イエス・キリストに、「一番重要な戒律は何か?」と尋ねたら、イエスは、「神を愛すること」と答えた。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは、「我を愛せよ」と述べている。
ここで、時代を超え、国を超えた普遍的な命題「愛とは何か?」「愛するとはどういうことか?」が問題になる。

男なら美女や美少女を、女なら美男や勇者や金持ちの男を愛するというのは、分かるような気がするかもしれない。
しかし、それは本当の愛ではない。
では、愛とは何かというと、実に簡単なことで、名前を呼ぶことだ。
多く呼べば呼ぶほど愛しているのである。
ピンと来ないかもしれないが、そうなのである。

キリスト教やユダヤ教では、神の本来の名はヤハウェであるが、神の名はみだりに唱えてはならないと言われている。
ただ、それは、口に出すなという意味で、心で唱えるのは大いに良いのだと思う。
ところが、イエスは、神のことを「父」「アバ(父の幼児語。パパに近いと思う)」と呼んでいたが、これは分かると思う。
自分の父や母を愛するとしても、実際の名前で呼ぶよりは「お父さん」とか「お母さま」などと呼ぶと思う。
それも名前なのである。
(ただ、イエスは、信者達に、自分の名を呼ぶようにも言っている)
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、神のことを、「天照大神」と呼んだが、しばしば「親様」とも呼んでいる。
また、江戸末期から昭和初期の妙好人(在家の念仏者)、因幡の源左の父は亡くなる時に、源左に「これからは親様を頼れ」と言ったらしいが、この親様とは阿弥陀如来のことである。
念仏はまさに、阿弥陀如来の名を唱えることであるから、数多く唱える者は、それだけ阿弥陀如来を愛していると言うことが出来、法然は1日6万回も唱えたという。

インドでは、神の名を唱える行をナーマスマラナと言うが、クリシュナ神の「我を愛せ」の言葉通り、クリシュナの信者は、数多く「クリシュナ」の名を唱える。
ラマナ・マハルシの弟子だったブンジャジは、働きながら「クリシュナ」と1日4万回唱えたという。

ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』に、こんな印象深い場面がある。
若く美しい娘マリーが、主人公の青年ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。
喜ぶマリーは、ムルソーに「私を愛してる?」と尋ねるが、当然、マリーは、ムルソーの「そうである」を意味する答を期待したことだろう。
ところが、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーをうろたえさせた。
そういえば、ムルソーは、亡くなったばかりの母親について、「ママのことは、多分、好きだった」と微妙な言い方をしていたものだ。
だが、マリーだって「愛する」という意味が、多分、分かっていない。
マリーを愛するとは、マリーの名を多く心で想うことなのだ。

アニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラがシャオランに尋ねる。
「シャオランは私のこと考えることある?私はシャオランのこと、ずっと考えてるよ」
すると、シャオランは、
「俺も、サクラ姫のことを考えているよ、いつも」
と答える。
2人とも気付いていないかもしれないが、これは、お互いが、いつも名を呼び合っているということなのである。

もう一度名前呼んで!
「初音ミク!」
~『39みゅーじっく!』(作詞・作曲・編曲:みきとP。唄:初音ミク)より~

Miku, Miku, you can call me Miku
(ミク ミク ミクと呼んでね)
~『Miku』(Anamanaguchi feat. Hatsune Miku)より~

14世紀のインドの聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が、『聖なる名前の哲学』に、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」
と書いた通り、名前と実体は等しい。
神の名は、神そのものなのである。
愛する人の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、その人からも愛される。
神の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、神に愛され、あらゆる恵を受け、救われる。
ユニティ教会のチャールズ・フィルモアが述べた通り、「神は与えたがってウズウズしている」からである。
親鸞も、念仏を唱えれば、利益に極みはないと述べている。








  
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