いつまでも、うだつが上がらず、苦労ばかりしている人には、2つの特徴がある。
1つは、目標がコロコロ変わること。
もう1つは、批判的であることだ。

目標がコロコロ変わるというのは、足りないものばかりが気になり、それを埋めようとするからだが、そんなものは誰でもいっぱいある。
人間は多くのものを求めると、欲深で見苦しくなる。
欲深い人間は、何も成さない。
そして、批判的である者には、決して、良いことは起こらない。
例えば、SNSに何かの文句ばかり書いている者に、楽しい想いをしている者はいない。

目標が定まらないことを自覚している者が、目標を絞ってみても仕方がない場合が多い。
なぜなら、どうせ、その目標からもブレて、やっぱり、次々に、違う目標を追いかけるようになるからだ。
一方、ビル・ゲイツのように、高校生の時に、「25歳までに100万ドル(約1憶円)作る」という目標を立て、それをずっと保つ人間というのは、「意思が固い」と言うよりは、「どこかおかしい」のである。
多分、彼は、普通の人なら発達しているような部分が未発達なおかげで、そんな固い意思を持てるのだ。
これは、ちょっと分かり難いと思うが、こういうことだ。
実際にあったことだが、ある7歳の女の子が、レオナルド・ダ・ヴィンチ並の素晴らしい動物デッサンを描くので、「天才か?」と言われたが、彼女は言語脳の発達が遅れていた分、偶然、脳の絵を描くことに関わる部分が発達したのだ。そして、言語脳の発達と共に、その異常に発達した絵を描くことに関わる部分の脳も普通に戻り、彼女の絵の才能も消えたのである。
この女の子に限らず、子供の時、異常な才能を示す子供というのは、時々いる。
この女の子のように、おそらく、天才というのは、足りない部分があるせいで、別の特定の能力が高くなっただけなのだ。
実際、天才というのは、誰にも出来ないことが出来る反面、普通の人が簡単に出来ることで、さっぱり出来ないことがあるものだ。

さて、幸か不幸か、「欠陥がないおかげで天才にもなれなかった」我々は、欲深く、欲しいものがコロコロ変わり、結局、何も成し遂げないまま一生を終わる。
さらに、批判的だと、どん底になる可能性が高い。
では、どうすれば良いかというと、目標の抽象度を上げるのだ。
例えば、「目標1憶円」としたら、その目標は、コロコロ変わる。
だが、抽象的に、「私は裕福だ」を目標にしたら、「貧しいよりは裕福な方が良い」のは明白なので、この目標は持続する。

批判的であることは、なかなか治らない。
本人がそれを欠点と思わず、むしろ、美点と誤解している場合も多く、そんな場合は救いようがない。
だが、人生で散々苦労し、辛酸を嘗めてきたなら、いい加減、批判は不幸になるだけの下らない習性だと気付いて欲しいものだ。
それで、幸い、自分は批判ばかりしている嫌なやつだと分かったら(本当は分からなくても良いが)、こう唱えよ。
「私は在る」
と。
これが続かないなら、あなたの責任で、もう終わりだ。
しかし、唱え続けるなら、神の責任で、状況は変わる。

まとめて言えば、空回りばかりで、頭を打つだけの人生に疲れたなら、
「私は在る」
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
と唱えることだ。
99%は続かないだろうが、続いた1%が楽しい人生になる確率は、おそらく100%だ。
なぜ「おそらく」なんて逃げを打つようなことを言うのかというと、理屈ではそうなる(つまり、それほど明白)のだが、続けられた者を滅多に見たことがないからだ。
それに、良い方向に行くと、悪魔のようなものもちょっかいを出してくるので、それに惑わされないよう続けないといけないが、敵もなかなか曲者なのだ。
だが、本来は、悪魔など、恐るるに足りない。なぜなら、欲深でなく、批判が好きでない本当の自分は、悪魔よりずっと強いからだ。








  
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