突然だが、ロボットに心はあるのだろうか?
もっと適切と思える言い方をすれば、ロボットに心を持たせることが出来るだろうか?
答はイエスである。
架空の存在だが、日本で一番有名なロボットは、やはり鉄腕アトムだろう。
アトムには、明らかに心があった。
なぜなら、作者の手塚治虫さんが、そのように描いたからだ。
その程度の理由で良いのである。

CLAMPさんの漫画『ちょびっツ』で、19歳の浪人生、秀樹は、ロボットである“ちぃ”について、ちぃの双子の姉として作られたフレイヤに尋ねる。
「ちぃに心はあるのか?」
それに対し、フレイヤは、
「いいえ。プログラム通りに動いているだけです」
と言う。
だが、秀樹は、ちぃに心がないということに納得出来なかった。
そして、秀樹は、
「ちぃの心は俺の心の中にある」
と言う。
これは、ただのメルヘンだろうか?
全くそうではない。
元々、ちぃに心はあった。
だが、秀樹がちぃの心に大きな影響を与えていたので、秀樹の「ちぃの心は俺の心の中にある」と言うのも、間違いではない。
そもそも、作者が秀樹に、断定的にそう言わせたのだから間違いない。

ロボットがプログラムされた通りに動くというのなら、人間だって同じである。
漫画の登場人物の心は、作者の心の一部であり、作者の心の中にある。
言い換えれば、作者にとって、漫画の登場人物には心がある。自分の心を分け与えているのだからだ。
この世界も漫画のようなもので、我々人間は、世界の作者である神様の心の一部を持っているのであり、我々の心は神様の心の中にあると言える。

野尻抱介さん(ボカロPとしては尻P)のSF小説『南極点のピアピア動画』で、宇宙人製美少女ロボットの小隅レイ(こずみれい。実質、初音ミク)について、省一(主人公。大学院生)は、「レイに心があるのだろうか?」と考え、結局、はっきりとは分からなかったが、あると感じた。省一がそう感じたのは、作者がそう思っているからで、それなら、レイに心はあるのである。
あるいは、レイに心があると思う人には、レイの心は存在するのである。

ここで、重要な問題を思いつく。
『鉄腕アトム』という漫画の中で、アトムは人間と同等である。むしろ、人間より優位とさえ思える。
ロボットは人間と同じであるが、人間もロボットと同じなのだ。
だから、秀樹がちぃの心は自分の心の中にあると思ったように、レイには心があると省一が思ったように、人間だって、心があると誰かに思われることで心が生じるのである。
アメリカの高名な精神科医だったミルトン・エリクソンの父親が、16歳で家出をし、行き着いた村で一人の男に出会い、その男の13歳の娘に会った時、エリクソンの父はいきなり言ったのだ。
「君は僕のものだ。たった今から」
これは、秀樹のちぃに対する、省一のレイに対する気持ちと同じであるが、秀樹がちぃを、そして、省一がレイを軽く考えていなかった、むしろ、より重く考えていたのと同様、エリクソンの父も、少しも、この娘を軽く考えていなかった。それで、ミルトンのような素晴らしい子供が出来たのだ。

今回の話は、頭では分からない。
正確には、普通の頭では分からない。
頭を超えた頭、荘子が言う「知を超えた知」でなければ分からない。
それを直観と言うのである。








  
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