって、甘ったれた根性で、人の真似ばかりし、言われた通りにやるだけの奴隷のような人間でも駄目なのだ。
人間の本質が最初からそうである通り、世界に1つだけの花と言えるだけの個性を輝かせ、特別な存在でなければならない。
努力して特別な存在になるのではない。
元々そうであるように、特別な存在であらねばならないだけだ。
それには、ただ、やりたいことをやれば良いだけである。どこに難しいことがあろうか?

好きなことを、自分の意思で行うとは、どういうことだろうか?
それは、3つのことをしないことで証される。
1つは、「泣き言を言わない」こと。
1つは、「言い訳をしない」こと。
1つは、「自慢をしない」こと。
つまりね、何もする必要はない。
ただ、好きなことをやりながら、この3つをしなければ良いだけである。

さて、本当に好きなことをして個性を磨いている者と、したいことをしているフリをしているだけの者との違いは何だろう?
それは、他人の評価を気にするかどうかだ。
無論、必要な時には、正当な評価を受ければ良い。どうせ、大絶賛に決まっているのだから(笑)。
しかし、人目を気にしたり、単なる主観的な意見にいちいち反応してはならない。
たとえ偉い人であっても、その人の個人的評価に惑わされるな。
大切なものは、自分の評価だけだ。
「私が良いと言えば、それが価値になる」
このくらいの自信がなくてはならない。
まあ、ここまで一足飛びにはいかないので、まずは、好きなことをすることだ。
泣き言を言わず、言い訳をせず、自慢をせずにね。








潜在意識の助けを受け入れるためのたとえ話

岡田式静坐法で知られた教育家の岡田虎二郎(1872~1920)は、真に霊的な偉人だった。
その岡田虎二郎のエピソードを、私はいくつか覚えているが、その中に、一般にも役に立つと思える話がある。
それは、ある男が、虎二郎に、金に窮していると打ち明けたところ、虎二郎は、
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」
と言ったというものだ。
私は、この話を昔、本で読んだ時は、あまり意味が分からなかったが、印象には残っていた。
腹に力がつけば、金がいくらでも出来るとはどういう意味だろう?

虎二郎は、最初にも述べた通り、岡田式静坐法という心身療法を指導していた。
これは、一般には健康法と理解されることが多かったが、それだけのものではなかった。
そして、静坐とは、腹を作るものであり、虎二郎は、普段から、腹に力を込めるよう教えた。
腹に力を込めることで、腹に力がつくのである。
また、虎二郎は、こう述べた。
「悪い想いというのは、腹から力が抜けている時に起こる。よって、常に腹に力を込めなければならない」

確かに、人間は、悪い想いを起こさなければ、望まずとも幸運が訪れ、あらゆることがうまくいくのである。
そして、悪い想いとは、エゴ(自我)の想い全てである。
つまり、腹に力を込めれば、エゴの想いが全く起こらず、潜在意識の力が発揮され、あらゆることでうまくいく。

とはいえ、これは、中村天風が「常に肛門を引き締めよ」と言ったことと同様、実際にやるのは難しいというか、ほぼ不可能である。
1日1時時間でも、腹に力を込めたり、肛門を引き締めるだけでも大変で、ほとんどの人は続かないだろう。
虎二郎は、「努力、忍耐、克己は不要」と言った。
そして、教えも正しかったが、それでも、普通の人は、明らかについていけなかった。

では、金がなくて困っている者には、何を教えれば良いだろう。
あるいは、別に困ってはいなくても、金が不足だと思っているという場合も同じだ。
そう言ってくる者に、「では、何が望みだ?」と聞けば、彼らは何と答えるだろう。
それは、「もっとお金を」に決まっている。
それなら、答はこうなのである。
「もうすでにお金はあるのですよ」
だが、言われた者は「どこにもないじゃないですか」と訴えるだろう。
「すでにお金はある」という意味が分からない人が多い・・・いや、圧倒的だろう。
だが、それでも、何かピンと来ているはずなのだ。

では、こんな話ではどうだろう?
ジョセフ・マーフィーがよく使った話だ。
ある大学生に、父親が、卒業したら車を買ってやると約束した。
その父親は豊かで、車を買うなんて何でもないし、また、約束を破ることは決してない人物だった。
だから、そんな父親が車を買ってくれると約束してくれたら、もう車は手に入ったも同然なのである。
そんな場合、「既にあなたの車はあるのですよ」と言っても、何の問題もない。
その大学生が、わざわざ受け取りを拒否しない限り。
それと同じなのだ。
「もう既にお金がある」と言って、それをわざわざ否定しない限り、万能の潜在意識は嫌でもお金を引き寄せるのである。
この2つの話は同じなのだと、ちょっと自分に言い聞かせれば、それで済む話なのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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