経験豊かな人間とか、生きた知識が多い物知りな人がいる。
一方、冒険的行動が少なければ、経験や生きた知識は少ない。
現代は、40代、50代以上でも、ほとんど就労したことがない引きこもりや、働いているとしても1つの会社にずっと勤めていて世間が狭い者が多いが、そんな者達も、経験や生きた知識が少ない。
当然だが、試験の点を取るためだけの知識が多い者は、本当に大切なことは何も知らない。

ところで、いかに経験豊かな者でも、全く未経験で見当もつかないことや、いかに物知りでも、全く知らずに恥をかくことはいくらでもある。
事業で大きな実績がある人は、経験や生きた知識が大きく、そういった人間的な厚みの点でも、人々から称賛され、畏敬の目で見られることもあるが、1人の人間が経験出来ることや、知ることが出来ることは、たかが知れている。
世界一級のビジネスマンや軍人、革命家も、ニートの引きこもりと大した違いはない。
老子、荘子の老荘思想(「タオイズム」と言うこともある)では、そのように考えるのだと思う。
『荘子』には、「生まれてすぐ死ぬ赤ん坊も、800歳生きたと言われる彭祖(ほうそ)という伝説の人物も同じである」とあり、さらに、「一本の指もまた天下である」と記されている。

『愛と誠』という古い漫画で、こんな興味深い場面があった。
座王与平(ざおうよへい)は、実業界も政界もヤクザ社会も影から操る超大物である。
また、与平は、若い時は、中国大陸で馬賊を率いていたと言い、拳銃を撃てば今でも百発百中の腕前という、どこまでも凄い人物で、貫禄も半端ではない。
ところが、与平は、なぜか、主人公の、高校1年生である早乙女愛に対し、まるで冴えないオッサンか、シャイでダサい大学生のように低姿勢で接する。
愛の父親も相当な大物であるが、与平は全く各違いと言えるほど上で、愛の父親に対しては与平は完全に見下した態度で接し、逆に、愛の父親は与平に対し、王様に対する家臣のようにビクビクしながら接していた。
それなのに、与平は、愛に対してはだらしないほど「負けている」。確かに愛は超がつく美少女であるが、別に、与平が若い子好みの好きものというわけでもない。
与平が愛に対し、慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しい)である理由の1つは、与平の亡くなった内縁の妻が愛に似ている(ただし、目だけ。愛とは月とスッポンというほど大して美人でなかったと与平は言う)ことだが、それだけではあるまい。
愛に、年齢や経験を超えた深いものがあるからだ。
それで思うのだが、与平とて、自分が何でも知っていると己惚れているのではない。むしろ、自分はほとんど何も知らないと思ってるに違いない。だからこそ、超大物なのだ。

つまり、いかに経験豊かで知識が豊富であるとしても、「俺に分からないことはない」と思っているなら、大したことはないのである。
大事業家になれば、周りが持ち上げるので、ついつい己惚れてしまって、「世界には自分に分からないことが沢山ある」ことを忘れ、ただのモウロク爺さんになることが多いのはそのためである。
逆に、経験や知識が少なくても、自分が無知であることを本当に自覚していれば、若くても大物である。
それに対し、若い人で、天才的な能力があっても、(特に外見も良い場合にそうなるが)もてはやされてしまい、それで己惚れてしまえば、見苦しい雑魚に過ぎないだろう。
ソクラテスは「私が知っている唯一のことは、私が何も知らないということだ」と言ったらしいが、自然にそう思うなら、いかなる相手も恐れないだろう。
ここまでは指摘する者は多いが、では、どうすれば、そうなれるかを単純に言う者は少ない。
その方法は、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること。純粋な念仏もその1つ)である。
もし、早乙女愛のような者がいるとしたら、その者は、人間を超えた存在を感じているはずである。
それを無意識に行えるほどであれば、天使や菩薩のようなものであり、小説や漫画であれば、そのような人物を描くことも出来るが、実際には、ナーマスマラナを行うより他、そのようになるのは難しい。
ナーマスマラナは、ナーマ(名前)をスマラナ(心で唱える)というように、必ず、心の中で唱えなければならない。それも、丁寧に数多く。
声に出して唱えると、宗教に巻き込まれる恐れがあるし、他者の存在や反応により、成果が少ないか、逆に、負の影響を受けかねない。
心の中は宮殿のようなものだ。そこに静かに引きこもって、敬虔に神仏の名を唱えれば、神仏と親しく交わり、融合して一体となるのである。
「神と和らぎなさい。そうすれば平安を得るだろう」(旧約聖書、ヨブ記より)。








  
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