自我が消えるほど、引き寄せが自在になり、魔法使いも同然だ。
そして、誰だって、自我や、それと同じである「我(が)」というものが、どういうものか、だいたい分かっている。
「我(が)が強い」「我(が)がない」という意味も分かると思う。
つまり、「我が強い」のが未熟な人間で、「我がない」ことが円熟した優れた人間であると分かるだろう。
だが、一方で、自我は大切なものであり、幼い時に、必要な経験が出来ずに「自我の発達が遅れた者」「自我が確立出来なかった者」は、生きていく上で不都合がある。

普通の人が「我をなくすことが大切だ」と思って、それをしようとすると、愛想笑いばかりするようになり、なにごとも「なあなあ」で済ませてしまい、長い物に巻かれたがり、もめ事を嫌う・・・つまり、毎日をただ平穏に過ごす老人の真似をするようになる。
それで、「俺は人格者だ」とでも言いたい者というのは、単に年寄り臭いだけだったりするのだ。

このように、考えてみれば、自我の問題は難しい。
釈迦の弟子にも、自我の問題に気付いた人がいて、釈迦に、こう質問したのだそうだ。
「先生。聖者にも我(自我)はあるのでしょうか?」
すると、釈迦は答えた。
「ある。だから、聖者も出来事に対する反応は凡人と変わらない。だが、凡人は、その反応を維持・拡大しようとするが、聖者はそれをしない」
簡単に言えば、聖者は、いつまでもクヨクヨしたり、恨んだりしないのである。
ある名高い聖者の弟子が、師であるその聖者について、「先生はよく怒る。その様は聖者には見えない。だが、怒った次の瞬間、先生は機嫌が良い」と語っていた。
俗に言う、「気分の切り替えが早い」のである。
一方、「気分の切り替えが下手で、いつまでも引きずる」のが、力のない凡人だ。

天才発明家で能力開発指導者として名高かった中山正和は、般若心経のことを「クヨクヨしない練習」だと述べていた。
つまり、嫌な気分になった時、般若心経の最後の呪文「ぎゃていぎゃてい・・・」を唱え、気分を紛らわしてしまえば良いのである。
あるいは、好きな言葉を唱えても良いと思う。
「大丈夫」「絶好調」「神様の奇跡が起こる」その他、自分の好きな言葉を、繰り返し唱えれば良い。
そして、なるべく速やかに自我を消し、超人になれる方法が、最近、よくご紹介している呼吸法、
(1)呼気と共に「私はこれではない」
(2)吸気と共に「私は誰か?」
(3)呼吸を留め「私は神である」
を行うことだ。言葉は心で唱え、呼吸は静かに行う。
この呼吸を行うほど、自我は消え、神に近付く。あまり多くやると人間でなくなってしまうが、本当にそうしたくば、そうすれば良いだろう。








  
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