世界は実体ではなく幻のようなものであるというのは、はるか昔のインドで断定的に語られていた。
ところが、実際は、インドだけでなく、およそあらゆる文明発祥地で、何らかの形では、古くからそう言い伝えられている。
そして、科学的実証がないまま、哲学や思想において、それ(世界は幻であり実体でない)が真実であることは、かなり確固としたものになっていった。
その後、物理学において「人間原理(「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という人間本位の論)」の解釈として、世界の有り様が人間に依存していると考えられ、また、精神科学や量子論などで、世界は脳、あるいは、心が作り出す幻のようなものであることが、理論、ないし、仮説として説明出来るようになった。
日本においては、思想家の吉本隆明氏の『共同幻想論』や、それをヒントにしたと思われる心理学者の岸田秀氏の『唯幻論』が一般の知的層に人気があるが、これらを、彼らと近い年代の解剖学者の養老孟子氏の『唯脳論』と併せて考えると、話が噛みあう部分が多いと思う。

インドのラマナ・マハルシによれば、世界は心が作り出した幻想であるが、心が活動しているなら、真の自己である真我は隠れてしまっている。
心が消えることで、(隠れていた)真我が現れるが、そうなれば、心に依存する(つまり、心が作った幻である)世界は消える。
そして、真我が神なのである。
よって、世界が実在として現れている時、人間は神ではなく惨めで卑小な人間であり、人間が神になれば、世界は存在しない。
世界は、(偽の自己である)心が作った夢のようなものであるが、実際、マハルシは、夢と現実世界に何も違いはないと言う。

世界が幻であると言っても、誰もが楽しい夢を見たがるように、世界が楽しい幻であることを望むだろう。
では、楽しい幻とは何だろう?
それは、自由であることだ。言い換えれば、何者にも隷属しないということだ。
しかし、我々は、嫌悪する者達に隷属させられていると感じており、よって、この世界は楽しくない夢で、自殺してさっさと終わらせたがる者も増えてきた。

それなら、隷属を止めれば良い。
それには、どうすれば良いか?
神仏の名を唱えるナーマスマラナしかない。念仏もこれに含まれる。
なぜ、神仏の名を唱えると隷属から解放されるかというと、割と簡単な理屈である。
つまり、絶えず、心で神仏の名を唱えている者は、神仏にのみ従うと深い心で選択しているのであり、深い心で絶えず想うことは嫌でも実現される。
そして、ラマナ・マハルシが言う通り、神仏は真の自己であるのだから、神仏の名を唱える者は、実際は、自分が自分に従うことになるのである。
それこそが、本当の自由であろう。
だから、ナーマスマラナを行っている者は自由自在であり、そうやって世界を愉しむことで世界への執着から解放されれば、世界の一切は、真の自己である神仏なのである。












  
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