どんな惨めな子供時代であったとしても、真実の瞬間はあったはずだ。
それがどんな時だったかは人それぞれであるのだけれど、例えば、明日から夏休みという日の学校帰りに、恍惚とした気分になったことはなかっただろうか?
あるいは、名前も知らない子と知り合い、思いつきの遊びをした時に楽しくて仕方がなかったということはなかっただろうか?
そんな時、周りには、「ア」の音が溢れていたのだ。
「ア」は神の名である。それは天であり、吾である。
それは、空に大地に、そして、宇宙全体に密に充満している。
だから、あの幸せを自分のものにするために、あなたは、自分に「ア」と言わなければならない。
「ア」と言えば、全ての想念は、そこに引き込まれて消えてしまう。
なぜなら、全ての想念は吾(ア)という想いから始まるのだから、「ア」と言えば、想いはそこから出て行かないからだ。
一切の想念が消え、無になった時、神の名である「ア」は無限に鳴り響いている。

理屈は分からなくても、ただ、常に自分に「ア」と言えば良い(心の中で)。
あるいは、「吾(ア)は誰か?」と問うのだ。
ラマナ・マハルシの本には、「私は誰か?」と問えと書かれているが、実は、「私(わたし)」では駄目だったのだ。
「吾(ア)は誰か?」、あるいは、せめて、「吾(われ)は誰か?」と言わなければならなかったのだ。
私は、それを知らなかったので、ずっと何も起こらず、せいぜいが眠くなる程度だった。それはそれで良いことなのだけれど。
ニサルガダッタ・マハラジの本には、「あなたが確信できる唯一のことは、『私は在る』ということだけだ」と書かれているが、そうではない。
「吾(ア)は在る」と言わなければならないのだ。しかし、わざわざ「ア」を重ねる必要もない。
「ア」と言えば、それが、「吾は在る」ということだ。
「アー」と声を出せば、「吾は在る」という感覚がよく分かる。
「アー」と声を出せば、頭頂が開き、神が降りてくる。頭は良くなり、直感は冴え、素晴らしいアイディアがいくらでも閃く。
「アー」と声を出せば、悪霊を払い、運が良くなる。

「ア」が満ちていた瞬間を思い出すことだ。
「ア」を唱えて、その時と一致するのだ。時間は幻想であり、実際には無い。
「ア」を唱えれば、あの時の幸せは、いつでもあなたのものである。
「あの頃は良かった」と言うなら、あなたは、いつでもあの頃であり、いつでも良いのである。
「17の頃は良かった」というなら、「ア」と言えば、あなたは17に戻っていくだろう。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を読むと、戸籍では400歳なのに18歳にしか見えない少女が登場するが、それはそれで可能なことなのだ。
あの書に登場する百歳以上ながら50歳にしか見えないヒマラヤの大師の母親は、やはり二十歳前の驚くべき美しい少女にしか見えなかった。
やはり、「ア」に満ちていたからだ。
腕振り運動をする時に、「ア」と唱えながらやっても良いのである。
腕振り運動をすると、「ア」が体内に蓄積される。そして、自分に「ア」と言えば、体内の「ア」が、その「ア」と共鳴し、光を発するのである。
すると、60歳の人が、どうみても、40歳にしか見えないようになるのである。
いつも同じことを書くようであるが、「ア」の大切さを掴んで欲しいと思うのである。









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