才能がないことをやってはならないし、やらせてもいけない。
無駄な努力になり、貴重な人生の時間を無駄にする。
才能もないことを、親が自分の子供に無理矢理やらせることも多いが、そんな子供は、ストレスで病気になるかもしれないし、心に深刻な影響を抱えるかもしれない。
一方、才能もないことを、自主的に熱心にやる場合は、子供っぽい妄想があったり、あるいは、邪な想いがあることが多い。
子供が、単に格好良いからという理由でやりたがるのは、ある程度仕方がないが、それなりの歳になれば、自分には向いていないことを自覚した方が良い。
あの手塚治虫さんだって、子供の時、宝塚歌劇団に憧れ、中学か高校の文化祭で、本物の宝塚歌劇団の衣装を借り(貸してくれる大らかな時代だった)、自分で歌劇を演じたが、失笑を買って、やっと、自分に才能がないことを理解した。
多くの場合、才能がないことは、他者が客観的に見た方が分かり易いので、手塚さんの場合も、もっと早く誰かが指摘してあげるべきだった。そうすれば、手塚さんも恥をかかなくて済んだ。
だが、沢山の人達に「才能がない」と言われながら、強い意思で継続し、成功した稀な例が注目されてしまうので、「自分には才能があるに違いない」と思い込む人も、多いのかもしれない。
もちろん、本当に好きなら、才能の有無に関わらずやれば良いが、好きであっても、必ずしも才能があるとは限らず、それでプロになろうなんて妄想してはならない。
だが、自分に才能がないことは、なかなか認めたがらないものかもしれない。
例えば、音楽が好きで、そこそこは出来るようになる者は少なくないが、プロになる才能がある者は、悲しいまでに少ない。
以前、クリプトン・フューチャー・メディア(初音ミクさんの会社)の伊藤博之社長が、音楽に限定したわけではないと思うが、「人生を賭けてはならない」と言われていたと思うが、それが非常に印象的だった。あの人は、才能もないのに音楽に人生をかけて、そして、人生を棒に振った人を沢山見たのだと思う。

ところで、現代の医者になるのに、特別な才能はいらないと思う。
そこそこ頭が良く、性格に極端な欠陥でもない限り、親が金持ちの医者なら、誰でも医者になれる・・・というか、なれている。
だが、医者に向き、不向きはあり、本来は医者に向いていない医者は多いと思う。
「心身医学の父」と言われたドイツ人医師ゲオルク・グロデック(1866~1934)は、兄が何人かいたが、医者であった父親は、ゲオルクだけを医者にした。
その理由について、ゲオルクは、自分が姉と人形遊びをしているのを父親が見たことがきっかけだったのではないかと述べていた。
彼が、姉と人形遊びをしていた時、姉が、人形にもう1枚服を着せようとしたら、ゲオルクが「人形が苦しがる」からと止めたのだそうだ。
さっき、医者に才能はなく、向き不向きがあると言ったが、この話から、本当は、向き不向きと才能は同じものだと思う。
単に、現代の職業医師に才能はあまりいらないということだろう。

むしろ、プログラマーの方が、現代の職業医師より才能が必要かもしれない。
ただ、今のところ、全てのプログラマーに、それほどの能力が求められているわけではないという理由で、なろうと思えばプログラマーになるのは、そう難しいことではない。
とはいえ、必要とされる能力は、時代と共に高くなるので、やはり、才能がないならやめておいた方が良く、それは、Excdelマクロ(VBAプログラミング)の場合もだし、むしろ、才能のない者がExcelマクロを作ることで深刻な問題が発生することが多い。

才能があるかないかをどう判断すれば良いかだが、それには、私が昔からよく書いている、あるミュージシャンの言葉を覚えていると良い。
それは、こんな言葉だ。
「ミュージシャンてのは、街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来るやつじゃないと務まらない」
これが全てであると思う。
有名な、スマイルズの『自助論』を読んだ上で、熱心にやれることが、自分に向いたものではないかと思う。








  
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