新しい、より理想的な世界に次元移動するためには、普通の人間は、一点突破ともいうべき方法を使う。
この一点突破とは、1つの道を究める中で1つの点を空け、そこを通って、するっと次元を超えることだ。
1つの道と言っても、音楽とか武道といった抽象的で高度なものばかりではなく、仕事や家事の一部分でも、コツによって「神のようにやる」ことが出来ることであれば何でも良い。
ある神人がオレンジを放って渡した時、受け取った人は、そのような投げ方は神以外には出来ないように感じたそうだが、高度なレベルに達した人は神のようだから、その人は何でも神のようにやるのである。

やることは、本当に何でも良い。
しかし、バッティングを極めたと思える超一流の野球選手だって、たまに神がかったバッティングをするが、まだ不十分だ。偉大な努力をして尚そうなのは、それで報酬(お金や名誉など)を得ると、それが余分な荷物になって重くなってしまうからだ。
いわゆる、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」のである。
儲からなくても、包丁を研ぐ技能を磨いている者の方が新しい世界に移り易い。その人は包丁を研ぐ時、いつも神のようなのだ。

プログラミングのようなものが、なかなか神の実現に至らないのは、世俗のしがらみが強過ぎるからだ。
見たことはないが、趣味で淡々とアセンブラプログラミングみたいなことをやっている人には、人間を超えた人がいるような気がする。

1つの道を究め、臨界点を突破した人は、ある意味、仙人と言える。
だから、弓仙人とか、将棋仙人という言葉があるが、そんな仙人たちは、世間の人の目に見えない(見つからない)。

昔の日本では、自然の中で働く人達の中に仙人が割といて、子供などは簡単に仙人を見分けられた。
だが、そんな仕事の多くが、集団化、機械化し、効率が優先され、大事な何かを捨て去る中で、仙人はいなくなった。
現在の社会では、仙人になることは難しくなったが、それに近い半仙人みたいな者は、少ないながらいる。しかし、半仙人だって、やはり、普通の人が見分けることは出来ず、英雄は英雄を知るではないが、半仙人は半仙人を知るというだけである。
半仙人は、神ほどの力はなくても、自然の潜在力・・・つまり、宇宙の隠れた力をそれなりに行使出来るので、実際は強力である。だが、必要もないのに、そんな力は使わない。

法然のような念仏仙人とも言うほどでなくても、毎日、自主的に熱心に念仏を唱えていれば、やがて次元を超えてしまうことがある。
腕振り運動を極めた腕振り仙人や半仙人もいるが、おかしなことかどうかはともかく、腕立て伏せ仙人(半仙人)だっている。
言ってみれば、念仏も腕振り運動も腕立て伏せも、道を究めるほどの深さがあるものは、全く等価で優劣はない。
そもそも、あらゆることに優劣はなく、上の世界に行けば区別さえない。
我々が居るこの世界では、区別は避けられないが、優劣をつけないことも仙人・半仙人の条件である。
自分がやっていることが、別の人がやっていることより上といった観念がある限りは、半仙人にもなれない。

ケーキ作りを、仕事であっても、お客様を喜ばせるためという想いでやっていれば、いずれ半仙人くらいにはなれる。そうなれば、力を得て一切の悩みがなくなる(あって良い悩みは残るが)。
技を磨いて術とし、術を進めて道に達するとか言う。道の浅いところにいるのが半仙人で、その先にいるのが仙人で、さらにその先があるのだと思う。
剣を極めた剣士は、神が切るように切る。
船を漕ぐことを極めた船頭は、神が漕ぐように漕ぐ。
何か1つ、神のようにやれるよう磨くと良いと思う。








  
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