私は高校生の時、ゲーテが彼のどれかの詩で、「どんな立場の人間も、所詮は人格が一番大事だ」といった意味のことを書いているのを見て、完全に同意した鮮烈な思い出がある。
良い人生になるかどうかは所詮人格で決まる。
高い人格とは、人間性が磨かれて出来るもので、人間性を磨くには、少々、厳しい面もある。
ただし、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言うように、確かに、苦労は人間性を磨き、人格を高めることが多いが、必ずしも、苦労が人格を高めるわけではない。

ところで、アニメや漫画では、中学生や高校生の男女が素晴らしい恋愛をする話が多い・・・いや、ほぼ全てがそうだと言えるだろう。
だが、素晴らしい恋愛には、ある程度の人格が必要なのである。
そして、アニメの主要な登場人物達は、欠点はあるにしても、よく考えたら、あの若さで信じられない人格を持っていることに、私は啞然とするのである。
(『カードキャプターさくら』の小学4年生のヒロイン、木之元桜は中身は50代以上と思っている)
素晴らしい容姿を持っている者は、恋愛がし易いかもしれないが、それが素晴らしい恋愛になるには、必ず、それなりの人格が必要なのである。
確かに、恋愛が人格を磨くという面もあるが、最初から、ある程度の人格がなければ、そもそもが、まともな恋愛にはならない。
中学生や高校生で、彼氏彼女がいて、それなりに幸福にやっている者というのは、人間的に大したやつらなのであることは疑いない。

ところが、20代はおろか、30代やそれ以上でも(老齢でも)、良い恋愛に足る人格を持っていない者が多い。
現在、未婚が多いことに対し、肯定的な解釈がされることも多くなったが、実際は、単に、恋愛に必要な人間性、即ち、人格がないだけなのだ。
その証拠に、未婚が高いに関わらず、離婚が多い。
人間性の低い者同士(片方の人間性だけが低い場合もあるかもしれないが)結婚しても、うまくいくはずがなく、離婚にいたるのは当然で、離婚しない場合には家庭が崩壊する。
家庭崩壊の原因も、単に、夫婦の人格の問題である。

人格は道徳に表れ、道徳は普通、伝統やしきたりの中で教えられるが、伝統やしきたりを効率的に教えられるのは宗教だ。
新渡戸稲造が『武士道』を書いたきっかけは、キリスト教徒の婦人が新渡戸に、「日本では宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と非難混じりに問うたからで、新渡戸は、日本には武士道ありと言いたかったのだろうが、はっきり言って無茶苦茶である。
武士道にも良い面、あるいは、非常に優れた面もあるだろう。
しかし、早い話が難し過ぎるし、それ以前に、曖昧過ぎる。これで道徳を教えるなど、スポーツ教育を竹馬競争に限定するようなものだ。
新渡戸稲造に、日本人が宗教教育をしないことを批判した婦人は、宗教が道徳教育になると考えているのだろうが、必ずしもそうではないだろう。
とはいえ、敬虔なキリスト教徒の家庭であれば、かなりの割合で、子供は必要な人格を備えることになるのではないかと思う。
少なくとも4割、ひょっとしたら、6~7割以上かもしれない(あくまで「敬虔な」キリスト教徒の家庭)。
今日、キリスト教圏の人々の人格が貧しく、離婚が多いのは、宗教が廃れたからという面もあると思う。
こう言うと、極端論者が「宗教を教えれば人格が良い人ばかりになるのですか?」などと馬鹿を言うかもしれないが、極端論もまた、人格の低さの現れなのである。

なぜ、人格の話を長々としたのかというと、人格が人生を決めることが確実だからだし、それはもう、周囲を見ても、世界を見てもだが、何より、自分を見れば痛いほど分かる(笑)。
人生がロクでもなかった原因は、人格が低いこと以外の何物でもなかったことは、純粋にして明白である。
そして、私のように人格が低ければ、所詮、何をやっても駄目で、人生は苦労続き、困難続き、落胆続き、不条理続きで、生命力を失い、やがて、地面に這いつくばるしかない。
キリスト教・・・というより、信仰者は少ないが、本来のユダヤ教は、人間性を磨くのに優れたものだったし、キリスト教も、まずまずなのであると思う。
日本では、ユダヤ教にとても良く似た神道(神道はユダヤ教が元になっているという説もある)が、やはり、人格を育てる良いものだった。
イスラム教も、本当のものはそうかもしれない。
一方で、仏教というのは、人格を得損なった哀れな人間の救済のためにあるのだと思える。
いや、正しくは、仏教も2通りあり、子供に人格を与えるというところも確かにあるが、今日の主流は欠陥人間救済である。
それで、本来は、浄土仏教(浄土宗、浄土真宗)の定番であった、念仏や、念仏的な真言が多くなってきたのである。
念仏、真言は、欠陥人間・・・そのままでは、人生の敗残者になる哀れな駄目人間を救うのである。
逆に言えば、念仏、真言、あるいは、それに類したものでしか、堕落した駄目人間を救えない。
念仏、真言に類したものとは、例えば、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱える行)や、聖句のようなアファーメーションである。
私がいつも述べているのは、欠陥人間救済法であり、人格が優れた人間・・・中学生や高校生の時に良い恋愛が出来た者には笑えるものだろう。
とはいえ、かつては人格高かった人間も、こちら側に来る場合が多く、きっとお役に立てるだろう。








  
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