「ナンセンス文学」というものがある。
「ナンセンス」とは、「意味がない」「ばかげている」といった意味なので、「ナンセンス文学」とは、意味のない、馬鹿げた文学だ。
童話は、グリムでもペローでも、根本的にはナンセンス文学なのだと思う。
「この童話には、こんな教訓がある」などというのは、あくまで、後の世の人の1つの解釈、あるいは、想像であり、実際は何の意味もないと思って読んでも、読み方が間違っているとは言えない。
逆に、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』シリーズは、ナンセンス文学の代表のように言われるが、それらの作品に、どんな深い解釈を付けたって別に構わない。

そして、この世界や人生そのものがナンセンス文学なのである。
人生には何の意味もないと思えばそうであるし、深い意味があると思えば、やはりそうなのである。どちらの態度が正しいのかは分からない。

『魔王城でおやすみ』という、これこそナンセンス文学と思われる漫画・アニメ作品がある。
人間のお姫様のスヤリス姫が、人質として、魔王の城に捕らえられ監禁されるが、害されることもなく、それなりの待遇を受けていた。
だが、スヤリス姫が「枕が固くて眠れない」と思っていたら、ふかふかの毛の動物(魔獣か妖精)が現れ、スヤリス姫は、その毛を使って、モフモフの枕を作る。また、シーツの触り心地が悪いと思ったら、スベスベの肌触りの布の魔物が現れ、スヤリス姫は。その魔物の身体をシーツにしてしまう。
望んだものが、すぐに都合よく現れるところは、童話の基本と思う。
例えば、白雪姫では、森の中に捨てられた白雪姫は、都合よく七人の小人の家を見つけるし、シンデレラでは、これもあまりに都合よく、魔法使いのお婆さんが現れる。
「やっぱり漫画」「やっぱり童話」と思うかもしれないが、我々の人生だって、絶対に同じなのだ。
私だって、「こんなものがあればいいな」とか「こんな人がいればいいな」と思うと、必ず、そんなものや人が出現する。
思い返してみると、それはもう確実なのである。
例えば、勤めていた会社が面白くなく、「別の会社に変わりたいなあ。しかし、就職活動は面倒だ」と思っていたら、ある日突然、別の部署の課長が「ちょっと休暇を取って付き合ってくれないか」と言い出すので、「ああ、いいですよ」と一緒に行ったのは、その課長の先輩が経営する会社で、本当は、課長がそこに入社したかったのだが、なりゆきで私が「ああ、入ってもいいですよ」といった感じで入社し、厚遇された。
「いや、俺はそんなにうまくいったことはないぞ」と言うなら、何か間違えているのである。
多分、何でも自分の小さな頭で考えてしまい、なりゆきにまかせようという心構えが足りないのだ。
なりゆきにまかせることの大切さは、『荘子』や『新約聖書』のイエスの言葉を読めば分かると思う。
スヤリス姫のように、何も考えないか、あるいは、気楽で良い気分でいれば、都合の良いことは必ず起こる。
まあ、確かに、歳を取るほど、そんなマインドでいるのが難しくなるが、出来ないわけではない。
「私は最高の気分だ」という言葉を、心の中で、静かにゆっくり(つまり丁寧に)繰り返すことだ。
「私は〇〇だ」と繰り返し唱えれば、そうなるように宇宙は出来ているのである。
そして、気分が良ければ、良いことが起こることもまた、宇宙の仕組みなのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ