人間にとって一番大切なものは何だろう?
「もちろん命に決まっている」と言う者が多いと思うが、それが間違いとは言えない。
しかし、命より名誉を重んじる人もいれば、「いや、愛である」と言う者もいる。
まあ、「いや、一番大事なのはお金だ」と言うのは、なかなか共感や賛同を得られないかもしれないが、他人が否定出来ることではないかもしれない。
どの回答にも、明確な反論は不能で、議論を始めたらキリがない。
だが、一番大切なものは名誉や愛、あるいは、お金だと言う者は、極限まで行ったことがないのだ。つまり、それなりに恵まれていたはずだ。
それは、一番大切なものが命だと言う者でもそうである。
なぜなら、極限まで行けば、人間は割と容易く自分で命を絶ってしまえるからだ。

貧しく無知な女性であるサックバーイーは「一番大切なもの、それは神の名です」と断言し、それを聞いて震撼した偉大な聖者ナーマデーヴァは、サックバーイーの弟子になった。
本当に苦しい時、人は神に祈るとしても、何々を下さいとか、何々をして下さいなどとは言わないものだ。
せいぜいが、「ヘルプ!(助けて!)」と言うし、本当の極限状態では、それすら言わない。
ただ「神様!」と、普通は心で言うだろう。
純真無垢な12歳の少女だったサックバーイーが非道な家に嫁がされた時は、まさにそんな状況だったと思われる。
サックバーイーはパーンドゥランガ(クリシュナ神)を信仰していたので、パーンドゥランガの名を心で唱え続け、そして、救われたのである。
ナーマデーヴァは、神の名を唱えることの教義や、それに隠された原理を『聖なる名前の哲学』という短い手記にまとめた。
短いながら、それは偉大な聖典であり、一度読んで分かるようなものではないが、ナーマデーヴァ自身が神の名を唱えていたことが分かれば、同じことをすれば良いことはすぐに分かる。
仏教で言えば、仏の名を唱えることになる。
真言宗、浄土宗、浄土真宗の始祖とも言われる龍樹が、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の『易行品』で、「阿弥陀仏などの仏、菩薩の名を称せよ」と記しており、それが、後に念仏になったのである。
(ただし、龍樹はそれを『観無量寿経』や『阿弥陀経』など、『浄土三部経』を元にしたと考えられている)
従って、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることが、サックバーイーやナーマデーヴァの神の名を唱えることと同じだし、「阿弥陀仏」「阿弥陀」「阿弥陀様」と唱えても良い。
同じく、観世音菩薩を信仰するなら(あるいは単に好きなら)、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」「観音様」と唱えれば良いのである。
家の宗派が何であるかは関係ない。神仏の名は心で唱えるのであるから、どの仏の名を唱えているかは誰にも分からず、よって、問題が起こることもない。

親鸞の教えが書かれた『歎異抄』と併せて考えると、我々は神仏の名を唱えること以外、何もやることはない。
何もやる必要はないということに関しては、ナーマデーヴァを心から崇拝していたインドの聖者ラマナ・マハルシも同じことを述べている。
ただ、正確に言えば、マハルシの場合、実際に、我々は何もしていないのだと言う。
為されるべき行為は為されてしまい、起こるべき出来事は起こってしまう。
それを、自分がしている、自分がしなければならないと思うのは迷いである。
大人になれば、働かなくてはならないと言われる。
だが、マハルシは、「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
マハルシ自身、社会的な仕事に就いたことはないし、私も、会社勤めをしていた時でも、仕事をしたことはほとんどなかった。
何もしなくて良いが、敢えて言えば、神仏の名を唱えることだけはした方が良い。それも、出来るだけ多く。
そうすれば、全てはうまくいくだろう。








  
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