ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

社会・教育

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

死を目前にしても動じない心の強さを得るには

心を鍛えることにした。
平安に至る道は他にないと解った。
顔のすぐ近くの壁に弾丸が当たろうが、涼しい顔をしていられるほどになろう。

織田信長や、第二次世界大戦で当時23歳だった合氣道家の藤平光一氏らが、弾丸飛び交う戦場で、「俺に弾は当たらん」と悠然と歩いたようになろう。
中村天風が、敵地で捕らえられ、明日銃殺だというのに、平然と就寝したように。そして、刑場に引き出されて、今まさに銃殺されようとしても全く動じなかったように。

笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎の魅力は、その圧倒的な心の強さだ。
ある時、紋次郎は誤解から、ヤクザの名だたる親分集の前に、許されざる外道として引き出された。紋次郎のような渡世人には、そのうちの1人でも、会えばすくみ上がるような大物達に「殺っちまえ」という雰囲気の中であったにも関わらず、全く「ビビっていない」紋次郎を見て、親分衆の中には感服する者も少なくなかったが、読者がまさにそう感じるのだと思う。

では、どうしたら、それほどまでに心を鍛えることが出来るだろうか?
上に挙げた藤平光一氏は、著書に「氣を出せば良い」とし、そのやり方を教えているが、はっきり言って、そんなもの、何の役にも立たないに違いない。
誰だって、運命は心を鍛えるための適切な場所を与える。
それを受け入れて、そこで修行するのみである。
それは、無防備に苦しみに身をさらすことに違いない。
だが、何でもかでも、嫌なことを引き受けろということでもない。
嫌ならやめても良いが、その責任は取らなければならないってことだ。

禅に『婆子焼庵(ばすしょうあん)』とう公案(試験問題)がある。
あるお婆さんが、立派な青年僧のために、庵(修行のための小屋)を建ててやって面倒を見ていた。
年月が過ぎ、お婆さんは、若い娘に青年僧を誘惑させたが、青年僧は全く動じなかった。
お婆さんが「よく修行した!」と誉めるかと思ったら、お婆さんは青年僧に失望し、青年僧を追い出し、庵も焼き払った。
修行とは、無慈悲、無感情な人間になることではない。
「いい男」だった紋次郎は、いろんな女に惚れられたし、その中には、うら若く美しい娘もいた。
紋次郎も動じなかったが、その青年僧のようではなかった。
ただ紋次郎は、娘の思い違いや愚かさを単純に指摘した。
「あんた、何か勘違いしてるんでござんす」ってなもんだ。
あの青年僧は、修行ではなく、安易な道を選んだのだ。
藤平氏の本を後生大事に読むことも、それと同じであると思う。もちろん、参考に読むには差し支えない。しかし、あくまで参考でしかない。
また、道場で修業するだけ、ジムで筋トレをするだけでは、心は強くならない。
自分の足で立って生きていれば、自ずと試練に導かれる。
そこで動じなければ、弾丸飛び交う戦場でも動じないだろう。









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文句を言わない練習

草薙龍瞬氏の『反応しない練習』というベストセラーがある。
タイトルが良い。
心が余計な反応をしなければ平和だ。
小泉純一郎氏が首相時代に薦めていた、渡辺淳一氏の『鈍感力』も同じ趣旨の本である。

ところが、私は昔、『鈍感力』を途中まで読んで投げ出し、『反応しない練習』は、Kindle版のサンプルをダウンロードして少し読んだところで、読む意欲を失った。
両方、ややこし過ぎて、成果を得るには時間がかかり過ぎるし、おそらく、ほとんどの人には役に立たない。
特に、『反応しない練習』は、続編や、さらにその続編のようなものが次々に出ているが、それはつまり、効果が出そうで出ないからだ。
さらには、別の著者による類書まで沢山ある。
それは、こういったことは、理屈でやろうとしたって駄目ってことだ。

人間の不幸な反応、不幸な敏感さとは、自分が酷い目に遭っていると感じることだ。理不尽(道理に合わず)にね。
「なんで私が?」「私が何をしたって言うのよ?」って感じである。
良い方に関しては、吉沢亮さんのようなイケメンが迫ってきたり、天使のような美少女がくっついてきても「何で私が?」って思わないのにね(笑)。
「理不尽だ」って思って傷付くのが凡人の常である。
それを、「被害者意識」って言う。

良い意味で鈍感であること、即ち、反応しないためには、本来は、心を鍛えるしかない。
それには、孤独に耐えるだけでなく、修羅場を何度も潜り抜けるしかない。
なかなかそうはいくまいが、心配しなくても、神様は、ちゃんと、あなたの心を鍛える場を用意してくれる。
まあ、逃げるやつが多くなってはきたが(笑)。

だが、まず、こんなことを思うと良い。
「理不尽だ」って言うなら、本物の理不尽を知れば良い。
自分が被害者だって言うなら、マジな被害者を見れば良い。
そうしたら、自分の状況なんて、平和そのものだって解るに違いない。
世界中の半分以上の地域は政情不穏で、テロや暴力が横行している。
家に家族といても、武器を持った悪漢が入り込んで来て、止めることなど全く叶わず、好き勝手に振舞われ、飲み食いし、家具を気紛れに壊され、良いものがあったら取り上げ、11歳以上(それ以下もあるだろう)の娘を見つけられでもしたら連れていかれ、生きて返してもらえたら幸運と思うしかない。
抵抗すれば(しばしばしなくても)、銃で撃たれ、殴られ、蹴られ、棒で叩かれ、刃物で切りつけられ、殺されるか、腕や脚を切り落とされる。
映画はもちろん、本ですら、あまりリアルに描くと拙いので曖昧にするようなことが、実際に行われてる。
本当は、現地で見てくるのが一番だが、せめて想像力を働かせることだ。
学校や職場のイジメも大変なものだろうが、世界の紛争地域に比べたら、平和・・・と言ったら何だろうが、マシと言っても良いのではないか?

以前、ベランダで大音量でラジオを鳴らし、大声を上げ、ものを叩いて騒ぎ、隣近所の家に被害を与えた中年女性が逮捕されたことがあったが、その女の隣に住む程度で済むなら、どれほど良いだろう・・・と思う人は、世界に何億人もいるのだろう。
しかも、その愚かな女のように、限度を超えれば、警察が対処してくれるのである。
本当に理不尽な目に遭ってる者にとって、電車の中で隣に座った男が大股を広げるなど、ハエが飛ぶようにも感じないだろう。

贅沢を言わず、文句を言わない練習をすることだ。
自分に対し「まあ落ち着け」と言うことである。状況は、それほど悪くないのだ。
それに、落ち着けば、案外、状況は変わるものだ。
逆に、落ち着かなければ・・・上ずれば上ずるほど状況は悪くなる。被害者だけでなく、加害者もね。
落ち着いたテロリストほど怖いものはないのである。









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改革者達の人生を変えた一冊

人生を変える一冊の本なんてものがあるらしい。
偉人ではないが、こんな話があった。
ある男が刑務所に入っている時、法華経(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』)を読んで感涙し、出所後には真面目に働き、大きな会社ではないというが専務にまでなったという。
宮沢賢治も、人生を決定付けたのは『法華経』だったらしいが、それが18歳の時だったという。

宮沢賢治の没80年の日(2013年9月21日)に、私は、大阪のオリックス劇場に、当時80歳の冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』コンサートを観劇した。
『イーハトーヴ交響曲』は、もちろん、宮沢賢治の世界を描いたもので、その中で、宮沢賢治作詞作曲の楽曲『星めぐりの歌』も演奏された。
主演はもちろん、我らが天使、初音ミクさんで、クラシックコンサートでありながら、小中学生の女の子の観客も多かった。
その日が宮沢賢治没80年の日であることは、公演後、壇上に登場した冨田勲さんから聞いた。
私も何冊か法華経を読んでみたが、読み方が浅いということもあり、いまひとつである。

「岡田式静坐法」で一世を風靡した、明治・大正の偉人、岡田虎二郎の人生を変えたのは、彼が小学生の時に読んだ、ルソーの『エミール』の序文である。
ルソーは『エミール』を、実際、序文だけを書くつもりが、長い小説になってしまったらしい。

神道家で形成外科(整形外科ではない)の名医でもあった葉室頼昭さんは、大阪大学医学部時代、自分で歩けないほどの重病で、板に乗せられて乗った新幹線の中である本を読み、病気が治ってしまったという。書名は明記していなかったが、おそらく、谷口雅春の『生命の実相』と思って間違いないだろう。

『「思考」のすごい力』で知られる著名な生物学者ブルース・リプトンは、たまたま買った、ハインズ・R・バージェルの『量子の世界』を仕方なく読んだことが、人生の、そして、生物学者としての大きな転機になった。
大事業家のイーロン・マスクは、少年時代に、ダグラス・アダムスの有名なSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで大いに感銘を受け、世界や人類の運命に責任を持つ覚悟を決める・・・まあ、ある意味、中二病でずっと生きていると言えるのではないかと思う。いや、決して悪い意味ではない。

人生を変える一冊・・・それは、たまたま見つけるもののようだ。









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復讐は神にまかせよ

私はずっと、歩きタバコをする者達に対し、憤っていた。
まあ、私と同じように感じる人は少なくないと思うが、怒るだけ無駄である。
小学生の通学路で通学時間に歩きタバコをしている人には、さすがに注意しようと思ったことはあるが、やめておいた方が良い。
なぜなら、歩きタバコをしているという事実が、その者に常識がなく、まともな話が全く通用しない相手であることがはっきりしているからだ。
ならば、注意したところで、相手が非を認めるはずがなく、あなたは恨まれるだけである。
下手したら、何らかの攻撃を受けないとも限らない。
これは、歩きタバコに限らない。
以前、ロシアで、1人の女子大生が、地下鉄の中で股を広げて座っている男性達のその股間に液体漂白剤をかけて回っているというニュースを見たが、その女子大生は、座席の広い場所を占領する男達に憤っていたのだろう。
しかし、漂白剤をかけられた男達は、百人中百人が、その女子大生のことを、単に、キチガイとか異常者としか思わないのであり、「俺も悪かった」などと僅かでも思う者はいない。
そして、実際、「俺がされたら殴ってやる」と言っていた男もおり、拙いことにならないうちに、彼女がやめてくれることを願っている。

そして、これは不思議に思えるかもしれないが、相手に対し憤ると、相手にエネルギーを与えてしまい、自分はエネルギーを失うのである。
だから、歩きタバコをする者や、電車で大股を広げて座る者は、怒りを買えば買うほど元気いっぱいになるのである。
非難されるべき行為をした人間に対し、「怒りしかありませんね」などと声を荒げて言う者がいるが、そんな者は、その責めている相手にエネルギーを与え、自分はエネルギーを失って、何をやってもうまくいかないのだ。
意識のエネルギーは小さくはないが、怒りはエネルギーに転化して自分から離れ、意識を集中した相手・・・即ち、恨みの相手に飛んでいくのである。
それなら、旧約聖書に書かれてる通り、「復讐は神にまかせ」れば良い。
別に、「神様、あいつを罰して下さい」と願うのではない。それだと、相手に対する怒りが起こり、やはり、相手を利してしまうのである。
一方、誰かに対し、本気で、「うまくいきますように」と祈ると、放ったエネルギーは相手のところに実際に行くと共に、増幅して自分に帰って来る。
こういったことは、やがて科学的(量子科学的)に解明されるだろうし、既に解っている科学者もいると思う。
そして、これが事実であることは、自分でも実験、観測が可能と思う。

だから、嫌な人間を見た時、出来るだけ怒りを起こさず、自分に対し「落ち着け」と言わなければならない。
「落ち着け」と言うのは、自分であると共に高位の自分であり、その時、自分は神のような存在と一体になっているのである。
しかも、エネルギーを失うことも、悪いやつに与えることもなく、相手は、放っておいても自滅する。
小悪人は別だが、大悪人はわざと大衆の怒りを買おうとするものである。
それが自分の活力になることを知っているからだ。
大衆が大悪人を冷静に眺めた時、大悪人は自分が起こした邪悪な想念に飲み込まれて自滅する。
「落ち着け」こそが万能の言葉である。









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ぼっちはどう生きるか

スペックが低いぼっちほど悲しいものはないが、ぼっちは大抵、スペックが低い。
ぼっちとは孤立者のことだが、なぜぼっちになるのかと言うと、幼い時に、群れる訓練をしなかったからだ。まあ、本当のところは、群れる訓練をさせてもらえなかったというのが事実だと思う。
ぼっちの大半は、群に加わることを熱望するが、訓練をしなかった者が野球や将棋を上手く出来ないのと同様、群れることも上手く出来ない。
一部の ぼっちは、群れている者を見下し、ぼっちであることを肯定しようとする。
「遅い豚は群れていろ」「馬鹿なサルは媚びていろ」って感じである。
『涼宮ハルヒ』シリーズの涼宮ハルヒ、『僕は友達が少ない』の三日月夜空、『物語』シリーズの戦場ヶ原ひたぎ、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)などは、ぼっちであるが、揃って、超美少女で、学問・スポーツ共に超優秀という、夢のような設定で、苦しいところは多いながら、なんとかやりすごしている。
しかし、彼女達のスペックに匹敵するぼっちはいないし、仮に匹敵するほどのスペックがあってすら、あんなふうにぼっちを貫けない。

学校は、ぼっちではやっていけないシステムだ。
それを非難する向きもあると思うが、実は、あれで正しいのだ。ただ、運用が拙いので、ぼっちを不登校にさせたり、いじめさせたり、挙句、自死させるのだが、そんな危険があるからこそ、ぼっちが減る可能性があると言えば・・・そんな面もあるのだろう。認めたくはないが。
なぜ、学校のシステムが正しいのかというと、世の中はぼっちで通用しないからだ。これは厳然たる事実である。
だから、ラノベやアニメの世界でなければ、涼宮ハルヒや戦場ヶ原ひたぎが、周囲にデレデレに媚びるという、ファンなら見たくなことをやるのが正しいし、しなければならない。

涼宮ハルヒや雪ノ下雪乃のように、ぼっちで悠然としているのは非現実なので、普通のぼっちが群れる能力を持たずに生きようとすると、非現実に逃げ込むことになる。
それでも、人間は、本来はそれほど無慈悲ではないので、周囲はそれなりに手を差し伸べてくれるのでやっていけるのである。
そうだ、ぼっちがなんとかやっていけているのは、認めたくなくても、ぼっちでない者の慈悲のおかげなのである。
だが、今は、本来ありえないほどの無慈悲な人間が多く、慈悲のある人間が皆無か、いても、慈悲を見せることが出来ないほど周囲の人間達の心が腐っているので、自殺者が増えているし、これからはもっと増えるだろう。

さて、散々、ぼっちの悲惨さを書いたが、私としては、超能力的な、あるいは、魔法的な方法でぼっちが勝てる方法を伝授せねばならない。
アンタがそうやって生きてきたんだろ・・・という訳だ。
しかし、そんな方法はない。
ないと知ることが魔法力を引き出す。
知るという言い方では足りない。思い知るということだ。
「呪文を唱えれば大丈夫ですよね」
「念仏を唱えてます。これに賭けます」
なんて甘いやつのことなど知らぬ。
群れている人達の下僕になり、あるいは、群の女王や王様の靴を舐めるしか、生きる方法はない。
それを心から認めた時に大逆転は起こる・・・かもしれない。
かもしれないだけで、確率は100パーセントではない。そんなことの成功など、誰も保証しない。
もっと有体に言えば、わずかな望みがあるってだけだ。
君にそれが出来るかどうかは、微妙というよりは絶望的だ。
・・・と、それほど厳しく言ってやらないと駄目なんだと解ったのだ。
それほど状況は厳しいことを知れば、スペックを磨く努力も出来るだろう。
頑張って欲しい。









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