アメリカ映画だと思うが、昔、テレビで、その1シーンを見て、非常に強い印象を持ったことがある。
西部劇を思わせるような雰囲気の広い酒場の中で、庶民風の男達が大勢、酒を飲んでいた。
その中で、つまらない理由に違いないが、小競り合いが発生し、殴り合いになると、それがどんどん伝播していき、店中の男達が殴り合いをする。
ところが、やや年配のバンドマン達は、平気な顔で淡々と演奏をしていたが(喧嘩などありふれたことなのだろう)、アメリカ国歌『星条旗よ永遠なれ』の演奏を始める。
すると、国歌が演奏されていることに気付いた男達は喧嘩をやめ、直立不動になると、右手を胸に当てた。

これを見て私は、この男達は国家に洗脳されているのではないかとも少し思った。
しかし、男達は、国歌を聴くと、恐怖感を伴った強制的なものを感じたわけでは全くなく、自主的に崇敬の形になったのだ。
恐怖感どころか、安心感を感じたように思えるのだ。
このように、恐れのない、自由意志による自主的な行いは洗脳とは無縁である。
彼らはアメリカ合衆国建国の歴史・・・独立戦争、憲法制定を知り、それを成した者達を心から尊敬しているのである。
(ちなみに、アメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が作られたのは1896年で、西部劇の舞台である西部開拓時代は1860年代から1890年までなので、その映画は西部劇ではないと思われる)
一方、高圧的な声で「天皇陛下バンザーイ!」と声が上がると、こわばった顔で庶民達が「天皇陛下バンザーイ!」と言ってバンザイをするのは、自主的な行いではなく洗脳の可能性がある。
無論、全く恐怖感がなく、自主的にそうするなら、国家に対するかどうかはともかく、天皇への崇敬であり、そんな人達も大勢いたことだろう。
どこかの独裁国家では、庶民達は、我々から見たら、いかにもわざとらしい顔や声や動作で独裁者を讃え、死ぬと必死で鳴き真似をするのは、やはり恐怖による強制を露骨に示すが、似たことをする地位の高い人達には、恐怖と言うよりは、「そうした方が得」という打算の方が大きいかもしれない。その場合、その行いは、ある意味、自主的と言えば自主的だが、不誠実に、不正直に、心にもないことをやっているのである。

我々も同じだ。
強制されて、真言、念仏、祝詞、あるいは、聖書の言葉を唱えても、何の意味もないし、まして、「得だから」という思いでそれをやれば、心が穢れ、卑しい人間になり、力を得られず、持っている力も失う。
完全にとは言わないまでも(多少の欲やエゴがあっても)、崇敬の気持ちと共に行えば霊的に浄化され、霊的な穢れによる不幸や不運が解消したり、それに打ち勝つ力が起こるのであると思う。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ