「大死一番(だいしいちばん)」という言葉をご存じだろうか?
仏教の禅の書物である『碧巌録(へきがんろく)』の中にある言葉であるようだ。
意味は、なんとなく想像出来るかもしれないが、「死んだつもりでやる」「命を賭けてやる」ということで、決死の決意、決死の覚悟でやるということだろう。
何とも勇壮で、私は好きな言葉だが、そうそうやれるものではない。

とはいえ、誰だって、人生で大勝負に挑むことがある。
大学や高校の入試が、本人にしてみれば、そんな感じだし、人によっては、中学入試もそうだ。さすがに小学校の入試は、受験する本人は自覚が薄く、頑張るのは親かもしれないが。
他にも、重要な商談や、好きな人へのプロポーズ、あるいは、告白なんかも、やはり、当人にしてみれば命懸けの気分だ。
アメリカの海軍特殊部隊ネイビーシールズの入隊試験は非常に厳しいと言われている。
何日も眠らせてもらえない中、長距離を走り、学科試験を受け、スキューバダイビング中には教官が襲ってくる。
あまりの厳しさに、全米から集まった優秀な若者の大半が脱落する。
それに耐えられるほどでなくては、テロとの戦い等、過酷な特殊任務をこなせるようにはなれない。
ところで、厳しい問題を乗り越えられる人間は、頭の中で「大丈夫」といった肯定的な言葉を繰り返していることが、科学的な研究で分かっている。
そこで、そんな言葉を自主的に頭の中で唱えることを推奨する精神指導者も多い。
「大丈夫、うまくいく」「絶対、大丈夫だ」「出来る、必ず出来る」「売れるぞ」
しかし、そうやって、かえって大失敗することが多い。

ただ言葉を唱えるより、もう少しマシな方法としては、
「あれだけ勉強したのだから大丈夫だ」
「先生も大丈夫だと言ってくれたのだから合格する」
「しっかり準備したのだからプレゼンはうまくいく」
と、うまくいく根拠を思い出すというものがある。
しかし、そんな根拠は一瞬で崩壊する。

つまり、早い話が、余計なことを考えず、無心で挑むのが一番良いのである。
しかし、本当に命が懸かっているのでもない限り、なかなか無心にはなれないし、命が懸かっていれば懸かっているで、やっぱり、手足がすくんでしまい、無心にはなれない。
特に、勝負事では、敵はこちらを精神的に参らせる策を用意していることも多いのだ。

さて、では、大勝負の時はどうすれば良いのだろうか?
脳にまかせてしまうことだ。これは、無意識、あるいは、潜在意識にまかせるということと同じだ。
自意識なんて、脳の中(あるいは意識の中)のごく一部だ。そんなちっぽけなものが戦おうとするから、緊張し、プレッシャーに押しつぶされて負けてしまう。
脳にまかせる良い方法は、なるべく抵抗のない根拠を持ち出し、「だから、うまくいかないとおかしい」と唱えるのだ。
「よく勉強したから」といったように、これは既成事実だというふうに言えば、よほどの嘘でない限り、疑いは起こらないものだ。
「よく勉強したから」では、いまひとつ抵抗があるなら、「俺は頭が良い」「この学校に入る運命だから」など、抵抗を感じない根拠を考えれば良い。
もし、抵抗を感じない根拠が本当に何も浮かばないなら、それは得るべきものではないのだ。
入試であれば、ある程度勉強すれば、「ちゃんと勉強したのだから、合格しないとおかしい」としっかりと言える。そうすれば、後は、あなたよりはるかに優秀な脳、あるいは、無意識がちゃんとやってくれる。
しかし、本当に勉強していないなら、やはり合格するはずがない。
だが、こんな話がある。
UFO研究家として知られる矢追純一さんは、難関の中央大学法学部を受験したが、彼は、高校は全く通学しておらず、2人の妹を養うために毎日深夜まで働き、その後は飲みに行ったというから、勉強をしているはずがなかった。
だが、過去問集を暗記するか何かだったと思うが、1つだけ何かやったそうだが、それで、自分は合格すると決めつけ、入試の後は、さっさと旅行に出かけ、帰ってきたら、当然のように、合格通知が来ていた。
これも、「過去問の勉強をしたのだから受からないとおかしい」という感じだったのだと思う。
矢追さんは、大学の試験も、テレビ局への入社も、その他あらゆることを、脳(あるいは無意識)にまかせてうまくやってきたのだと思う。
矢追さんの著書『ヤオイズム』『矢追純一は宇宙人だった!?』を読むと、そんなことを感じるのである。








  
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