ある老僧が、亡くなられる直前、昏睡状態で意識もなかったのに、不意にむくりと起き上がり、
「わが力にあらず」
と言ったという。
これは、一般的に考えれば、「私がいろいろなことが出来たのは皆さまのおかげです」ということであるが、少し違うようにも思う。
老僧が実際には、どんな意味で言ったのかは分からない。
しかし、2400年も昔に、ソクラテスが同じことを言っている。
「優れたことを成す者は、それを自分が成しているのだと思っている。しかし、そうではない」
では、誰が(あるいは何が)成しているのかというと、それはソクラテスにとっても明晰ではなかったと思うが、事を成す存在をダイモーン(神霊、精霊)と呼ぶことがある。

イチローのバッティングも、イーロン・マスクの事業も、彼らがやっているのではなく、ダイモーンがやっているということかもしれないが、これでは分かり難い。
そこで、より真相に近いことを分かり易く述べる。
この世は漫画のようなもので、人々は漫画の登場人物だ。
漫画の登場人物が、どれほどのことをしようが、それは、登場人物自らやっているのではなく、漫画の作者がそうさせているだけだ。
作者は、作品を制作中、それぞれの登場人物になりきって、考え、感じる。
登場人物になる切っている時の作者の心は、その登場人物らしさという制限を受ける。
作者は、熱心に登場人物になり切ると、登場人物として何かをしていると錯覚するが、実際に全ての物事を動かしているのは、全ての登場人物と、彼らがいる世界を完全に支配下に置いている作者たる自分である。
作者が、登場人物になり切るのを止め、作者の意識に戻る時、「この登場人物に本当に力があって事を成すのではなく、作者たる自分がそうさせているだけだ」と、はっきり自覚する。

さて、この世界という漫画を描く作者は、イチローやイーロン・マスクという登場人物達に、あのような大きなことをさせる時、どのようにストーリーを導くだろう?
まず、登場人物本人に願わせるだろう?
イチローなら「優れたバッターになりたい」とか、イーロン・マスクなら「人類を前に進めたい」とか。
松下幸之助がセミナーで、「これからの会社は、社内留保を持たないといけない」と言うと、受講者の1人が、「どうすれば社内留保を持てますか?」と質問したら、松下幸之助は、「社内留保が欲しいと願うことです」と言ったという通りで、願わずとも得られるものは、だいたいにおいて小さなもので、しっかりとしたものを得るには、まず、願わねばならない。
ただし、立派に願わないといけない。
この世という漫画の作者は、我々より優れており、我々が想像するよりずっと立派だ。
立派でない願いが叶うストーリーを作ることはないと考えるべきだろう。
もし、立派でない願いが叶ったとしても、後で悲惨を味あわされるだけである。








  
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