神の助けを得る最高の方法、宗教的でない言い方をするなら、宇宙の活力の願わしい反応を期待出来る方法を一言で言うなら、こうなると私は確信する。
「静かに祈る」
これには、エビデンス(根拠)もデータも理論もなく、純粋な直観・・・あるいは、聖典の記述を解釈するための基準のようなものとして、そう思うのである。

そして、日本人は、静かに祈ることの貴さを知っているのだと思う。
日本の優れた武将達は、戦での勝利を祈る時、決して、騒々しくせず、小さな寺や神社で、独り静かに祈ったものだった。ただし、その戦に正義がある場合である。
日本のプロ野球では、球団が決まった神社で必勝祈願をすることも多そうだが、それが静かであった場合には好ましい結果になり、騒がしければ厳しい結果になるのである。

イエスは、祈る時は、戸を閉め、姿を隠し、部屋の中で静かに祈れと言ったのである。
だが、悪い祈り手は、人前で物々しく祈ると言った。
その理由は、人前で祈る者は、それによって、人々の称賛を得ようとするからで、人々の称賛という褒美を得てしまえば、神はもう褒美をくれないからというものだった。
そして、神は、隠れたものでも見ているのだから、人に知られず、神にだけ知られるのが良いのだと教えた。
ただし、たとえ独りで祈っても、それが静かでないといけない。
家が広く、たとえ大声で祈っても誰にも聞かれないとしても、静かに祈らないといけない。
これについても、イエスは良い見本を示した。
逮捕される前夜、イエスは弟子達に、「私は独りで山に登って祈る。お前たちはここで祈っておれ」と言って、独り山に登った。
山に登るとイエスは祈った。
まず、
「出来れば、毒杯を遠ざけて下さい」
と祈った。当たり前だが、死ぬのは、本心では、やはり嫌なのだ。
だが、続けてこう祈った。
「けれども、私の想いの通りでなく、あなたの想いの通りになされますように」
全く、静かな祈りのお手本であった。
1973年のアメリカのミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』では、この祈りの際、イエスは激しく葛藤し、感情を高ぶらせたが、これは、あくまで、ミュージカルであり、イエスの内面の一瞬を描いた場面であったからだし、製作者も決して、イエスが大騒ぎしたのだと思ってはいないだろう。そして、最後は、イエスは静かに覚悟を決めたのであえる。

インドの聖者ラマナ・マハルシは、「あらゆる聖典は、心を静かにしろと書いてあるのであり、それが了解されたなら、いつまでも聖典を読む必要はない」と言った。
だが、心を静かにする方法は、静かに祈ることなのである。
静かに祈ると決めて、心を騒がせる者などいない。
釈迦の言葉を最も純粋に表したと言われる『法句経』では、常に、「賢い人は心静かである」として、手を変え品を変えて、それを表現しているのである。

静かに祈る限り、祈りは全て叶えられる。
イエスは、「願いは既に叶えられたと思え。そうすれば叶えられる」と言ったが、叶えられたと思って狂喜乱舞していては、決して、願いは叶わない。
なぜなら、叶ったという確信とは、必ず静かなものであるのだからだ。

例えば、「金持ちになりたい」と静かに祈るとする。
すると、あなたが金持ちになることを妨げている理由が明らかになる。
それを、神が消すことを拒否しなければ金持ちになるのである。

「静かに祈る」
このことを忘れない限り、不幸になることはないであろう。








  
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