成功した人が、冷静な判断力があって、なおかつ、正直であるなら、自分が成功出来たのは「たまたま」と言うだろう。
また、九死に一生を得た人が、後で冷静に振り返ることが出来れば、自分が生き延びたのは、やはり「たまたま」と言うのだ。
そして、そのことに早く気付いた方が幸福になり易い。

こんな話がある。
ある人が、外国で電車で移動していた時、トイレに行ったが、使用中だったので、隣の車両のトイレに行った。
すると、電車が爆撃され、その人が、元いた車両は爆破された。
もし、トイレが使用中でなかったら、その人は死んでいたはずで、生き延びたのは、まさに「たまたま」だ。
この出来事で、その人は、世界は偶然で出来ていることを悟り、すると、その後は何をやっても、ひどくうまくいくようになった。

あなただって、妻や夫や、恋人や友人に巡り逢ったのは、全く「たまたま」のことだったと思う。
『からかい上手の高木さん』という漫画・アニメで、2人は、たまたま隣の席になり、入学式の日、高木さんが落としたハンカチを、たまたま西片君が拾ったことで、2人は一緒にいることになったのだが、まあ、現実にもよくある話である。

哲学者のニーチェや、詩人イェイツは、共に、
「たまたま起こったことを、自分の意思と見なせば、神に近付く」
と述べている。
どんな出来事も、自分の意思で起こったのである。
「そう思う」というのではなく、「それが事実」と見なすのである。
それなら、後悔も、文句も、泣き言も、言い訳もあるはずがない。
イェイツは、こんな謎の手記を残している。
ある、賢者と言われる男は、家族を殺された時、それを自分の意思を見なした。すると、幸福感を感じた。
男は富豪になるが、家や財産を奪われ、奴隷になった。これもまた、自分の意思と見なすと、やはり、幸福を感じた。
そして、自分に死期が近付いた時、死ぬこともまた、自分の意思と見なすと、恍惚とした幸福感に満たされた。
まあ、これはあくまで極端な例であるが、このようにすれば、自分は限りなく神に近付くのである。
間違えてはならないのは、全てを神の意思として尊重するのではない。
あくまで、自分の意思であるとするのである。

これを、この世界は漫画で、自分は漫画の登場人物であるという「世界=漫画理論」で考えると分かり易い。
(実際は、漫画でもアニメでも小説でも映画でも紙芝居でも構わないが)
物語は全て、作者が決めた通りに進行する。
その時、辛い目に遭っている登場人物が嘆いてはならない。
登場人物である我々の心は、作者の心の一部なのだ。
だから、物語の展開は自分の意思であるとすれば、自分は作者に限りなく近づく。
そのような登場人物を不幸には出来ないのである。
なぜなら、作者は、物語を肯定する登場人物は自分だと感じており、そして、作者は自分を愛しているからである。








  
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