ある精神病院に、キリストの愛人を自称する女性が入院していた。
私は、ちょっと抵抗は感じつつも、彼女の態度自体は、悪いものではないと思っていた。
もし、自分がキリストの愛人であると信じるなら、キリストの加護があってもおかしくない。
しかし、彼女に関しては、そういうわけではないようだ。
このことは、長く疑問だった。

一方、アメリカ最大の賢者とも言える哲学者で詩人のラルフ・ウォルドー・エマーソンは、エッセイ『歴史』の中で、こんなことを書いている。
「英雄の物語を読む時、それは自分について書かれていると思え」
たとえば、『アーサー王物語』のアーサー王とは自分なのである。
これは、上の「自分はキリストの愛人」という女と何が違うのだろう。
それが分かれば、我々が今すぐ、英雄、超人、偉人になることが出来るのであると思う。

1つは、NLP(神経言語プログラミング)開発者のリチャード・バンドラーが指摘している。
それは、自分はキリストの愛人だという女は、それを言わない限り、精神病院には入れられないということだ。
それはつまり、自分がキリストの愛人だと思うこと自体は、全く構わないのだ。ただ、言ってはいけないのである。
それはそうであろう。
有能な会社員や、優れたスポーツ選手や音楽家の中にだって、自分がキリストの愛人であるとか、宇宙の帝王だと思っている人がいるかもしれない。
しかし、そんなことは、何の問題もないのである。
だが、彼らは、そういう大抵の人に受け入れてもらえないようなこと(あるいは正気を疑われるようなこと)は言わないのだ。
「初音ミクは俺の嫁」と言う人だって、まともな人なら、話が通じる相手にしか言わないだろう。

同じように、エマーソンは、「あなたは英雄そのものだ」とは言ったが、それを人に言えとは言っていないのである。
自分で分かっていれば、それで良いのだ。

それと、もう1つある。
先程、「自分がキリストの愛人」という態度は良いと述べたが、それはあくまで、基本的姿勢という意味で、「愛人」が必ずしも悪いとは言えないが、この表現を敢えて選ぶその女は、モラルに欠けるように思う。
モラルに欠ける者には、天は味方しないのである。
こう言うと、「斎藤一人さんは度々、自分は分別がないとか、節操のないことをやれと言ってるじゃないか」と言いたい人もいるかもしれない。
実際、斎藤さんの話を聞いて、「モラルはいらないんだ」という馬鹿げた解釈をする者はいると思う。
しかし、斎藤さんは、モラルが高い話しかしていないのである。

偉大な人物だってモラルに欠ける場合があるかもしれないが、そうであれば、その偉人は最後は落ちぶれたか、そうは見えなくても、凡人より惨めだったはずである。
そんな偉人と同一化するのはやめた方が良い。
そして、モラルがなければ、どんな小さなことも成し遂げられないだろう。
晩節を汚した偉人だって、元々は高いモラルを持っていたのである。

フォード自動車創業者であるヘンリー・フォードは、自分の成功は、ラルフ・ウォルドー・トラインの『In Tune With The Infinite』(翻訳には『人生の扉をひらく「万能の鍵」』等がある)を読んだおかげだと言い、この本を自宅に多量に用意し、訪問者にプレゼントしたという。
ラルフ・ウォルドー・トラインという名は、彼がこよなく尊敬するラルフ・ウォルドー・エマーソンから取ったものだ。
トラインは、自分をエマーソンと見なしたのである。
ジョセフ・マーフィーも述べている。
「『ヨブ記』の意味を知りたければ、自分がこれを書いた時のことを思い出せば良い」
あなたは、事実として、あなたが憧れ、崇拝する人物なのである。








  
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