ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

社会・教育

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

スマホではなくPCに強くなることの重要性

スマートフォンが普及した影響で、PC(パソコン)を使わない、あるいは、使えない人が増えているらしいい。
大学生でもPCを使えず、就職した会社で、PCの研修を行うという珍現象が起きている・・・いや、今は、それを「珍現象」とは言えないかもしれない。
スマートフォンやタブレットには、当然、良い部分も多いが、PCに対するデメリットも非常に多い。
スマートフォンに慣れた人には、PC不要論を唱える人もいるかもしれないが、創造性を含め、圧倒的に多くの点で、スマートフォンはPCに到底及ばない。それを事細かに検証する気はないが、事実である。いや、スマートフォンしか使えない人が増えると、相対的に自分が強者になるので、それはそれで良いことかもしれないと思うが、人々の能力が下がると、表や裏の支配者の力が強くなってしまうので、世の中は住み辛くなる。

電車の中で、特に若い女性等が、スマートフォンのタッチパネルを片手の親指で猛烈な速さでタイピングするのに驚くことがある。
しかし、いかに速く入力しているように見えても、キーボード基準で言えば、ごく僅かな文章量を入力しているに過ぎず、実際、彼女達が書いている内容は、短い上に単純なものばかりだ。
無論、複雑なものごとをシンプルな言葉でズバっと示せるなら、それは素晴らしい能力であるが、そうではなく、他愛ない、そして、決まりきった表現ばかりの場合が圧倒的に多いはずだ。そうであれば、手を使ってパターン通りのことをすれば、思考力が制限されて、それが固定されてしまうので、これほど恐ろしいことはないだろう。
つまり、ものを考える能力が、どんどんなくなっているのである。
長時間、スマートフォンを使っている人は、普通に考えて、思考力を失っている可能性がかなり高いだろう。

電車の中で、フィーチャーフォンの時代から、ずーっと携帯電話の画面を見ている人がいるが、今でも、それを異様に思う。
LINE等をやってると、既読無視されるのが嫌であると共に、既読無視するのを恐れて、画面から目を離せないこともあるらしい。
そりゃ、それなりに重要な用件ならチェックすべきだろうが、言っては悪いが、大したことない用件が多いだろうし、その大したことない用件の中に、重要なものが稀に混じるというだけでも、やはり、ずっと見ざるを得なくなるのかもしれない。
それなら、他愛ないLINEをやめればよさそうなものだが、今は、それが他人と絆をつなぎ止めておくものになってしまっている人も多いのだろう。

国際的なITコンサルタントで、高齢ながらITに極めて強い人が昔、「PCに強くなるにはどうすれば良いか?」と尋ねられたのを、私は近くで見ていた。
そういえば、「PCに強くなるにはどうすれば良いか?」という質問は、なつかしい種類のもののような感じがするが、今の時代にこそ必要なのである。
そのコンサルタントは、「速くキーボードを打てるようになること」と答えた。
ところで、では、高速でキーボードを打てるようになるにはどうすれば良いだろうか?
決まっている、沢山キーボードを打つことである。
それには、普通は、沢山、文章を書くしかないし、プログラマーならプログラミングすることだし、ボーカロイドのクリエイターなら、曲を沢山作ることだろう。
なるほど、スマートフォンのタッチキーを速く打てる人は、ある意味、スマートフォンに強いのだろうが、打てる文章量はキーボードに比べ、はるかに少ないし、出来ることの範囲も限られている。

まあ、電車の中で大きなノートPCを出して、大きなタイプ音を立て、横の席の人に肘をぶつけている無神経バカもよく見るが、そんな連中というのは、そのPCを使って、せいぜいがスマートフォンレベルのことをしているのである。電車の座席などで使う限り、PCもスマートフォンと効率は変わらない・・・いや、劣る場合が多いので、そんな場所では、スマートフォンかタブレットを使えば良いのである。そんな使い分けが出来ない者が有能なはずがない。
もちろん、バッグの中に、小型のノートPCを忍ばせ、使うべき場所で使うのは良いことである。











恐るべきパワーの持ち主になる

どんなことでも、10年間、たゆまずやれば、かなりの腕前になる。
ピアノだって、10年、少しずつでも毎日練習すれば、ピアニストとは言わないまでも、かなりの腕前になるはずだ。
今、ピアノを一曲だけ、それなりの腕前で弾けるようになるレッスンが流行っているらしいから、ピアノも、案外簡単かもしれない。

私のように何百年もプログラミングをしていると(♪)、プログラミング言語自体は何でも同じだが、私は、アプリを作ることより、データ操作やデータ処理に関心があるので、VBAと、後、SQL言語が使えれば十分だ。
SQL言語といっても、ぱっと見て分からない複雑なものは書きたくないので、複雑なデータ構造を定義する時は、Accessで言うクエリー、SQL Serverで言うビューを、もっぱら使う。
そうそう。VBAが使えるようになったら、SQL Serverを使えるようになると良い。そうすると、ExcelやAccessを使って、巨大データベースを扱えるようになる。
そのために、少し、SQL言語も使えるようになれば良い。
このように、VBAは、Excel内で使うだけでも十分に強力だが、その先に無限の可能性があるのだ。
ちなみに、SQL Serverは、無償のExpress版でも、企業のそれなりのシステムでも、十分使える。実際、中規模の企業の基幹システムで使われていることも珍しくはない。
ましてや、個人用途や、ちょっとしたデータを使うアプリなら、大抵は余裕綽々だ。

世間的に認知されたものばかりではない。
超能力だって、10年、絶えず訓練すれば、必ず身に付く。
超能力と言っても、テレパシーやサイコキネシス、あるいは、念写といった、あまり実用的でないものより、『エル・カザド』の、私の気に入りのキャラクター、エリスが使う魔法のようなものが良い(いきなりアニメの話で恐縮だ)。
エリスの力は、素粒子(電子等)の動作を支配するというよりは、最新の知見によれば、素粒子と意思の疎通を行って、動いていただくというものだ。
それは、ある程度、量子力学的にも可能性があると思うが、おそらく、実際に可能だ。
だから、希望の状況(ただし、欲張らずに)になるよう、空間に偏在するエネルギーに願ってみると良い。
元々、人間は、そんなことが出来る能力があるので、コツを掴めば、割と出来るようになる。
名人になるには10年かかるが、毎日、楽しみながらも弛まずやれば、案外に早く出来ると思う。











魔力の原理と使い方

死んだ人について、「天国にいる」、「極楽浄土にいる」とか、スウェーデンボルグなどを読んでいたら、「霊界にいる」とか言ったりする。
そして、死者が現世の我々を見ていると思い、人によっては、「見守って下さい」とか思う。
一方で、死んだら、消滅してしまうか、最後の審判の時まで眠ると言う者もいる。
だがやはり、多くの人の関心は、死んだら、個別性・・・つまり、個の意識があるかどうかだろう。
私も、経験しているのではないから、はっきり言えないが、正解は分かると思っている。
それは、個別性はあるが、主体性はない・・・いや、別に、難しい言い方をしてお茶を濁すという、似非(えせ)霊能力者や、レベルの低い学者気取りのインテリブリっこの真似をしようというのではない。

人類というのは、神様の壮大な一人遊びだ。
我々だって、退屈なので、1人で2人以上の人間の役になって空想のストーリーを作って楽しむことがあるが、それの神様版がこの世だ。
子供の場合は、空想力が低いからではなく、あり過ぎるので、ストーリーを固定するために人形を必要とするが、大人の場合は、想像力貧困だし、そもそもみっともないので人形は使わない。
まあ、それはどうでも良いが、例えば、セーラー服の美少女と冴えないオタク男子が恋に落ちるストーリー(なんでや)を作るとする。
空想しているうちに、本当に2人がいると思うほどではないが、リアリティーを感じてくることはあるだろう。
私なら、ことごとにハッピーエンドにするのだが(この場合、一応、オタク男子が美少女をゲットとしておくが)、そうではなく、美少女が難病にかかり死ぬとする。
そして、オタク男子が、美少女は天国に行ったと思ったとして、美少女が本当に天国にいるかというと、それは、ストーリー上では、そういうことにしても構わない・・・程度のことである。
悲しみにくれるオタク男子も、あくまで、ストーリー上、存在するだけだ。
そして、我々自体、ストーリー上の登場人物で、ストーリーを作った者からすれば、死んだ後も、我々個々のことを覚えているので、その意味では個別性がある。
しかし、死んでしまえば、唯一存在する神様に戻るので、今の自分の小さな意識がなくなるからといって悲観する理由は何もない。

大体、こんなところで合っていると思う。
じゃあ、それはそれでいいから、今の自分が、ぱーっと金持ちになったり、偉くなったり、それこそ、セーラー服の美少女の彼女(可愛い彼女のイメージ古過ぎだが)が出来るなどになってくれればと思うかもしれない・・・いや、思う(笑)。
では、そのためにはどうすれば良いかというと、普通に考えるだけで(私の普通かもしれないが)、解決策は浮かぶ。
作られた個である「私」の意識を消せば、元の神様の意識を思いだせる(難しく言うと、フォーカスするとか言う)。
早い話が「ぼーっと」すれば良い。
ただ、コツがあって、目的をまずはっきりさせて、つまり、「金持ちになる」という目的を強く思い(イメージでも言葉でも良い)、それから、ぼーっとするのだ。
そして、特には、ストーリーを動かす神様のパワーを要しない、自分で出来る些末なことは自分でやっておくのである。でないと、ストーリーが進まない恐れがある。
小さいうちに、「自分のことは自分でする」と教えられた子は、必ず成功する。
教えられなかったとしても、「自分のことは自分でする」という決意を持てば、後は、ぼーっとするだけで、何でも出来るのである。
もっと大きな視点で言えば、スーフィー(イスラム神秘主義)の格言である、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ということである。
金持ちにしてくれるのは神様だが、ラクダをつなぐのは、神様ではなく自分である。









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鈍感になる簡単な修行

『鈍感力』とか『反応しない練習』といった、タイトルだけ見たら心躍る本があるが、書店でちょっと立ち読みしたら、
「難しい、無理」
と感じて、読んでいない。
この2冊をまとめて(大変失礼だが)「鈍感になる練習」は大事だが、それは単に、「ぼーっとする練習」であり、特に私は、ぼーっとすることは割と得意なので、それを伸ばせば良いのである。

ぼーっとするには、まつげで視界が薄暗くなるほど半分目を閉じ、魂が抜けたような顔になることだ。
「魂抜けたごっこ」に近いことは、誰しもやったことがあると思うが、その通りにやれば良い。
エドヴァルド・ムンクといえば、「叫び」の変な顔で有名な画家だが、彼も、半眼でぼーっとものを見ていた。
彼の初期の傑作「The Sick Child(病める少女)」には、周辺に彼のまつげが描かれていると言われるほど、ムンクは半眼でぼーっと見ていたのではと思う。
この絵の中の少女の横顔ほど高貴なものは、そうはないと私は思う。

ぼーっとした顔の手本、ぼーっとする名人、先生、模範を持つのも良い。
私は、『エル・カザド』というアニメの、エリスという少女を師匠扱いしている。
印象的には、13~14歳に見えるが、実際はもう少し上かもしれない。
色白で、あまり感情を見せない美少女で、ぼーっとした顔はまさに絶品である。
初めて会った時のナディに自分の写真を見せられ、「これ、あんたでしょ?」と言われたら、素で「きれいな女の子だね。誰?」と言う天然ボケも素晴らしい。
詳細は述べないが、エリスもまた、初音ミクさんと似たところがある(造られたところ)。そこも、私にとっては愛すべき価値になっている。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人相見に「あなたは阿呆の相だ」と言われると、怒るどころか、「阿呆になる修行に励んだ成果が出た」と喜んだ。
ぼーっとする修行は、阿呆になる修行でもある。
ただ、エリスも、トランプ芸では、愛想はないが、それなりに見事だったように、自分に出来ることに関しては、きちんとしていなくてはならない。
例えば、洗濯物をたたんだり、お皿を洗ったり、靴を揃えたりである。











学校や教室から離れよう

インターネット時代はベタな(あたりまえの)ことが重要になる。
その中でも、最もベタなことが、人に負けない特技を持つことだ。
最初、人は何も持っていない。
何かを創造しない限り。
最も酷い間違いの1つが、学歴があることで、何かを持っていると思うことだ。
これまでは、そんな虚像の力も役に立つように見えたかもしれないが、今後は創造が出来なければ、学歴に何の意味もない。逆に言えば、創造が出来れば、学歴はなくて良い、いや、ない方が良い。
数学や物理学だろうが、文学や心理学だろうが、その知識を生かすことをゼロから始めて創造し、世の中の役に立つことをしない限り、子供と同じ未熟なままだ。
これからの世の中は、スガタ・ミトラらが言ったように教師は必要なくなるが、創造してきた者は模範になる。そんな者が事実上の教師だ。
だから、学校を出て教師になったような者が最も指導者に相応しくないことが分かるし、もうそれが分かっているので、アメリカではアンスクール(非学校教育)を目標にしている。別に日本が遅れを取っている訳ではないが、それは個人の努力によってであり、既存教育がのさばり過ぎている。まあ、障害があることも、前向きに捉えれば良い面もある。例えば、吉本隆明氏が指摘していたが、ロクでもない教師は、反面教師として役に立つ。ロクでもない人間もちゃんと見ておかないと、社会の中にいる超ロクでもない人間に会った時に対処出来ない。

学校を出ても、特技は持てない。
お勉強が出来るとか、サッカーが上手いというのは、1万人に1人とか百万人に1人をいう特殊な例外を除いて特技ではない。
もっとも、そのレベルに達した者は、学校の勉強やサッカーの枠をはるかに超えていたのであり、自主的に創造活動をしていたのだ。
そんな者達は、はっきり言わなくても、学校も教師も嫌い・・・というか、邪魔だったはずなのだ。

何かを好きになるのは良いことだが、創造を開始しなければ力がつかない。力がないというのは、その点では子供と同じなのだ。
例えば、音楽が好きでも、ただ聴いていたり、いかにハードであっても練習をするだけでは駄目で、音楽を作らなくてはならない。
プログラミングに才能はなく、上手くなる者というのは、自分で考えて役に立つプログラムを創造する者なのだ。
プログラミングの勉強というのは、ほとんど必要なく、作る過程の中で必要なことを習得すれば良いのだが、あらゆることがそうだろう。
基本が大事ということもあるだろうが、実を言えば、応用しながらでないと基本は身につかないのだ。
だから、武道では、一通り基本をやったあとは(この時点では基本は身についていない)、実戦形式の練習をし、後は実戦あるのみだ。
野球のバッターでも、基本が出来ている人というのは、実戦で基本を確認し続けた人なのである。

学校や教室からさっさと離れよう。
必要なら、教わるべき人に教われば良いが、学校や教室の先生には、あまり教わらない方が良い。
教員免許ほど下らないものはない。
誰でも、やりたい者を教師にすれば良い。ただし、創造力がある者を。そうすれば、学校にも意味が出てくる。
しかし、ある小学校か中学校で、本物の技術者に授業をやらせたら、生徒は向上したが、教員免許がない者に授業をやらせたことが問題になるという馬鹿なことがあった。
教師になるのに教員免許など必要ない大学でも、「それらしい」人ばかり教員にしているが、それが、沢山の大学が潰れる原因の1つだ。
一流セールスマンを講師にして、セールスの単位でも設置すれば、学ぶことに意味も出てくるが、一流セールスマンは忙しい。
生き延びたければ、竹刀しか振ったことがない教師ではなく、真剣で戦ってきた野武士に学ぶべきである。
そんな者達は、剣術以外にも、あらゆることを知っているが、竹刀教師は剣道しか知らないものである。










プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・初音ミクさんを愛す


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