インドの聖者ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問い続ければ、この幻想の世界を超越し、真の自分になれると言った。
とはいえ、それに成功したという話は聞かないが、成功した者は、この世界から消え去るのだろうか?
ところで、私は、それほど「私は誰か?」と問わなかったが、自分が誰か分かってしまった。
別に、その答を教えても良いし、簡単なことなので、言葉の上では容易に理解出来るだろう。
しかし、本当の意味は分からないかというと・・・どうだろう?
実は、私も、言葉で簡単に教えてもらっただけなのだが。

答の有難味を増すために、まず、数人の人の見解を書いておく(笑)。
パラマハンサ・ヨガナンダや、敬愛すべき橋本健博士は、我々は、映画を見ている人と言った。
アラン・ワッツは、一人遊び(お父さん役、お母さん役、子供役などを1人でこなす)をしている子供だと言った。
イツァク・ベントフは、一人遊びをしている神様だと言った。
・・・割と同じことを言っていると思うが、どうもピンとこない。

彼らよりは、イーロン・マスクや、哲学者のニック・ボストロムが言ったことの方が納得出来るように思う。
すなわち、我々は、コンピューターが作った仮想世界(シミュレーテッド・リアリティー)の中の人工的な意識だ。
意識を人工的に作れるかということに関しては、前野隆司氏(工学博士)が、「今はやり方が分からないが、そんなに難しくはないと思う」と著書に書かれていたのを覚えている。

で、答だが、最も簡単に言えば、我々は、「漫画のキャラクター」だ。
映画の登場人物という言い方を好む人もいるが、明らかに、漫画のキャラクターの方が適切だ。
なぜなら、映画の登場人物なら、役者は自分が役者であることを知っているし、多かれ少なかれ、演技に自由度がある。
一方、漫画のキャラクターには、一切の自由がない。
実際の我々も、この点は、漫画のキャラクターと同じなのだ。
何でも、『めだかボックス』という漫画のヒロインが、そんなこと(自分は漫画のキャラクター)に気付くらしいので、早速、電子書籍の1巻を読んでいるが、まだ、そんな話は出て来ない。
しかし、私は、我々が「漫画のキャラクター」と聞いて、即座に納得した。
あまりに的確な表現だからだ。

しかし、多くの人の関心は、もしそう(我々が漫画のキャラクター)であるなら、自分がハッピーになるように作者が漫画を描いてくれるかだろう。
男性なら、コーランが約束しているように、100人の清らかな乙女を得られるとか、女性なら、BTSみたいなグループのメンバー100人が日夜サービスしてくれる・・・まあ、一例であるが(笑)、そんな展開にして欲しいと思う人は多いと思う。
原理的には、可能で簡単であるが、そんなことは起こらないと思う。
と言うのは、この世界は、お釈迦様が言ったように、縁の世界、因果の世界であり、道理に合わないことは起こらないからだ。
ただし、縁や因果は、人間には偶然に見えるので、偶然によって起こったと自然に感じることであれば、起こりえる。
例えば、よく取り上げるが、ホームレスの男が、「神様の奇跡が起こる」と唱え続けたら1憶円が当たったようにだ。これは、ただの偶然と見なすことが出来る。
しかし、パズーの前にシータが降って来た・・・なんてことが偶然に起こるとは思えないので、やっぱりこれはアニメでしかない。

じゃあ、偶然でいいので、ハッピーにしてもらうにはどうすれば良いか?
作者に頼むか?
これに関しては、『荘子』の考えでは、こうなると思う。
つまり、作者だって、自分が何を描くのか分からないのだ。
画家の横尾忠則さんも著書に書かれていた。
「自分でも何が出来るか分からない時の方が良い作品が出来る」
と。ただし、本当は、全ての作品が、自分では何を作るのか分からないのだ。

それに、そもそも、我々の漫画は、もう描き終えたものかもしれない・・・というか、おそらくそうだ。
だが、がっかりすることはない。
なぜなら、我々の漫画は、我々が知る漫画よりはるかに高度だ。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った。
しかし、彼も知らなかったのだ。神のサイコロには無限の目があることを。
確かに、我々の漫画は、もう描き終わってしまっているかもしれない。
だが、作品全体や、作品の個々の部分が、どんな意味を持つかは解釈次第なのだ。
ある出来事を、悪いことだと考えることも出来れば、超ハッピーなことと考えることも出来る。
荘子も、そのようにしろと言ったのだと思う。








  
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