イエスは、
「山に向かって、『歩いて海に入れ』と命じ、その通りになると信じて疑わなければ、そうなる」
と言った。
しかし、誰が、本当に、山に歩いて海に入って欲しいと思うだろう?
一方、戦争に行く息子に、生きて帰って来て欲しいとは、本当に願うだろうが、その願いが叶わないこともある。
では、その場合は、必ず生きて帰って来ると完全に信じていなかったからということになるのだろうか?
だが、知性ある人間は、様々な可能性のあること、つまり、本来、確率的なことを完全に信じることは出来ない。
では、どうすれば願いが叶うのだろう?

『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「どの神に祈っても、願いは叶えられる」
と言っている。
けれども、それではと、
「わが神、サラスヴァティー(ヒンズー教の女神)よ、あの子が私のプロポーズを受けて下さいますように」
とお祈りをしてから、その子にプロポーズをしても、まあ、駄目なものは駄目だ(笑)。
だが、クリシュナは、こうも言っているのだ。
「正しい祈りは、私に祈ることだ」
つまり、他の神に祈ることは、本来は正しくないのだと言うわけだ。
そこで、心を改め、
「クリシュナよ、あの子が私のプロポーズにOKして下さいますよう」
と祈っても、やっぱり、どうなるかは分からない。
それでは困る。
では、どうすれば?

ところで、イエスだって、磔になる前に、
「父なる神よ、出来るなら、悪いこと(自分が逮捕されて磔になること)が起こりませんように」
と、お祈りしているのである。
ただ、イエスは、その後、こうも祈っているのだ。
「ただし、あなた(神)の想いが実現しますように」
つまり、死ぬのは嫌だが、「後はまかせる」と、神に下駄を預けてしまったのだ。
その結果、イエスの願いは叶わなかったと思うだろうか?
まさか!
確かに、イエスは、その後、逮捕され、磔にされて殺されてしまった。
しかし、その3日後、イエスは完全な神になり、何でも自由自在になったではないか?
だが、一度死ななければ、そうならなかったのだ。
簡単に喩えれば、神様に「あの子が僕の彼女になるますように」と祈ったのに、その子には振られてしまったが、実は、その子は悪い女だと分かり、そして、その子の百倍可愛い彼女が出来た・・・そんな感じだ。
だから、何でも願えば良いが、必ず、神様に「下駄を預ける」ことだ。

さて、イエスは最後に、もっと大事なことを教えてくれている。
「私の名によって願うことは、全て叶えられるだろう」
名前と実体は等しいのである。
イエスという名は、イエスそのものなのだ。
だから、いつもイエスの名を憶念する、つまり、心の中で唱えることだ。
神仏の名を心で唱える行を「ナーマスマラナ」と言う。
この、人類に唯一残された、誰がやっても効果がある、この行をやることだ。
念仏も、ナーマスマラナの1つであり、釈迦も、これでしか救われないと言ったという説がある。
どの神、あるいは、仏でも良い。
その名を唱えることである。
一方、願い事の内容は、いちいち言わなくて良い。
そんなこと、イエスも言ったように、「神はとっくにご存じ」なのだ。
旧約聖書にも書かれている通り、神は、呼ぶ前に答えるお方なのである。
つまりだ。
ナーマスマラナ(念仏もその1つ)をすれば良いだけなのである。
さらに懇切丁寧に言えば、ナーマスマラナをしながら、神仏に下駄を預けることである。








  
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