幻想でしかなく、嘘だらけのこの世界で、ただ1つの真実があるとすれば、それは「名前」だけだ。
なぜそうなのかは、直観でしか分からない。
本来の名前とは別に、俗称や愛称が広まっていれば、その俗称や愛称も名前になる。
名前が、場所によって異なる発音で呼ばれるなら、その異なった発音の名もまた正しい名前である。
例えば、イエス・キリストの「イエス」は、ヘブライ語ではイェーシュアだが、アメリカではジーザスだし、日本では、イエスの他にイエズスとも言うが、どれも正しい名前である。

そして、名前が実体と同じであることが、この世界の最大の秘密だ。
あなたが外国に行って、別れ難い素晴らしい人に会ったら、必ず名前を聞くはずだ。
そして、その名前の発音に間違いがないか、何度も本人に確認すると思う。
その名前を憶えていて、心の中でその名を想う限り、事実として、あなたは、その人と共に在るのである。
尚、間違った発音で覚えてしまっていても、それがその人の名前だと認識する限り、やはり、その名前が実体なのである。

イエス・キリストの名としてイエスの名を想えば・・・つまり、心で「イエス」と唱えれば、即ち、イエスは共にある。
阿弥陀仏も観世音菩薩も、あるいは、天照大神も同じである。
観世音菩薩がどのような存在か知らなくても、「観世音菩薩」と心で唱えていれば、それが直接に分かる。本で読むより明晰に分かるのである。

自分探しなどと言い、自分を探すために旅をしたり、何か特別なことをやったりする人もいるだろうが、自分を知りたければ、自分の名を心で唱えれば良い。それ以上の自分探しはない。
ところで、本当の自分の名前は何だろう?
それは「私」である。どんな言語にもある一人称である。
はっきり自分を指すと感じるなら、「我」でも「余」でも構わない。
「私、私、・・・」と心で唱えていると、本当の自分が分かる。
人間は、自分のことが一番の謎なのだ。
それは、本当の自分が予想も出来ないものであることを示唆している。
しかし、「私」と心で唱えていれば、それが明らかになる。

だが、それよりも、神仏の名を唱え、神仏と共に、世界を創る方が良いのではないかと思う。
なぜかと言うと、その方が単に楽しいからであるが、そもそも、それが、あなたがこの世にある理由である。
この世で本当に楽しむことに満足すれば、ますます、真の自分への関心が起こるだろう。

これらのことを知れば、誰も、また、何もあなたに敵対出来ないのに、なかなかこの知識はやって来ないし、たとえ来ても、皆、見過ごしてしまう。
まだ、そういった時期なのだろう。

ところで、面白い話を披露しておく(面白くないかもしれないがw)。
私は一頃、あるきっかけで、「インマクラダ・カウンセプシウ」という名を覚え、この名をよく心の中で想っていた(唱えていた)。
「インマクラダ・カウンセプシウ」とは「無原罪の宿り」という意味で、聖母マリアの別名である。
私に起こった一連の不思議な出来事は、それが原因だったのだと、最近になって分かった次第である。
そして、このような覚え方、唱え方でも良いのだと分かったのである。








  
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