とりあえず「啓蒙家」と言うが、中村天風という、今でも沢山の崇拝者がいる凄い人がいたのだが、彼の教えの基本は、具体的には、片時も怠りなく肛門を引き締めよだった。
また、知名度では中村天風に劣るが、知る人にはやはり最高の偉人と思われてるはずの岡田虎二郎は、片時も怠ることなく、腹に力を込めよと教えた。だが、岡田虎二郎は、別に、念仏を唱えることでも良いし、何でも良いと言っており、中村天風の教えでも全然良いのだと思う。
そして、そこまでいかなくても、ほとんどの偉大な指導者の教えは、やはり、なるべく長時間、アファーメーションや真言、念仏、祈り言葉を唱えたり、瞑想したり、イメージしたりせよということだが、私は、長い間、研究した結果、それは完全に正しいのだという結論に達した。
その上で、それは私には難しいというか、有体に言えば、無理だと諦めた。
だけど、一度は挑戦することは無駄ではないと思う。
その結果、本当にやれたのなら、それで間違いないのだから、そのままやれば良いのである。

そして、私は、自分が、あり得ない奇跡を起こした時の状況を分析したり、意図的に奇跡を起こしてみた結果、効果としては、少なくとも、イエスがやることの1~3割は可能な、誰でも出来る方法があるのだと分かった。
そのやり方は、いろんな表現が出来てしまうが、思いつくままに言ってみる。
それは、1秒だけ、奇跡を起こせる者・・・イエスや釈迦になれば良いということである。
イエスや釈迦は、生きたまま、神や仏になれた人で、そのような存在を、キリストとかブッダ(仏陀)と言うのである。
つまり、1秒だけ、キリストやブッダになれば良いのである。
ずっと、キリストやブッダでいることは無理でも、1秒なら可能である。
イエスや釈迦がどんな人か知りたいなら、イエスなら、『新約聖書』の中の「福音書」、釈迦なら、『法句経(ダンマパダ)』を読み、イエスの言葉や釈迦の言葉を言うような人だと思えば良いと思う。
そんな言葉が自発的に出てくる者を、キリストとかブッダと言うのである。
そんな雰囲気を掴めば良い。
つまり、福音書は自分の物語で、『法句経』は自分が言ったことだと思えば良いのである。
仏教の他の経典でも良いが、『法華経』や『浄土三部経』などは、かなり作り話が入っているので、この目的に関しては、うまくいかないのではと思う。
また、『バガヴァッド・ギーター』を読んで、クリシュナ神になるというのも良いが、やや難しいと思う。

もし、面倒なら、『新約聖書』、『法句経』、『バガヴァッド・ギーター』を持って(あるいは、特に電子書籍の場合は持っているとイメージして)、「これは私の物語」「これは私の言葉」と思うだけで良い。
それで、1秒だけ、イエス、釈迦、クリシュナになりきるのである。
そして、その1秒の間に、願いが叶ったことを念じるのである。
細かく具体的に思わなくても、自分の願いが分かっていれば、「なった」と心で言えば良いのである。
「なった」でなくても、適切であると思う言葉であれば「消えた」「清くなった」「やれた」など、何でも良い。






  
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