ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

社会・教育

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

愛すべき偽物達

音楽家、建築家、プログラマー、スポーツ選手・・・何になるにも、正統派の道を順調に進むことが出来るならそれで良いのだろうが、変則的な道もある。
だが、変則的な道を行く者は、大なり小なり、「偽物」扱いされる。
ここで、分かり易く、正統派を「本物」、非正統派の我流で行く者を「偽物」と言う。

アインシュタインは偽物の科学者だ・・・と、言い切ってしまおう。
彼は、無試験で入った工科大学の講義には全く出席せず、1人で勉強し、卒業してからも、大学の研究室に入るのではなく(入れなかった)、特許局の職員をしながら1人で研究をしていた。
全くの我流の研究者だ。
だからこそ、既成概念に囚われない独創的な発想が出来たのだと思う。

コリン・ウィルソンは世界的作家・評論家だが、家が貧しかったので高校に進学出来ず、工場労働者をしながら、図書館で1人で勉強していた。
だからこそ、普通の作家が目を背けるような分野に平気で取り組み、心理学者のマズローと交流していた時も、心理学において、マズローを超える重要な視点を持てたのであると思う。

音楽家の冨田勲氏は、実に、音大出身ではない。
冨田氏は、1970年当時、「本物」の音楽家が見向きもしない電子音楽に興味を持ち、個人で当時一千万円もしたモーグ・シンセサイザーを購入し、シンセサイザー音楽の世界的ヒットアルバムを数多く出し、80歳の時には、クラシック・オーケストラが演奏する『イーハトーヴ交響曲』の歌唱に初音ミクを採用した。
「偽物」でなければ出来ないことだったと思う。

西尾維新氏の人気小説である『物語』シリーズで、怪しげなマスター達3人が、「本物と偽物、どちらが値打ちがあるか?」という議論をしたらしい。
回答は、1人が「本物の方が値打ちがある」、別の1人は「同等」、そして、私が敬愛する3人目(詐欺師だが)は「偽物が圧倒的に上」と言う。
偽物は、自分は偽物という引け目、劣等感があり、だからこそ、本物に勝とうとする。
しかし、本物は、元々自分は優れていると思っているので、それほど向上しないのだ。

アメリカ大統領選挙において、ヒラリー・クリントンやジョー・バイデンは、弁護士、政治家として華々しいキャリアを積んできたエリート・・・つまり、「本物」である。
一方、ドナルド・トランプは、若い時からニューヨークの不動産王として脚光は浴びてはいたが、あくまでビジネスマンであり、しかも、大きな失敗も数多く経験した。大学で法学や政治学を学んだ訳ではなく、政治家としては、明らかに「偽物」である。
だが、大統領就任後、いろいろ問題もあったが、公約のほとんどを実現し、アメリカ経済を近年にない好況に導いた。偽物の方が実力があったのだ。

蛇足だが・・・
私も、「偽物」のプログラマー、SEで、大学の情報科を出た訳でも、企業で本格的な研修や技術指導を受けた訳でもない。
全くの「偽物」だ。
そんな私は、普通の仕事では役立たずで、チームの仕事は不得手だが、誰も取り組まない仕事を好んで引き受けて、なんとかやり遂げてきたと思う。
別に「本物」が嫌いな訳ではないが、ヒラリーやバイデンのような、そして、今はオバマもそうであるような、エリート特有の上級人類の顔は、やはり、あまり好きでない。
ウィルソンや、冨田氏や、西尾維新氏の小説の詐欺師、貝木泥舟(かいきでいしゅう)や、そして、ドナルド・トランプなどの「偽物」には、直観的・本能的な親しみを感じるのである。
トランプは、アメリカの主要メディアを敵に回して、「偽物らしく」我流で堂々と戦っている。
NHKがまるごと引用するCNNニュースなどの世論支持率は、バイデンに10%ほどサバ読みを入れている。まあ、正確には、バイデンが有利になるような方法で世論調査を行っているのである。
しかも、バイデン一家の汚職疑惑については、一切報道しない。
こういったことによる、世論誘導(早い話が洗脳)がおおっぴらに行われているのだと思う。
一方、前回大統領選で、トランプ勝利を予測した数少ない政治世論調査会社で、しかも、激戦州のほとんどの結果を当てたトラファルガー・グループは、今回もトランプ勝利を予想している。
FOXニュースは、トラファルガー・グループの予想や、バイデンのウクライナ疑惑の記事も載せていて、最も参考になると思う。
郵便投票による不正・・・とまでは言わないが、アメリカの郵便事情から考え、本当は郵便投票は問題が多いのも確かなのであるし、本当に民主党の不正もあるかもしれない。
なんとか「偽物」トランプに頑張って欲しい・・・と個人的には思っている。








やって良いことと悪いことの区別がついていない私達

今日、10月31日は、ケルト民族の大晦日であるらしく、明日がケルト民族の新年ということと思う(よく知らないが)。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)

日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。

ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。

「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。

「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。

そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。

「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。








コロナが来た理由に気付けるか

ショートカットの女性が好きな人も少なくはないだろうが、ロングヘアの女性はやはり良いものだし、ロングとまでは言わなくても、ある程度は髪が長い方が好きと思う人は多いと思う。
ところが、昔、田嶋陽子氏がテレビで言われていたが、女の髪が長いのは、男がひっ捕まえるのに都合が良いから、そういうふうにさせられたのが起源であるらしい。
そこは、公式サイトで「女性学研究者」とも紹介されている田島氏が言われたことだから、無闇に否定も出来まい。

男が好みの女を捕獲するのが代表的な例であるが、傲慢な権力者は、自分の都合で庶民に強引に近づくものである。
庶民が良いものを持っていたら近寄ってこれを奪い、庶民が気に食わないことを言ったら近寄って打ったり切ったりする。
逆に、庶民が権力者に近付くことはないし、多くの場合、近付くことが出来ない。
身分が同じ位であれば、腕力や立場が強い方が低い方に近寄って、権力者がやるようなことをする。

だが、身分の上下に関わらず、優れた人間は、必要がなければ、他者に近付こうとはしない。
それ(必要もないのに他者に近付かないこと)が、他者に対する敬意であるからだ。
人間は、敬っている相手には必要以上に近寄らないし、見下している相手には無遠慮で近付くのだ。
男は、天使のように崇めている女には許可なく近寄らない一方、軽く思っている女には図々しく近寄っていくのである。

ここまで言えば、優れた人は気付いただろうが、新型コロナウイルスは、天が人類に「他者に敬意を持て」と教えるために発生させたのである。
まあ、直接的な発生原因は一部の者達の手違いによるのかもしれないが、それが起こることを許したのは天である。
そして、敬意を持つとは、必要もなしに他者に近寄らないことだ。
だが、いまだ、傲慢で愚かな者は、それが分からず、よって実践しないので、人類がどんな手を使っても、新型コロナウイルスは拡散する一方で、収束する気配はない。

人間には、孤独が必要である。
そして、特権階級の者達が、極端に広い場所を占有しなければ、人類全てに、十分な孤独のための場所があるのである。
男女、人種、貧富等による差別とは、孤独が与えられる度合いのことなのだ。
だから、皆で十分な場所を分け合い、誰もが、傲慢な者の都合で勝手に孤独を破られない世界になれば、この世界から差別が消えたことになるのである。
そんな世界に近付かない限り、コロナは猛威をふるい続けるだろうし、そんな世界になる見込みがなければ、人類は衰退し、滅びに向かうことだろう。
他を敬わない者、他の孤独を尊重しないような人類に存在価値はない。
逆に言えば、他を敬い、他の孤独を尊重し、求められもせず必要もないのに他者に近付かないようにすれば、天は、その者に福徳を与えるだろう。
そして・・・こんなことを付け加えるのも下らないとは思うが、自分の都合だけで他に迷惑をかける者に孤独が与えられないのは当然である。
世の中には、不快な音、臭い、物体、熱や光、その他のものを周囲に放たずにいられない者も少なくないが、それは、自分そのものでなくても、自分の作用が他者の尊重すべき領域に入り込んでいるのである。
そのような・・・自分が大騒ぎしてゴキゲンなら周囲が不快でも意に介さないような者は、この世に存在させる訳にはいかないように思う。
今は、その巻き添えでコロナに感染する者も少なくない。
今、他者の聖域を犯す者が無理矢理に排斥されることになれば、人類の8割以上が消えることになるかもしれない。








親友や恋人の正体

この世界の謎や、引き寄せを説明するには、パラレルワールド(並列宇宙。並行宇宙)を基にすると分かり易いし、逆に、そうでないと、分からないことが多い。
あなたは、同時に無数に存在する宇宙の中で、特に、この宇宙にフォーカス(焦点を当てること)している。
あなたがサッカーのスーパースターや、大会社の社長である宇宙ではなく、しがないサラリーマンであるこの宇宙を。
では、他の人はどうだろう?
ヒンズー教や、その影響を受けた仏教では、他人は存在しないとも言うが、その通りだ。
しかし、その言葉の正しい意味は、他の人は、少なくとも、あなたほどには、この宇宙にフォーカスしておらず、夢の中を生きているようなもの、あるいは、操り人形のようなものと言えるだろう。

アニメ『美少女戦士セーラームーン』の主題歌『ムーンライト伝説』で、
「同じ地球(くに)に生まれたの ミラクルロマンス」
という歌詞があるが、同じ地球と言うよりは宇宙だが、ここに生まれたのは、全人類のことを言っているのではない。
この宇宙にフォーカスしている者同士のことである。
セーラー戦士というのは、全員、この宇宙にフォーカスしているのだろう。

この宇宙に強くフォーカスしている者同士が、親友や恋人になるのである。
だが、夫婦となると、そうでない場合も多いので、夫婦だからこそ他人感が半端ない。
ただし、この宇宙にフォーカスしている者同士の夫婦なら、生き生きとした関係を続ける。
とはいえ、夫婦の片方が、途中で別の宇宙にフォーカスしてしまうこともある。
そうなると、やはり、「情熱が消えた」感が半端ない(笑)。

では、敵というものは、この宇宙にフォーカスしているかというと、そうである場合も、ない場合もある。
この宇宙にフォーカスしていない敵なら、滅ぼしても後ろめたさを感じない。
しかし、この宇宙にフォーカスしている敵に対しては、奇妙な友情を感じるものだ。
だが、戦いが避けられないと、戦い続けることが、苦しかったり、逆に、楽しかったりする。
格好の例が、ルパン三世と銭形警部だろう。
だから、『美少女戦士セーラームーン』の原作では、「敵はきょうだいのようなもの」と言ったのだ。

あなたがワープ的な変化をする場合、この宇宙にフォーカスを合わせている相手(親友や恋人の場合も多い)とは、ある意味「別れる」ことになる。
それが寂しい場合、なかなか変われない。
もちろん、一歩ずつ地道な変化をする場合は、この宇宙にフォーカスを合わせているソウルメイト同士は、ずっと一緒にやっていける可能性がある。

『カードキャプターさくら』の、『クロウカード編』で、桜がユエに負けた時に起こってしまう「この世の災い」というものがある。
桜が「地球がどっかーんってしちゃうの?」と聞くと、ケルベロスは、「ちゃうちゃう、そんなことあらへん」と言うが、その後、ケルベロスは暗い顔で、「人によっては、地球がどっかーんするより辛いことやけどな」と言う。
それは、「一番好き」が消える世界だ。
桜は、一度、その世界に行く。
そこでは、桜のことが好きでたまらないはずの知世が、桜を、ただの友達として扱っていた。
説明するなら、桜が元居た宇宙では、知世は桜同様、この宇宙にフォーカスしていたが、桜が一度移動した「一番好きが消えた」世界は、知世がフォーカスしていない宇宙だ。
桜が移動したままだと、桜が元居た宇宙では、知世は、桜が変わったことを感じ、やがて桜と別れるだろう。
まあ、知世の方で、桜がフォーカスしている宇宙に追っかけてくるような気もするが(笑)。
※上記の解釈は、作者のCLAMPの意図とは異なるかもしれない。

親友や恋人は、この宇宙にフォーカスしている者同士だが、いつか、相手の魂が抜けてしまう(相手が別の並列宇宙にフォーカスする)こともある。
そんな場合には、未練がましくしてないで、さっさと別れると良い。








パラレルワールドの遊び方

パラレルワールド(並行宇宙。並列宇宙)の考え方に馴染むほど、引き寄せは上手くなる。
いや、引き取せる必要すらない。

『ノワール』という、2001年のアニメがある。
その中で、殺しのスペシャリストである少女、クロエが、恨みと怒りを込めて、こう叫ぶ。
「私だった!私のはずだった!」
どういうことかというと、夕叢霧香(ゆうむらきりか)のパートナーになるのは自分のはずなのに、その位置には、ミレイユ・ブーケが収まろうとしていた。
クロエは、幼い時から霧香に憧れ、ずっと霧香のパートナーになりたかった。
そのために、あらゆる試練を乗り越えてきたのに、その夢を壊され、そう叫んだのだ。

クロエに並行宇宙に関する理解があればと思う。
自分が霧香のパートナーになる世界もあれば、ミレイユが霧香のパートナーになる世界もある・・・それだけのことだ。
いや、想像さえ出来るなら、自分とミレイユがパートナーになる世界だってあるのだ。
そして、好むか好まないかに関わらず、クロエは、霧香とミレイユがパートナーになった世界にフォーカスした・・・つまり、それが自然なことに感じてしまっていたのだ。
それが嫌なら、自分と霧香がパートナーになった世界を想像して、その世界を作り、その世界にフォーカスして自然に感じれば良いだけだ。
すると、
「あれ・・・霧香とミレイユがパートナーになっていたみたいだけど・・・気のせいかしら」
と思いつつ、霧香は自分のパートナーなんだから、変なことを考えたものだと思って、思わず笑ってしまうのだ。

では、あなたの憧れのあの子(その人)が、ライバルにかっさらわれたとする。
それも1つの世界だ。
では、自分が彼女とねんごろになったことを想像して、そんな楽しい世界を生み出すことだ。
ただ、この時点では、その「素敵な世界」は、フォーカスが合っておらず、非現実感が強く、まだ、夢や白昼夢のようなものだろう。
フォーカスを合わせるには、イメージを鮮明化すれば良いのだが、大抵の人は、そこでまずいやり方をする。
つまり、彼女(彼氏)とデートしたり、いちゃいちゃしたり、エッチなことをするところばかり想像する。
それは非日常なので、自然でなく、フォーカスが合わない。
そうではなく、もっと、さりげない場面を想像するのだ。
「フォーカスが合う=自然であること」だ。
楽しさは感じても普通に会話しているところ、近くにいる彼女の髪が不意に風になびくところ、2人でごく普通に買い物をし、店員にお金を払うところ。
そういった、「さりげない」ことを、静かに想像するのだ。
さりげなさが自然さなのである。
「さりげなく」が超重要なキーワードである。

希望の大学の入学試験に合格する世界は、ちょっと想像したら、すぐに生まれる。
しかし、ほとんどの人は、古い引き寄せの本にあるように、合格発表を見て歓喜したり、親や友達が祝福してくれるといった、「さりげなさ」とは程遠い、非日常の想像をするのだ。
そうではなく、嬉しくはあるが、普通に大学に通学し、当たり前に講義を受ける場面を「さりげなく」想像するのだ。

重要なので繰り返すと、好みのパラレルワールドにフォーカスする鍵は「さりげなく」である。
ところで私は、子供の時に、大怪我で入院したような想いがあるのだが、そんな事実はないようだ。
つまり、別の並列宇宙で、子供の時に事故に遭ったのだが、そんなものがない今の宇宙にフォーカスを合わせており、入院した方の世界にはフォーカスが合ってないので、夢幻にしか感じないのである。
あるいは、昔のことだが、ある女の子に、「君、ずっと前に付き合っていたよね」と言い、「何、この人。キモいんですけど」って目で見られた(笑)。
まあ、そんな世界に居たこと(フォーカスしていたこと)もあるのだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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