引き寄せ。あるいは、潜在意識の法則で願いを叶える過程が、新約聖書の「マタイによる福音書」の中の短いお話に簡潔に書かれている。
私が好きなお話なので、何度も書いたが、よくよく味わう価値があると思う。

イエスの弟子達が湖の沖に浮かぶ船に乗っていたが、風が強く波が大きかった。
夜が明ける頃、イエスは湖上を歩いて船に向かったが、それを見た弟子達は、幽霊だと思って恐怖し、叫び声を上げた。
イエスは、「私だ。安心しなさい。恐れるな」と言った。
すると、ペトロ(ペテロ)が、イエスに、
「私に命じて、私を水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」
と言い、イエスが、
「私は命じる。来い」
と言うと、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方に向かった。
だが、途中でペトロは強い風が吹いていることに気付き、怖くなって沈みかけたので、イエスに助けてくれるよう懇願すると、イエスは手を伸ばしてペトロを捕まえて、
「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」
とペトロを叱った。

マルコ福音書やヨハネ福音書にも、イエスが水の上を歩く話はあるが、ペトロが水の上を歩くのはマタイ福音書のみである。
ルカ福音書では、イエスが水の上を歩く話すらない(最初から船に乗っていた)。

上の話を憶えておけば、どんな願いも叶えられる。
まず、イエスが水の上を歩いたことは、潜在意識との間の壁がない者は、潜在意識の力により万能であることを示す。
ペトロは、その事実を信じ、自分もそれをやるよう命じて下さいとイエスに願ったら、イエスは「私は命じる」と言った。
ペトロの望みは水の上を歩くことだった。
そして、イエスが「私は命じる」と言ったことが重要である。
この「私」は、イエス個人のことではなく、「真の自己」のことで、真の自己が命じたら潜在意識は何でも叶えるのである。
ペトロの真の自己が命じたので、ペトロもイエスと同じように水の上を歩いた。
だが、ペトロは強い風に気付いてしまった。
それまでは、ペトロは風を意識しなかったのである。
意識しないものは存在しないのと同じである。
つまり、一切の困難、問題は、意識するから存在するのであり、意識を逸らせてしまえば存在しない。
ここが、普通の人がなかなか分からないことであるが、引き寄せのマスター達は皆知っている。
理解したければ、ジョセフ・マーフィーが天才と讃えたネヴィル・ゴダードの『世界はどうしたってあなたの意のまま(原題:At Your Command)』に詳しく説明されている。
ペトロは、せっかく望みを叶えたのに、強い風という問題を意識してしまったために、望みが叶っていない状態に戻ってしまったのである。
ところで、少し戻るが「真の自己が命じる」は、どうすれば良いのだろうか?
つまり、どうすれば、自分が願うことを、真の自己に命じてもらえるのだろうか?
何もする必要はない。
願望が浮かんだ瞬間に、真の自己は「それを得よ」と命じているのである。
ペトロは、考えて「水の上を歩きたい」と思ったのではない。
ペトロは、イエスが水の上を歩くのを見た瞬間、「水の上を歩く」という願望が浮かんだ。これが即ち、真の自己の命令である。
そして、願望が浮かんだ瞬間に、願望は叶うのである。
これは凡人でも例外ではない。
だが、すぐに強い風(「そんなことがあるはずがない」という疑い)が浮かぶ。
これはエゴの声で、凡人は、真の自分の声ではなく、エゴの声に従ってしまい、願望はキャンセルされ、願望が叶った状態が消えたのである。
イエスは、「なぜ、真の自分の声ではなく、エゴの声を信じたのか」と叱ったのである。

1つだけ付け加える。
願望は真の自分の声であるなら、誰かを殺したいという願望もそうなのだろうか?
そうではない。
誰かを殺したいというのは、真の自己の声を歪んで解釈しただけだ。
誰かを殺したいというのは、欲求を叶えるための短絡的な考えだ。
『南から来た用心棒』という映画の中で、大悪党が初めて殺人をした時のことを語る。殺したのは自分の父親で、その悪党が子供の時だった。
子供の時、彼は、父親の懐中時計が欲しいと思った。
父親は「俺が死んだらお前のものだよ」と言った。
悪党は笑って言う。
「5秒後に俺のものになっていた」
我々は、このように短絡的に考える愚か者になってはならない。








  
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