『猫の妙術』という、江戸中期に書かかれた談義本がある。
談義本とは、単に通俗的な読み物のことで、「滑稽物語」とも言われる、庶民の娯楽である。
ところが、このとても短い『猫の妙術』を読むと驚愕する。
おそるべき真理が、読み易く、面白く書かれている。
私は、中味(中身)そのものは、『荘子』と全く同じだと思ったが、実は、『猫の妙術』は、『田舎荘子』という書の一部で、確かに、『荘子』の有名な木鶏(木彫りの闘鶏)の話を参考にしているらしい。しかし、『猫の妙術』の方が、はるかに分かり易く、丁寧に書かれている。
また、『荘子』というのは、あくまで、無為、無用、無益を説く書で、役立たずで何もしないことを究極とするが、『猫の妙術』は、万能の教えだ。
もちろん、『荘子』も、本当のところは、神のようなものになることが書かれているが、それは隠されている。
だから、二宮金次郎(二宮尊徳)は、『荘子』と同じ無為自然を説く『老子』を馬鹿にし、否定した。金次郎には、老子、荘子に隠された魔力を見抜けなかったのかもしれない(分かっていて、わざと否定してみせたとも考えられるが)。

『猫の妙術』は、ストーリーそのものが重要なのではないと思う。
それは、『荘子』の木鶏の話が、木鶏のごとく静かな闘鶏が無敵だというだけのストーリーであるのと同じだ。
ある屋敷にネズミが現れ、ネズミ捕りの名人猫が次々、投入されるが、修行を積んだ優れた猫達が、このネズミに全く敵わず、逆にネズミに噛みつかれる始末だった。
それほど凄いネズミで、なす術がなかった。
そして、ついに、噂に聞こえた古猫が連れて来られた。
見栄えのしない、動きも鈍い古猫であったが、ノロノロとネズミに近付くと、パクっとネズミを咥えて出てきた。
その神技に驚愕した、このネズミに手も足も出なかった名人猫達は、うやうやしく古猫に教えを乞う。
すると、その古猫は、対話形式で、親切に名人猫達に教えを授けるが、その内容が実に良く、その対話を聞いていた武士も感服する。
『荘子』では、抽象的に語られていた宇宙の真理とも言うべきことを、ネズミを捕らえるということを題材に、分かり易く語るのだから有り難い。
『荘子』の木鶏の話の中に真理があることに気付く者は多いが、やはり、『荘子』は不親切過ぎるのである。なぜ、木鶏のような不動の闘鶏が無敵なのか、実質的には全く説明していないのだから。

あのロジャー・ムーア(2代目007俳優として有名)とトニー・カーチス(アメリカの名優)が共演した、『ダンディ2 華麗な冒険』というイギリスのテレビドラマがある。
その中で、ムーア演じるイギリスの貴族シンクレア卿が、こんなことを言っている。
「私の祖父の教えだ。攻撃こそ最大の防御なり、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしない者が一番強いのさ」
私は、子供の時、これを聞き、これこそ、この世の真理と思ったが、悟り切らなかったようで、全く生かせなかった。
『荘子』も『猫の妙術』も、それ(シンクレア卿の祖父の教え)と同じことを言っているのだが、『猫の妙術』は、お馬鹿な面白いお話として、分かり易く語ってくれているのである。
私は、講談社学術文庫の『天狗芸術論・猫の妙術』のみ読んだが、他にもいろいろ出ていると思う。








  
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