何度か書いたことがあるが、私は子供の時に見た、西洋のある古いモノクロ映画の、こんな一場面を印象深く憶えている。
アパートのかなり高い階で、5歳位の男の子が落下しかけていて、母親が両手で、その男の子の両手を掴んでいた。
母親が手を放せば、男の子は地上に落下し、ほぼ間違いなく死亡しそうだった。
状態的に、母親は、男の子を引き上げることが出来ず、だんだん手が疲れてくる。
男の子は、聖書の詩篇91番を教わったことがあるのかもしれない。
そこには、こう書かれている。
「彼ら(天使達)は、その手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」
男の子は、自分が地上に落下する様子を想像する。
天使達がやってきて、自分を支え、自分は笑いながら地上にふわりと着地する。
男の子は母親に言う。
「ママ、手を放していいよ」

結局、その男の子は救出されたが、もし、母親の力がつき、手を放して地上に落下していたら、男の子はどうなっただろう?
まず、間違いなく、男の子は死んでいただろう。
男の子は、自分は天使に助けられるという信念を持っていたに関わらずである。
心から信じたことは実現するはずなのに、なぜだろう?
母親の「落ちたら死ぬ」という常識的な信念が実現する、あるいは、その信念がこの男の子に伝わるのかもしれない。
また、この男の子だって、そこそこの高さから落下して痛い目に遭った覚えはあるだろうから、いざ落ちると、それを思い出して恐くなり、「天使に助けられて死なない」という信念が壊れてしまうのかもしれない。
それは分からないが、死ぬことは、やっぱり確かと思う。
だが、希に、本当に奇跡的に確かることがある。
おそらく、歴史の中で、そんなことが何度も起こっているが、実は私も(これも何度か書いたが)、4歳の時に、少なくとも2階の窓から地上に落下したが、かすり傷1つなかったことがある。家族の話では、私はケロリとしていたのに、慌てふためいて駆けつけた親の様子に驚いて泣き出したらしい(笑)。
私は、覚えている範囲でも、とんでもない高いところから飛び降りたり、逆に、飛び上がったりをよくしていた。

ところが、私は、中学1年生の秋頃に、急にそれが出来なくなったことも覚えている。
それで、あの映画の男の子のような状況で、あの男の子のように聖書の話を信じていても、やっぱり死んでいた理由が分かるのである。
つまり、やり方だけは憶えているのだ。
それは、落下する瞬間や飛び上がる瞬間に無意識になることだ。
あの映画の男の子は、意識がある限りは、やはり墜落すれば死ぬ。逆に言えば、無意識になれば助かる。

あらゆる引き寄せがそうだ。
無意識になれば叶うのである。
それも一瞬で良い。
無意識になっていれば良いのなら、失神していたり、眠っている場合はどうかというと、これは鎌倉時代の禅僧、道元も言っているが、意識はなくても自覚がないと駄目なのである。
ほとんどの人は、ここで分からなくなる。
「意識はないが、自覚がある」という意味が分からないのだ。
答はこうだ。
自覚とは、「存在の自覚」である。それだけあれば良いのだ。
つまり、自分の意識が在るという自覚があれば良い。
そして、存在の自覚に意識を向ければ、思考は消える、つまり、無意識になる。
続けて言えば、
「自分の意識が存在しているということに意識を向ければ、思考は消え無意識になる」
である。
難しければ、初めは、「私は在る」と、声に出さず、心の中で、丁寧に何度も唱えると良い。
それによって、「私は在る」という存在の感覚を掴むのである。

「私は在る」という感覚と極めて近いものが2つある。
1つは、眠りから目覚めた直後の思考が戻って来るまでの感覚だ。
もう1つは、「今」という感覚である。だから、なるべく多く、今を意識していれば、「私は在る」という感覚も掴み易くなる。
「私は在る」が意識を向けたことは、速やかに、この世界に出現する。
なぜなら、存在の自覚が神であるからだ。
だから、モーセに十戒を授けた神は、自分のことを「私は、私は在るというものである(アイアム・ザット・アイアム)」と言ったのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ