インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある人が質問をしたが、マハルシは黙っていた。
質問者は、「今の沈黙が答だと受け取ってよろしいのでしょうか?」と尋ねると、マハルシはやっと、「その通りだ」と答えた。
また、ある人物が、マハルシに尋ねた。
「なぜ、あなたは講演をされないのですか?」
すると、マハルシは、
「いつも熱弁を振るっているではないか?」
と答えた。
だが、マハルシは、普段、必要なこと以外はほとんど喋らない。

偉大な人物に謁見した際には、謁見者は、偉大な人物が話している間は、黙って聞くべきだし、偉大な人物が黙ったら、失礼のない、出来れば、気の利いた質問をしなければ気まずい雰囲気になる。
しかし、マハルシに謁見した際は、マハルシに質問をしても良いが、黙ってじっと座っていても良いのである。
それで、謁見者は晴れ晴れとした顔で、あるいは、希望に満ちた顔で去って行く。
沈黙以上の雄弁はないのである。

ラマナ・マハルシやサティヤ・サイババや、あるいは、イエスやブッダの写真や絵、あるいは、彫刻に対し、言葉で、あるいは、心で、悩みを打ち明ける人がいる。
写真や絵や彫刻は、あっても良いがなくても良い。
自分の神や仏のイメージ、あるいは、何かは分からないが、自分を超えた高次の存在、あるいは、自分の心(あるいは胸とか心臓)にいる神のようなものに意識を向けるだけで良い。
だが、やがて言葉は尽きるだろう。
そして、沈黙でもって尋ねたことには、沈黙で答えられる。
魂が答を受け取っているのだから、いちいち言葉に翻訳する必要はない。
だが、時々、沈黙の答を適当な言葉にするのが上手い人がいる。
たとえば、お金がないことを訴えた時の答は、「お金?あるよ」だったりする。
悪い状況についての悩み(たとえば劣等感による自己肯定感のなさ)だったら、「自分でそう思っているだけだ」とかである。
翻訳して(あるいはしてもらって)、その答についてじっと考えても良いが、それがかえってまずい方向に行くこともある。
魂が答を受け取っているのだから、そのままにしておく方が良い。
たとえばこうだ。
私が中学2年生の時、クラスに何人か嫌なやつがいて悩んでいたが、空想上の天使に、「なんとかなるかい?」と尋ね、答はあったものとして忘れた。
すると、少ししたら、その連中が妙に大人しくなって、また、妙に腰が低くなっていたことがあった。
ただ、自分で何とかしないといけないようになってしまうこともあるが、そんな時は「なるようになる」と思って気楽にやるのが良いのだろう。








  
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