ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

吉本隆明

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

努力、忍耐、克己は必要か?

岡田虎二郎(1872~1920)の岡田式静坐法は、心身鍛錬の法と見なされるが、明らかに引き寄せ手法の一種でもあり、岡田には大物の弟子も多く、静坐法の会員は正規登録者だけで2万人いたというし、岡田式静坐法関連の本もベストセラーになっていたことから、かなり優れたものであったと思う。
その岡田虎二郎は「努力、忍耐、克己の必要を感じない」と言ったといわれる。
引き寄せの指導者にも「努力は不要」と言う人は多い。
しかし、全く努力、忍耐、克己(自分に打ち勝つ)が出来ないというのでは話にならない。
つまり、ある程度の努力、忍耐、克己は必要である。
『成功の扉』という、引き寄せのベストセラーを書いたアメリカの作家マイク・ハーナッキーは、この本を読んでも成功しないという読者と面談を行った時のことを『成功の翼』に書いていた。
『成功の扉』では、努力は全く不要で、必要なことは、この本に書いた、たった1つの心構えであると書かれている。
しかし、それを読んだ読者の多くが、電話1本かければ解決するようなことでも、その電話をかけないことを知り、ハーナッキーはかなり面食らったようだ。
私も、ひきこもり青年のカウンセリングをしていた時、「いくら何でも、このくらいの努力はしろよ」と呆れることがよくあった。

また、引き寄せ書には「悪人でも引き寄せが出来る」と書かれているものがある。
それはそうで、どんな人間でも、ある程度は悪人であり、天使のように慈悲深く清浄な心の人間などいない。
とはいえ、全くのエゴイストでは引き寄せは出来ない。
ある程度の道徳観みたいなものは絶対必要だ。

そして、どう言っても、ある程度の常識は必要だ。
40代、50代まで働いたことがない人が、初めて勤めに出たら、職場でいかに奇妙な言動をするかという報告がよくある。
また、常識のない親に育てられた若者が、学校に入学したら周囲の生徒がドン引きするほど、当たり前のことが出来なかったり、そこまででなくても、初めてアルバイトに行ったら、高校生や大学生なのに、まるで幼稚園児のような甘えた考え方を持っていて職場の人達が戸惑うことも、特に最近は多いようだ。
ところで、常識というものは、怒られない限り身に付かないのだ。
ところが、今は、児童虐待とか、パワハラに過敏になり、怒られないまま、つまり、常識を身に付けないまま、大人になり、さらに中年になった人が多い。
正直、以前は、理不尽、横暴、利己的と思えるパワハラは、学校でも職場でもあったが、そんなもので鍛えられたことがプラスになった人が相当いるはずなのだ。
「愛情ある体罰ならいい」なんてとんでもない。「愛情ない体罰」が人を大きく育てる。
もちろん、限度はあるから、それを超えないような仕組みが必要なのは言うまでもない。
だが、思想家の吉本隆明さんが『ひきこもれ』に、「学校で理不尽なこともあるだろうが、世の中の理不尽はそれどころではない。学校で理不尽な目に遭わずに世の中に出たら耐えられない」みたいなことを書かれていたが、その通りだ。
人生には「耐える力」は絶対に必要である。

窓辺の花
AIアート606
「窓辺の花」
Kay


佐川幸義流四股でお世話になっている(直接世話になってはいないが)、大東流合気柔術の達人、佐川幸義が言ったらしい。
「僕は特訓なんかしない。当たり前のことをやっているだけ」
私も、しごきに耐えるような、努力、忍耐、克己が必要とは全く言わない。
ところが、腕振り運動のことを書くと、昔、こんなコメントをしてきた人がいた。
「今は50回しか出来ませんが、100回くらい出来るようになります」
こんな感じの人が割とよくいたが、それらの人は、身体に障害があるわけではなさそうだった。
300回くらいなら、子供や老人でも、それほど大変ではない。
それを50回しか出来ないという人は、言っては悪いが、もう駄目である。
あるいは、「今日は千回やろう」とかよく言う人・・・つまり、やったりやらなかったりというか、普段はやらない人。
これらのような人には引き寄せは絶対に出来ないだろう。

逆に、よほどのことがない限り、腕振り運動を毎朝必ず千回やる人は、願わずとも幸運に恵まれ、引き寄せが起こることがよくある。
私も努力は好きではないが、嫌う必要はないと思う。
尚、私も以前はやっていたが「超少食」「超短眠」「超禁欲」みたいな変な努力をしても引き寄せが起こるわけではないが、ある程度の節制がなければ引き寄せが出来ないことも間違いないと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)岡田式静坐のすすめ
(2)岡田式 静坐のこころ
(3)静坐の道―岡田式
(4)成功の扉―すべての望みはかなえられる(マイク・ハーナッキー)
(5)成功の翼―忘れられた秘訣(マイク・ハーナッキー)
(6)ひきこもれ~ひとりの時間をもつということ(吉本隆明)

人類のほとんどが知らない重要なこと

映画監督だった伊丹十三(いたみじゅうぞう)氏をご存じかもしれない。
伊丹氏は1997年に64歳で飛び降り自殺をしている。
私の認識であるが、伊丹氏は、心理学者の岸田秀氏に心酔していたのだと思う。
おぼろな記憶だが、伊丹氏は岸田氏の著作の1つであとがきを書かれていたが、その中で、
「それまで、帽子を被せられた虫(カブト虫?)のように思考や能力が制限されていたが、岸田先生の唯幻論により解放された」
みたいなことを書かれていたと思う。
ちなみに、伊丹氏は多彩な活動をされていた、極めて優秀な人だった。

実は、私は、伊丹氏のその記述を読んだ時、かなり共感したものだった。
まあ、今でも、私は、岸田氏は普通の心理学者より優れていると思う。
「心理学なんてデタラメで嘘だらけだ」と言うあたりね(笑)。
しかし、伊丹氏ほど優秀な人がなぜ騙されたのかと思う(岸田氏が騙したのではなく、伊丹氏が嘘を信じたという意味)。

伊丹氏は、読書中毒と言えるほどの大変な勉強家だったようだ。
だが、伊丹氏がやるべきだったのは、仕事で必要なもの以外の本を捨てることだったと思う。
真理は本の中に書かれてはいない。
思考を消せば、人間の知恵をはるかに超えた知恵を持つ魂と一体化するのである。

岸田氏の「唯幻論」は、思想家の吉本隆明(よしもとたかあき。よしもとりゅうめいとも言われる)氏の「共同幻想論」とよく似ているが、そもそもが、「唯幻論」は「共同幻想論」を参考にしたという話を見た気もする。
「共同幻想論」では、人間の思考は、3つの幻想から出来ているとする。
その3つとは、
(1)個人幻想
(2)家族などの小規模なグループで共有する対幻想(ついげんそう)
(3)大規模な集団(学校、企業、国)で共有する共同幻想
である。
思考は全て幻想であり、だから、国家すら幻想である。
岸田氏の「唯幻論」は、「共同幻想論」の「対幻想」がなく、「個人幻想」と「共同幻想」の2つとするが、人間が、幻想の中で生きているというところは同じだ。
というより、「唯幻論」では、自我そのものが幻想であるのだが、幻想は全て狂っているとする。
だから、人間は全て狂っているという、なかなか刺激的で面白いものだ。
「唯幻論」は、岸田氏自身も言う通り、フロイトの理論そのままだ。
尚、吉本氏は、幻想は幻想であり、幻想が狂ったものとは言わず、よって、人間は狂っていると言っているわけでもない。
たとえば、初音ミクさんが天使だという幻想を持っていても、だから狂っているとは言えない・・・多分(笑)。

涼しい風景
AIアート252
「涼しい風景」
Kay


私は「共同幻想論」も「唯幻論」も嫌いではなく、面白いと思うし、どちらも役に立つところがあると思う。
あえて言えば、吉本氏の『共同幻想論』は、文章が難しいわけではないが、やたら抽象的だし、古い引用が多く(それを知ってることを前提として書かれている)、とても読めたものではない。
そこにいくと、『唯幻論』は、それほどIQが高い者でなくても分かり易いと思う。

確かに、「共同幻想論」「唯幻論」で言われる通り、人間の思考は幻想で出来ており、必ず不幸な人生を送る。
その意味、岸田氏が言う通り、全ての幻想は狂っていると言って良いかもしれない。
それなら、思考を消して幻想を一掃すれば良い。
そうすれば、神のように全知全能であるが、それはまだ、ほとんど誰も知らない。吉本氏も岸田氏もフロイトも。








ぼーっとする練習

「今に意識を合わせる」とはどういうことか、それを説明出来ないまでも、どうすれば、それが出来るか?
おそらく、後者の「どうすれば、今に意識を合わせることが出来るか?」の方が簡単なはずだが、もし、それを誰でもやれるように説明出来れば、その功績はノーベル賞どころではない。
世の中には、それが出来る人がいるし、自分のやり方を言う者もいるが、まともな言葉で言うのを聞いた試しはない。
長嶋茂雄さんという、偉大なプロ野球選手の中でも異例なほど特別視される人物がいるが、彼が、特に打撃理論に関しては、意味が分からないことを言ったという話がよくある。
例えば、極端に言っているのかもしれないが、「ぐっとして、すっと感じたら、ばっとやるんだ。分かる?」と、全然分からないことを言っていたらしいが、本人には分かっているのだろう。
実際には、もっと丁寧に言っていたのだろうが、言われている方は、やっぱり意味が分からない場合が多いのかもしれない。
しかし、高度なことに関しては、それは仕方がないところもある。
例えば、初音ミクファンに、初音ミクのどこが良いのかと聞いたら、初音ミクファンは、やはり意味不明な説明をするか、「とにかくいいんだ」とか言うだろうし、言葉できちんと説明しようとしたら、思っていることのほとんどが伝わらないだろう。
映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の、原作小説で、主人公のダニーという11歳の少年が、同い年の美少女メロディに初めて会った時の気分を、「天国」だと言い、「僕は良いことがあると天国だって感じる」みたいなことを言っていたが、では、「天国って、どんな感じだ?」と聞かれたって、ダニーに説明は出来まい。
また、ダニーは、メロディを表現する適切な言葉は「デリカシー」だと言うが、「どんなところが、どうデリカシーなんだ?」と聞かれても困るだろう。
もし、ダニーが言葉の勉強を積み、かなり立派な言葉が使えるようになっても、やはり、そんなことを他人にきちんと説明することは難しいだろう。

それで、最初の「今に意識を合わせる」だが、これは、一見、簡単なことのように思えるが、これが出来れば、引き寄せが自在だし、世界を支配することも出来るかもしれない。
この「今に意識を合わせる」ことは、スピリチュアル界隈では「今今メソッド」と呼ばれ、説明している人は何人もいると思うが、やはり、伝わっていないのである。
例えば、ある者は「今やっていることに全力で集中することです」と言い、それはその通りなのだが、そう言われた者が、言った方の意図通りのことをやることは滅多にないだろう。
それで、宗教的な修行の中には、歩いている時には「歩いている、歩いている」と、食べている時には「食べている、食べている」と心で唱えることにより、今に意識を合わせるコツを自分で掴めるようにするものがある。
これは悪い方法ではないが、本気でやる者は少ないと思う。それで、大抵の者は、今に意識を合わせることが出来るようにならない。

今に意識を合わせれば、とても懐かしい感じがすると思う。いや、そうでないこともあるかもしれないが・・・
なぜ、懐かしい感じがするのかというと、幼い時は、常に今に意識を合わせていたからだ。それは、3歳くらいまでのことであるが、人間は3歳くらいまでの記憶は持っていない。
だが、5歳くらいまでは、常にではなくても、今に意識が合っていることが多いのだと思う。おそらくは、それを思い出して、懐かしいと感じるのだと思う。
人によっては、かなり大きくなるまで(たとえば小学校高学年まで)、今に意識を合わせることを簡単に出来る者がいるが、それをやっていると、学校では「ぼーっとするな」と言われるものだ。
今に意識を合わせていると、世間的な人間からは「ぼーっとしている」ように見えるのである。
授業中では、そんなことをしていると怒られるので、今に意識を合わせることをしなくなる。
だが、引き寄せの力が強い人というのは、ぼーっとしていることが多いのである。

それで、今に意識を合わせ、引き寄せの力を高めるためには、ぼーっとすることが有効である。
ただし、「ちゃんと」ぼーっとしないといけない。
学校では「ぼーっとするな」と言われるが、本当に良い学校とは「ちゃんと」ぼーっとすることを教える学校なのかもしれない。
引き寄せのメソッドなど、全て、「ちゃんと」ぼーっとするためのテクニックなのだろうと思う。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、なるべく多く「ありがたい」と言えと教え、自分もそうしていたが、彼が「ありがたい」と言う時は、さぞ、ぼーっとしていたと思うのだ。
学校の教室でぼーっとしてたら怒られると言ったが、天才的に勉強が出来る子供って、案外にぼーっとしているのである。
我々は、全力を上げてぼーっとする練習をしなくてはならない。
しかし、こう言ったら、必ず、的外れなことを思ったり、言ったり、あるいは、やる者が必ずいるし、むしろ、それが大勢かもしれない。
真面目にとか、本気でなどと言うと、誤解し易いかもしれない。
けれども、「丁寧に」ぼーっとしろと言えば、少しは伝わるかもしれないと思う。

吉本隆明は、自分の子供達ががぼーっとしていたら、おつかいに行かせるようなことをせず、この日本最大の思想家が、自ら買い物かごを持って奥さんに言われた通り、野菜や魚を買って来たという。
さすがである。








「考えるな、感じろ」と言われたら皆必死で考えてしまう

本物の霊的指導者なら、必ず指示する訓練法がある。
それは本来、それだけで良いというほど価値あるものだ。
それは、「自分の心を観察する」ことである。
ところが、これほど重要な訓練でありながら、文字で書かれたものは、あまりに手抜きで大切な注意が全部省かれている。
その理由は、抽象的に語られていたり、聞きかじっただけの人が間違ったやり方を話したり、翻訳者が誤解をしていたなどであると思う。

例えば、日本教文社のヴァーノン・ハワードの本では、ハワードは、「痛む心」「ぐらつく心」を観察するよう指示する。
そのやり方は、「科学者のように冷徹に観察する」であるが、読者は科学者でない場合が多いので、誤解する。
科学者が何かを観察する場合、あるがままを無心に観察する場合もあれば、思索しながら観察する場合もある。
ここでハワードは「冷徹に」と書いてはくれているが、「冷徹に考えながら」と思ってしまう人も多いだろう。
偏見のある者には、心を正しく観察する方法を毎日10分教えても(10分以上教えても無駄である)、1年で理解させられない可能性が高いほどだ。
そして、ほとんどの者は偏見を持っている。

だが、「観察する」ではなく「観照する」という言い方をしてくれている人がいて、これはとても良いことであるはずが、なんと、この著者(あるいは翻訳者)は、「観照」の意味を述べていない。
観照をgoo辞書で引くと、

1 主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。

「僕は単に存在するものをそのままの状態で―して」〈島木健作・続生活の探求〉

2 美学で、対象の美を直接的に感じ取ること。美の直観。

となっているが、やはり、誤解を与える。
1で言えば「主観をまじえないで物事を冷静に観察して」までは良いが、「意味を明らかにすること」で間違う。
「意味を明らかにすること」と言ったら、自分で考えて明らかにしようとするのだ。
学校では、「答は先生に教えてもらう」か、「自分で考えて答を見つける」という方法だけを教わるのだから、当然、間違う。
2の「美学で、」の方は、抽象的過ぎて、普通の人には分からない。学校やテレビは、そんなやり方は教えない。
それに、この美学のやり方を語る者だって、ほとんどの者が本当は分かっていない。

「観照する」を分かり易く言うと、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じるリーが弟子の少年に言った「考えるな、感じろ」なのだが、あの少年は、あれで分かったとは思えないし、やっぱり、抽象的過ぎて、ほとんど誰も分からない。
まず、学校やテレビで学んだ人は「考えるな」からして分からない。
一般的に「何も考えていない」というのは、「余計なことを考えている状態」と理解されている。
「感じろ」は、特に、学校では徹底して排除されている。
どう感じるかを言葉にしないと試験で評価出来ないからだが、感じ(フォーリング)は言葉にすれば変質してしまう。
学校に行かなかった者が真に優秀なのは、そんなことをさせられなかったからだ。
アインシュタインは「感じ」を言葉にすることを拒否したので、劣等生として教師に迫害された。

「考えるな、感じろ」と言われたら、普通の人は「必死で考えてしまう」のだ。
いや、「感じろ」と言われても、「ちゃんと感じていると評価されるためには、どんな反応をすれば良いか」と考えるのだ。
学校の弊害はもう、救いようがない。

「考えない」「感じる」というのは、傍から見たら、「ぼーっとしている」状態でしかない。
だから、ちゃんと「考えていない」「感じている」生徒は、教師に「ぼーっとするな!」と怒られるのだから救われない。
思想家の吉本隆明氏は、ぼーっとすることの大切さを理解していた。
だから、子供達(娘2人)がぼーっとしていたら、彼女達が母親に買い物を命じられたら、この日本最高の思想家が自ら買い物かごを持って大根やイワシを買って来たのだ。

学校の音楽の時間に、せっかくCD等で名曲を聴いても、「どう感じたか?」などと、阿呆な質問をされ、阿呆なことを言わされてしまうのだ。
もう、学校なんか行くなよと言いたいが、実際、アメリカではアンスクール(非学校教育)という素晴らしいものが普及し始めているようだ。
『バカをつくる学校』(ジョン・テイラー・ガット)という、ベスト教師賞を受賞した教師が書いた、なかなか良い本があるが、馬鹿になりたくなければ学校には行かないことだ。
日本は、1憶総馬鹿生産の体制が強力である。
岡本太郎式に言えば、
「ぼーっとするなと言われてもいい。いや、ぼーっとするなと言われないといけない」
である。

神様になるなら、自分の心をぼーっと感じることだ。
分かるかなあ・・・








我々はイエスやクリシュナの何にシビれるのか

『新約聖書』の『福音書』や、『バガヴァッド・ギーター』を読むと、素晴らしい爽快感のようなものを感じるのだが、その理由は、主役たるイエスやクリシュナの、並ぶもののない卓越性、無敵性、絶対的強さによる、圧倒的な自信のためだ。
人間は、そういった存在が好きだし、必要でもある。

そして、我々自身、可能な限り、イエスやクリシュナの強さを持たなければならない。
これは、不遜なことではなく、彼らも明言した通り、彼らが我々の内に、あるいは、共にいるというのは、とても科学的な意味であり、それは実は、我々が彼らと一体に、そして、同じになれるということであると思う。
実際、人間は、そのようでなければならないと思う。

子供が、アニメで、卓越して優れた、格好良いヒーローやヒロインを見た時、自分が、そのヒーローやヒロインになりきってしまうのは、とても健康的で正常な心構えである。
エマーソンもエッセイ『歴史』の中で、英雄の物語を読む時は、自分の物語を読んでいるのだと認識しなければならないと述べている。
今は、アニメのヒーローやヒロインが、強くて優秀というよりは、親しみのある、あまり強くないばかりか、ヘタレ(臆病で情けない)で駄目なキャラクターであることが多くなったが、それは、今のアニメ(および、その原作のライトノベルや漫画)の多くが、子供向けでなく、残念な大人を対象にしているからだろう。
しかし、例えば、『魔法科高校の劣等生』の司波達也のような惚れ惚れする強い優秀なヒーローを見ると、やはり心躍るものがあると思う。

そして、何度も言うが、優秀になる・・・ある意味、プロになるのは難しいことではなく、単に時間をかければ良いのである。
具体的には、1万時間の時間を費やせば、そのことで卓越した強者になれる。
これも何度か取り上げたが、チームラボの猪子寿之社長が、夏野剛氏(現ドワンゴ社長)との対談で、「人間に差はない。天才はいない。アウトプットは、単にかけた時間だけで決まる」と言ったのは、特殊な例外を除いて、ほぼ真実であると思う。
英語でも、自動車整備でも、1万時間をかければ、誰にも負けない能力が身に付き、自信を得ることが出来る。
きっと、司波達也も、魔法技術に1万時間以上かけたのだろう。
しかし、これは、「超優秀な司波達也は、魔法技術に1万時間以上かけただけ」とも言えるのである。

私は、リレーショナル・データベースというものに1万時間以上をかけたので、いかなるものごともデータの関連性として捉えることが出来る。
あらゆる情報を適切に結び付けて、新しく有意義な情報に変えることが出来る。
それが出来れば、システム開発など楽々である。
今なら、高度なリレーショナルデータベースおよび、それを扱うツールでは、マイクロソフトAccessが僅か2万円以下で変えるし、Accessと組み合わせることで、そこそこの規模のことが出来るマイクロソフトSQL Server Expressは実に無料だ。無論、上位のSQL Serverを使えば、ビッグデータすら扱えるが、規模の差だけで、両者はほとんど同じものだ。
ちょっと専門的になったが、無償のSQL Serverがある限り、私は、Accessより他のリレーショナル・データベースにあまり興味がない。
それに、Accessなら、自分1人で達人になれる。

英語だって、1万時間かければ武器になる。
超有名な評論家だった竹村健一氏は「僕は英語を武器にして世に出たが、僕の英語なんて素人に毛が生えた程度ですよ」と言われていた。
しかし、やはり、1万時間かけた英語だったが、別に彼は、外大や英語学校に通ったわけではない。何も特別なスキルはなかったが、それでも、積極的に外国人と交流しただけである。

日本を代表する思想家の吉本隆明氏は、「物書きになりたいなら、毎日10年書け。書けなくても書こうとしろ。10年やれば必ずものになる」と著書に書かれていたが、1日3時間弱書けば10年で1万時間だから、やはり、1万時間かけろということだ。
逆に言えば、プロの物書きになるには、それくらいは書く(あるいは、書こうとする)ことが必要なのだろう。
ギターやドラムやピアノはどうかというと、必ずしもバンドで食べられるようになるわけではないが、1万時間やれば、力と自信を得、なんらかの道が開けると思う。

イエスやクリシュナも、とんでもなく長い時間を費やしたので、人類を超えたのだと思う。
その力と自信に、我々はシビれるのである。
とりあえず私は、司波達也にシビれているが・・・












プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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