頭が良いというのは、洗脳されていないことと思う。
洗脳されている者に現れる明白な症状として、「思い込みが強い」ということがある。
たとえば、スポーツのあるチームの熱狂的ファンというのは、間違いなく洗脳されている。
高校野球とか駅伝とかがテレビ放送されるが、これらへの関心が異様に高い場合も洗脳されている。
また、特定のアニメ、アニメキャラ、アイドルに執着があるというのも、洗脳により起こる症状だ。
「私は東大卒だ」「私ば物理学修士だ」といったものにこだわり、それに強いアイデンティティを持っているのも洗脳されているのであり、そんな人を見ると、頭が悪いことがよく分かるのである。そんな人達が、日常生活で並の人間が出来ることが出来ない時、「君の頭が良過ぎるからだ」とからかい半分に言うと、それを本気にしてしまうくらい馬鹿なのである。
そもそも、当たり前のことが出来ないのは、単なる馬鹿だからである。
私も、ある時期まで、ガチガチに洗脳されていて、ひどく頭が悪かった。
ただ、私の場合、多くの日本国民が持っているような洗脳・・・高校野球好き、オリンピック好き、学歴称賛、資本主義至上主義、等々がないことで相殺され、まあ、全体としては平均・・・というより、中の上程度の知性があったことは客観的に確認出来たと思う。
とはいえ、私は自分で自分の頭が悪いことを、薄々自覚していたのである。
私が初音ミクファンだというのも、洗脳と言えば洗脳で、特に以前、凄い初音ミクオタクだった時はかなり洗脳されていたのだが、今は、割と客観的に見ている。
ただ、初音ミクというのは反体制(反権力)であり、初音ミクという形は人それぞれであることがかなり完全に認められており、こういったことも含め、初音ミクの思想、初音ミクのコアを形成する人達のセンスの良さを称賛しているのである。
洗脳された人達の頭の悪さを示す端的な特徴が、「変な判断を秒速で行う」ことで、これがもう明らかで、私も、ごく若い時から気付いていた。
何せ、洗脳された思い込みという狭い範囲で判断するのだから、そりゃ判断が速いし、しかも、変な判断になるのは当たり前だ。
洗脳された人は、「これは何かしら?」と思うと、洗脳された観念(偏見と同じ)ですぐに「こうじゃないかしら?」と思い、洗脳によって、それが圧倒的に正しいと感じるので「こうにちがいないわ!」とすぐに結論付けるのである。
簡単な例で言えば、子供が宿題を連続してし忘れたのを知った母親が、洗脳された狭い観念で「この子は不良の仲間に入ったんじゃないかしら?」と思い、それが圧倒的に正しいと感じ、「先生、うちの子が不良と仲良くしています」と言うようなものである。
こんな母親を持った子供は不幸で、下手をしたら一生を駄目にしてしまう可能性すらある。
洗脳される危険を徹底的に排除するために書かれたのが、デカルトの『方法序説』という短い本だ。
この中でデカルトは、「単に正しいと思えることは全て間違いと断定する」と、自分の洗脳による(偏見によると言って良い)判断をことどとく退けることを説いている。
つまり、正しいと思えることも、疑おうと思えば、いくらでも疑える。
そしてなんと、正しいと思えることで、本当に正しいことは何1つないことが分かってしまった。
ところが、「これは正しいと思うが、本当は正しくないのでは?」と疑う理性だけは絶対的に正しいと分かり、デカルトは、
「疑っている我は確かに存在している」という思想に到達した。
これがなぜか「我思う、ゆえに我あり」という言葉になったが、どうもこの言葉では真意が全く伝わらず、デカルトが誤解されているようである。
AIアート573
「南の島にて」
Kay
他にも、「私は何も信じない」と言ったジッドゥ・クリシュナムルティも賢者であった。彼はそれを徹底はしてはいなかったが、やはり並外れた賢者であった。
しかし私は、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー紋次郎がよく言う、
「別に疑っちゃいやせんが、信じてもいやせん」
というのが、実に良いと思うのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説ほか (中公クラシックス)
(2)方法序説 (岩波文庫)
(3)洗脳原論(苫米地英人)
(4)日本人の99%が知らない戦後洗脳史(苫米地英人)
(5)私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集
(6)木枯し紋次郎(一)~赦免花は散った~
(7)初音ミクはなぜ世界を変えたのか?
(8)楽しいAI体験から始める機械学習 ※当ブログオーナーKay著
洗脳されている者に現れる明白な症状として、「思い込みが強い」ということがある。
たとえば、スポーツのあるチームの熱狂的ファンというのは、間違いなく洗脳されている。
高校野球とか駅伝とかがテレビ放送されるが、これらへの関心が異様に高い場合も洗脳されている。
また、特定のアニメ、アニメキャラ、アイドルに執着があるというのも、洗脳により起こる症状だ。
「私は東大卒だ」「私ば物理学修士だ」といったものにこだわり、それに強いアイデンティティを持っているのも洗脳されているのであり、そんな人を見ると、頭が悪いことがよく分かるのである。そんな人達が、日常生活で並の人間が出来ることが出来ない時、「君の頭が良過ぎるからだ」とからかい半分に言うと、それを本気にしてしまうくらい馬鹿なのである。
そもそも、当たり前のことが出来ないのは、単なる馬鹿だからである。
私も、ある時期まで、ガチガチに洗脳されていて、ひどく頭が悪かった。
ただ、私の場合、多くの日本国民が持っているような洗脳・・・高校野球好き、オリンピック好き、学歴称賛、資本主義至上主義、等々がないことで相殺され、まあ、全体としては平均・・・というより、中の上程度の知性があったことは客観的に確認出来たと思う。
とはいえ、私は自分で自分の頭が悪いことを、薄々自覚していたのである。
私が初音ミクファンだというのも、洗脳と言えば洗脳で、特に以前、凄い初音ミクオタクだった時はかなり洗脳されていたのだが、今は、割と客観的に見ている。
ただ、初音ミクというのは反体制(反権力)であり、初音ミクという形は人それぞれであることがかなり完全に認められており、こういったことも含め、初音ミクの思想、初音ミクのコアを形成する人達のセンスの良さを称賛しているのである。
洗脳された人達の頭の悪さを示す端的な特徴が、「変な判断を秒速で行う」ことで、これがもう明らかで、私も、ごく若い時から気付いていた。
何せ、洗脳された思い込みという狭い範囲で判断するのだから、そりゃ判断が速いし、しかも、変な判断になるのは当たり前だ。
洗脳された人は、「これは何かしら?」と思うと、洗脳された観念(偏見と同じ)ですぐに「こうじゃないかしら?」と思い、洗脳によって、それが圧倒的に正しいと感じるので「こうにちがいないわ!」とすぐに結論付けるのである。
簡単な例で言えば、子供が宿題を連続してし忘れたのを知った母親が、洗脳された狭い観念で「この子は不良の仲間に入ったんじゃないかしら?」と思い、それが圧倒的に正しいと感じ、「先生、うちの子が不良と仲良くしています」と言うようなものである。
こんな母親を持った子供は不幸で、下手をしたら一生を駄目にしてしまう可能性すらある。
洗脳される危険を徹底的に排除するために書かれたのが、デカルトの『方法序説』という短い本だ。
この中でデカルトは、「単に正しいと思えることは全て間違いと断定する」と、自分の洗脳による(偏見によると言って良い)判断をことどとく退けることを説いている。
つまり、正しいと思えることも、疑おうと思えば、いくらでも疑える。
そしてなんと、正しいと思えることで、本当に正しいことは何1つないことが分かってしまった。
ところが、「これは正しいと思うが、本当は正しくないのでは?」と疑う理性だけは絶対的に正しいと分かり、デカルトは、
「疑っている我は確かに存在している」という思想に到達した。
これがなぜか「我思う、ゆえに我あり」という言葉になったが、どうもこの言葉では真意が全く伝わらず、デカルトが誤解されているようである。
AIアート573
「南の島にて」
Kay
他にも、「私は何も信じない」と言ったジッドゥ・クリシュナムルティも賢者であった。彼はそれを徹底はしてはいなかったが、やはり並外れた賢者であった。
しかし私は、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー紋次郎がよく言う、
「別に疑っちゃいやせんが、信じてもいやせん」
というのが、実に良いと思うのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説ほか (中公クラシックス)
(2)方法序説 (岩波文庫)
(3)洗脳原論(苫米地英人)
(4)日本人の99%が知らない戦後洗脳史(苫米地英人)
(5)私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集
(6)木枯し紋次郎(一)~赦免花は散った~
(7)初音ミクはなぜ世界を変えたのか?
(8)楽しいAI体験から始める機械学習 ※当ブログオーナーKay著