人間は誰でも、潜在意識の無限の力を持っているので、不可能はなく、どんなことでも出来るはずである。
しかしながら、そのようなことが書かれた本を読み、書いてある通りにやってみると、時としてうまくいったように思う時もあるが、肝心なことがうまくいかない。
それで、「こうだから、あなたはうまくいかない」「うまくいかなかった人も、こうすれば成功する」といった話が目につくが、そんなものをいくら見ても、結果は変わらない。

とはいえ、潜在意識の法則を使うことは、本来、少しも難しくない。
何度も書いたが、私など、子供の時は、潜在意識の法則の本など全く読んでいなかったが、どんな奇跡でも起こせた。
今でも、やれることはやれるが、うまくいかないことも多い。
では、うまくいく時と、うまくいかない時の違いがあるのかというと、ある。
それは、美しいか、美しくないかだ。
あるいは、穢れているか、穢れていないかとも言える。
稀にだが、他の人の、潜在意識の法則で叶えたい願いを、本人から聞くことがある。
そんな時は、だいたいが「無理だな」と思うし、すぐには分からなくても、しばらく様子を見れば分かる。
大抵が、汚い、薄汚れている、醜い、美しくないと感じる。

まあ、自分のことに関しては、見極めが難しいかもしれない。
稲盛和夫さんは、ものごとを始める時、「私心なきか否か」と問い、私心ではないと確信したら実行するという話は、よく知られている。
これは、インドの神話『ラーマーヤナ(ラーマの物語)』で、最後に、ラーマが魔王ラーヴァナを倒した時、美しき伝統に則り、ラーマがラーヴァナに教えを請い、それに応え、ラーヴァナがラーマに言ったことと同じだ。
「私心があるうちはやってはいけない。しかし、私心がなければすぐにやりなさい」

ただ、実際のところ、100パーセント私心がないということは難しい。
私だって、子供の時に起こした奇跡・・・以前見たテレビドラマを放送させるとか、何の知識も手掛かりもなく夜空の星の中から土星を見つけるとか、天体望遠鏡を手に入れるなどは、どれも、私心と言えば私心だ。
しかし、純粋な好奇心から来るもの、叶っても誰にも迷惑をかけないもの、正当なもの・・・そういったものなら、私心であっても叶うように思う。
また、単なる欲望であれば叶わないが、憧れとか、敬うような気持があれば叶うと思う。
例えば、噂に聞く美味しい料理を食べたいと思った時、単に舌を楽しませる目的であれば叶わないが、その料理への憧れや敬いがあれば、あっさりと食べられる状況になる。
私心がないこと、私心と思われても憧れや敬いがあること・・・これを美しい、穢れていないと言うのだと思う。
一方、欲望の私心、憧れも敬いもない動物的欲望・・・こういうのを、醜い、穢れていると言うのである。








  
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