「力なき正義は無能で、正義なき力は圧制である」という、数学者・哲学者のパスカルの言葉は、なんとも味わい深く、夢中になる人もいる。
空手家の大山倍達などは、この言葉を座右の銘にしていたらしい。
J.F.ケネディの大統領就任演説の中の、「兵器は圧倒的であってこそ使用されない」というのは、まさに、「力ある正義」と「正義ある力」の具現化を言ったのだと感じる。
また、アニメ「プリキュア」シリーズの初代作品『ふたりはプリキュア』で、ポイズニーという敵の女がプリキュア達に言った言葉が実に印象的だった。
「力のない正義は悪にも劣るのよ」
パスカルは、「力なき正義」は無能とは言ったが、悪とまでは言っていない。
しかし、ポイズニーが、「力なき正義は悪以下」だと言ったのは、それ(力なき正義)が「悪よりもっと悪い」ということで、こちらの方がむしろ鋭い、完璧な思想であると思うのだ。
つまり、社会において、無能は好ましくはないが、非難すべきものではないし、まして、排除してはいけないとされている。
無能者であっても権利があり、保護され、大事になれないといけないというのが、小市民の発想で、それが正しいはずだと、思いたがっている人が多いだろうが、それが建前に過ぎないことも、大人なら、誰でも知っている。
おそらく、生まれた時から悪の中で育ったポイズニーにとって、力のないものに何の値打ちもないことは、あまりに当たり前で、人間社会の建前には虫唾が走るといったところだろう。

今や、日本は、力を失う一方であるばかりか、正義でもなくなってきた。
それで、正義なき力である中国にいいようにあしらわれ、頼るべき米国は、バイデン政権以降は、やはり、正義なき力になりつつあり、日本はさらに窮地に追い込まれつつある・・・かもしれない。
日本は、自ら、力と正義を持たなくてはならない。そうでなければ、いずれ、アメリカか中国の属国になるしかない。

個人においても、「力と平安、どちらを求めるか?」と尋ねられたら、どう答えるだろう。
だが、実際は、力と平安はセットである・・・と言うより、同じものなのだ。
力が平安であり、平安は力だ。
それは、国でも同じで、共産主義国家がどれほど力をつけ、世界征服をしようが、平安がなければ(絶対、ないだろう)、それは偽物の力で、すぐに内紛で滅ぶ。ただ、その際(内部紛争で滅ぶ際)、世界規模で悲惨が起こるので、最初から、力ある正義に、愚かな野望を制止して欲しいところだが、頼みのアメリカが、力ある悪になってしまいかねない状態だ。

我々は、個人としても、力だけとか、平安だけを求めてはならない。
そこで、このブログでよく取り上げる「神様の奇跡が起こる」というアファーメーションを考えてみると面白い。
神は、無限の力を秘めながらも、人間にとっては、慈悲に満ちた平安の象徴だ。
そうではなく、神の力の面が強調されると、暴君的な神のイメージになってしまう。
やはり神は慈悲深い平安の主なのである。
一方、奇跡は、力の象徴である。
「神様の奇跡が起こる」と唱え続け、一億円を2回当てたホームレスにおいても、その奇跡とは、一億円という力であり、それを二度も(必要なら何度でも)得たのである。
「神様の奇跡が起こる」というアファーメーション(自己暗示とか祈りと呼んでも良い)が効果があるのは、このように、力と平安が、きちんとセットになっているからだ。
だから、力と平安を得るために、適当なやり方が決まらないなら、「神様の奇跡が起こる」と、心の中でゆっくり、穏やかに唱えると良いだろう。
そうすれば、内なる絶対の力である神が恵みを与えてくれる。
神は与えたくて仕方がないのだ。
そして、力と平安のバランスを取るためにも、力んで唱えたり、悲壮に唱えるのではなく、穏やかに、ゆっくり、丁寧に心の中で唱えることが大切である。








  
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