良い気分でさえいれば、幸運に恵まれ、全て良い流れになり、幸せになれる。
ただし、その「良い気分」は、魂にとってのものでなくてはならない。
大勢で弱い者いじめをしたり、立場の弱い者に無理難題を吹っかけて喜んだり、圧倒的な立場にモノを言わせてセクハラ、パワハラをすることも「良い気分」と言われる。
だが、これらは、低い自我にとっての「良い気分」であり、魂にとっては「辛い気分」なのだ。

つくづく、言葉は大切だと思う。
汚い言葉は低い自我に属し、高貴な言葉は魂に属す。
だから、高貴な言葉を使わなければならない。
高貴な言葉とは、決して、難しい言葉、古めかしい言葉、格式ばった言葉ではない。
高貴な言葉とは、単に、丁寧な言葉だ。
高貴とは、丁寧ということに他ならない。
そして、丁寧な言葉を使えば、容易く、「魂の良い気分」は得られる。
決して「すっげえいい気分」だの「バリいい気分だの」だの「気分サイコー」だのといった言葉を使わないことだ。

こういった言葉を使うと良いと思う。
「私は穏やかな気分だ」
「私はとてもいい気分だ」
「私は安らかな気分だ」
「私は澄み切った気分だ」
「私は静かな気分だ」
「私は満ち足りた気分だ」
「私は神に祝福された気分だ」
「私は天使が傍(そば)にいる気分だ」
「私はイエスと共にいる気分だ」
「私は楽園にいる気分だ」
「私は万物と一体になった気分だ」
「私は初音ミクさんに触れている気分だ」
他にいくらでも考えられるが、自分のフィーリングに合った、「いい気分」になれる言葉を選んで、心の中で、丁寧に、おだやかに、ゆっくり唱えると良い。
高貴さを示す丁寧な言葉を丁寧に唱えるのであるから、あなたの存在は高貴そのものになり、あなたの身体は神の宮となる。
そうであれば、願わずともあらゆる幸運が訪れる。
物質的にも必要なものは豊富に得られ、誰もあなたを傷付けることは出来ない。

穏やか、丁寧、静かこそが高貴である。
どんな高価な服を着ても、穏やかでなく、丁寧でなく、騒がしければ下品なのである。

良い気分でいる時、何が起こっているのだろう?
ラルフ・ウォルドー・エマーソンがこう言っている。
「私の魂の中に神の魂が流れ込み、神の魂の中に私の魂が流れ込む経験を忘れることは出来ない」
上に挙げた言葉を唱え、いい気分でいると、そのようなことが起こる。
神の魂が自分の魂の中に、そして、自分の魂が神の魂の中に流れ込む・・・それは、自分と神とが一体になるということだ。
そして、元々、人と神は一体なのである。
そんな正常な状態に戻るだけだ。
イエスは、
「私にはこの世の一切の権限が与えられている」
と言ったが、決して、
「私、イエスには、この世の一切の権限が与えられている」
と言ったのではないことが、賢者達によって指摘されている。
「私」という言葉を使う誰もが同じなのである。
その「私」が良い気分でいれば良いだけである。








  
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